2024年4月

 4月7日

「神様をほめたたえること」 佐野 治牧師

エフェソの信徒への手紙1章1~6節

 

エフェソの信徒への手紙を、本日からしばらくの間、皆さんと読み進めてゆきたいと思います。この手紙は、異邦人のパウロがエフェソの信徒たちに書いた手紙として読まれてきました。今日では、この手紙の著者が誰か、また誰に宛てて書かれた手紙なのか別の理解がなされています。

 1節を見てみますと「エフェソにいる聖なる者たちへ」と記されていますが、この「エフェソにいる」と記載されているのは、比較的後代の写本においてだと言われています。時代は、おそらく1世紀末90年代と思われます。手紙の受け取り手は、信仰を与えられて、2代目か3代目のキリスト者たちと思われます。ですから、同じアジア州の教会に宛てられた手紙の、ガラテアの信徒への手紙の中で問題にしていたユダヤ人キリスト者による、割礼問題や律法へのこだわりによる異なる福音の危険は、出てきません。しかし教会は、別の問題に直面をしていたのです。

3節をお読みします。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。」パウロは、エフェソの信徒への手紙の本文をこのような賛美の言葉から書き始めています。何よりもまず、神様がほめたたえられますように。それがパウロの切なる願いであったのです。そして何にもまして、最初に神様をほめたたえることこそが、キリスト教徒であることの本来の意味であるからこそ、パウロはこのように言っているのです。神様をほめたたえることは、信仰者にとっての義務ではありません。実はこれは、最大の特徴であって、最大の喜びであるのです。

皆さんにお聞きします。神様がなぜ私をキリスト教徒として招いて下さったのでしょうか。私自身も思います。「なぜこんな私が?」と。ですから、この答えはやはり、私たち自身には到底分からないことなのです。これはまさに、神様の選びに他ならないのです。

 パウロは「キリストにあって神がお選びになった」と言うことを強調しています。神様の選びとは何でしょうか。それは私たちの救いが、自分自身の力によってではなく、究極的に言うのでしたら、神様が私たちの救いに責任を負って下さっている、と言うことなのです。私たちの救いもまた、新しくされるのです。自分の立派さや優秀さに基づいての事ではなくて、全く神様の恵みによる選びとしか言いようがありません。だからこそ私たちは、自分を誇るのではなくて、神さまに感謝し、神様を誇るのです。

 わたしたちは、神様に選ばれて、神の子とされたのです。わたしたちはそのことをいつも心に留めておかなければなりません。神様の大いなる恵みを受けた私たちは何者なのでしょうか。神様が私たちのために何をして下さったのかを、この復活日を迎えた今、今一度心に刻み付けてゆきたいと思うのです

 

 4月14日

「神の豊かな恵みを受け」 佐野 治牧師

エフェソの信徒への手紙1章7~10節

 

先週に引き続き、エフェソへの信徒への手紙1章を読み進めてゆきます。本日は、7節以下をご覧ください。7節以下で語られていることの一つが「救い」です。皆さんにお聞きします。「あなたは救われていますか」さて皆さん少し考えてみてください。どのように答えますか。皆さんが考えて下さった、救いとは何でしょうか。私たちが現実に苦しんでいる悩みや生活の困窮から救われるのでしたら、それは分かる気がします。

「血によって贖われる」とはどういうことでしょうか。それはイエス様がゴルゴタの丘の十字架上で流された血です。その血による贖いのことを言っています。ですのでイエス様の犠牲の血によって私たちの罪が処理されて、罪の効力が破壊され、罪の支配から解放されたと理解することが出来ます。このキリストの血による贖いの救いのことは、よく知っていますよ。と言う人もおられると思いますが、このことは、知っていてもこの恵みは何度でも聞く必要があるのです。何度でも聞くことによって、恵みは豊かに満ち溢れるのです。それがキリストの血による贖いなのです。

神さまの救いの最終的な形とは何でしょうか。10節。新共同訳聖書では「頭であるキリスト」となっております。この「頭である」と言う言葉を、新共同訳聖書では補足をしているのです。原文にはない言葉です。「アナケファライオーシス」というギリシア語が、明らかに「頭」と関連していることから、このような補足がなされたのだと思われます。

私たちはイエス様を主なる神さまと信じています。十字架につけられて、死なれて、復活されたイエス様を「我が主、わが神」と信じています。イエス様は「私の主」であって、同時に多くの人の主「私たちの主」でもあります。イエス様は、“万物の主”であるのです。「万物がキリストのうちに一つにまとめられる」と言うことは、将来そのようになる、と希望しているということだけでなく、「時が満ちるに及んで、救いの業が完成され」とありますように、ただいつか完成されるだろうと思うことだけではなく「時が満ちる」のは主の到来によってあるのです。イエス様は言われました。「時は満ち、神の国は近づいた」と。イエス様のおられるところに、神の国があるように、時が満ちてイエス様は来られたのです。

しかし、キリストの血による贖い、そして復活の主のご支配によって、万物はすでに一つにされて、主の恵みの支配下に置かれているのです。

 「アナケファライオーシス」、キリストにおける全ての民の再統合の信仰は、万物の頭であるイエス様、キリストを信じることによるのです。主は復活の主として、十字架の贖いによって、万物を一つにまとめてくださいました。十字架の主が世界を束ねておられるのです。罪と悪は被造物を相互に引き裂きますが、主の十字架は、引き裂く力に打ち勝ったのです。

 

 4月21日

「神様の栄光」 佐野 治牧師

エフェソの信徒への手紙1章11~14節

 

本日の聖書箇所において、私たちを「約束されたものの相続者」と呼んでいます。「キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました」と言うのです。

イエス・キリストによって「神の子とされている」と言うのは、私たちに対する救いを告げる表現ともいうことが出来ます。そしてまた、エフェソの信徒への手紙の中の重大なメッセージです。そこには、約束されたものを相続するということが含まれているのです。

「約束されたものを相続する」とは、完成された救いを受け継ぐことであるのです。神の国を受け継ぐことです。私たちの死を受け止める信仰者の気構えとして、ヨブ記の言葉が挙げられます。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう」と、このようにヨブ記には記されています。「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」まさしく信仰者ヨブの言葉であります。しかし今日のみ言葉は、「約束された者の相続者とされた」と言います。「それは・・・神の栄光をたたえるためです」と言われているのです。

私たちは裸で生まれて、裸で去っていきます。地上の者は確かに何一つ持たず、何も携えていく訳ではありません。しかし神の子として相続者にされて、相続するものを神様から約束されて、与えられているのです。このことを私たちはしっかりと心に留めておくことが大切ではないでしょうか。

将来の相続の確かさは、実は今すでに現在の生活を変えているのです。もうすでに今、現在、将来の相続が保証されているのです。「保証」と言う言葉は、手付金と言う意味合いのある言葉であって、将来の相続は将来になって初めて一から手続きされるものではないですよ、と言うのです。もうすでに今現在、手付金を頂いています。つまり相続すべき財産にすでに一部与って生きているというのです。その聖霊を受けているのです。聖霊の保証によって約束されたものをすでに味わい、経験しているのです。救いの完成、神様の祝福、神の国の予兆を聖霊によってすでに経験し始めているのです。

 私たちはそれぞれ、日常生活において、慌ただしい毎日を送っているのではないでしょうか。疲れが出て、ストレスが溜まってしまうことも多いのではないでしょうか。そのような時に、主なる神さまは、私たちを招いてくださいました。「疲れた者、重荷を負う者は誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と言ってくださいました。神様の恵みの御業を見て、神様がキリストにおいてしてくださったその恵みを見て、感謝をするように導かれるのです。そしてその時、キリストに会って、十字架と復活の出来事において、一つとされるのです。私たちの冷えてしまった心を燃え立たせて、キリストの信仰に喜びをもってしっかりと立つものとして下さるのです。

 

2024年3月

 3月3日 

「受難の予告」 佐野 治牧師

ヨハネによる福音書6章60~71節

 

今年に入り、ヨハネによる福音書を何度か説教箇所として与えられていますが、今回のこの6章は五千人の給食の奇跡で始まっています。5つのパン、二匹の魚の話でした。目に見えるパンを与えるという時、人々はイエス様の周りに数え切れないほど、集まってきました。

しかしイエス様が御自分が誰であるかということを、明らかにされるにつれて、人々の態度は変化をしていったのです。まず、イエス様のもとから去っていく人もいたのです。

この弟子たちと言うのは、イエス様を信じていて、洗礼を受けていた人たちでした。「私はイエス様を神様であると信じます。」私たちは、洗礼を受ける時、信仰の告白をします。

私たちも、躓きます。色々な場面において、躓くのです。イエス様を信じることが出来なくなることがあります。しかしそれでも良いのです。良いのですという言い方は少しおかしいかもしれませんが、なぜそれでも良いというのかと言いますと、聖書を通して、イエス様は私たちのことを全てご存じであると言ってくださっています。そんな姿の私たちをも愛してくださっている。それがイエス様の見返りを求めない愛の姿なのです。

なぜこのようなことになってしまったのでしょう。それは、イエス様が与えるものと、人々が求めるものが違っていたからなのです。目に見えるパンが与えられる時、人々はイエス様について来ました。ついて来るどころか、王にしようとさえしたのです。しかし、イエス様が与えるものが永遠の命であり復活の命であることが知らされると、人々はイエス様につまずき始めたのです。

「イエス様に祈ったって何にもならないではないか。」「全然だめじゃないか。」ということになって、心はイエス様から離れてしまうのです。そういうことが起こってくるのです。

そこに一つの人間の思いと、イエス様の思いの違いが生じてくることがあるのです。まず、私たちの願い、それがすべてではない、と言うことです。イエス様はイエス様の視点で、それ以上のものを与えてくださる、と言うことです。つまり、私たちが良いと思う視点と、イエス様が良いと思われる視点にずれが生じることがあるということです。

神の子であるイエス様は、これさえあればどんな困難も乗り切れる、力ある希望、生きる力、まことの命を与えてくださるのです。それが永遠の命であり、復活の命なのです。

私たちも「イエス様を信じます」と告白します。「イエス様と共に歩みます。」と心に決めて歩み出します。しかし、しばしばその歩みは破れるのです。その破れにイエス様が立ってくださるのです。

 十字架にかかって立って下さるのです。ですから私たちは、自らの弱さを言い訳にしないで、力の限り「主よ、あなたと共に歩んでいきます。」と言い、イエス様の愛の内に、主と共に歩んでまいりたいと願うのです。

 

 3月10日 

「するままにしておきなさい」 佐野 治牧師

ヨハネによる福音書12章1~8節

 

本日のテキストによりますと、場所はベタニアで、状況は大変厳しい時であると想定することが出来ます。直前の11章の最後の言葉を見てみますと、当時の権威者たちから、イエス様の居場所が分かり次第すぐに届け出るようにとの命令が出ておりました。イエス様はこのような危険を避けて、しばらくの間荒れ野に近いエフライムという町に行っておられた、と11章には書かれています。イエス様は、過ぎ越しの祭りが近づいて最後の日をエルサレムで過ごすためにまた戻って来られました。逮捕状が出るきっかけとなった、ラザロを墓から呼び出すという出来事の起こった、ベタニアに戻って来られたのです。

皆が夕食をとっていたその時のことです。マリアがナルドの香油をイエス様の足に塗り、そして自分の髪でイエス様の足をぬぐったのです。たちまち家の中は香油の香りでいっぱいになりました。この当時のユダヤの食事の仕方は、テーブルがあって椅子に座ってというのではありません。食事は床に並べられ、人々は横になって、左肘をついて身体を支え、右手で食べていました。そのような食べ方でした。ですから、横になったイエス様の足に、マリアはナルドの香油を塗って自分の髪でぬぐったのです。この香油は北インドで作られる非常に高価なものでありました。1リトラはとはどのぐらいの量でしょうか。1リトラは、約300グラムと言われています。約300グラムのナルドの香油は、300デナリオンの価値があったようです。300デナリオンです。1デナリオンが労働者の一日の賃金ですから、約一年分の収入と考えて良いような値段です。皆さんは、このマリアのとった行為をどう見るでしょうか。なんてもったいないことをと思ってしまうでしょうか。4~5節には「弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。『なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。』」とあります。何故こんな使い方をするのか。このユダが語ることは、信仰のない人にも分かります。

イエス様はここで、ユダの言っていることを否定はされませんでした。8節で大切なことは、マリアのしたことは、イエス様の葬りのためであったということです。

この7節は、もう一つの読み方をすることが出来ます。「マリアよ。それをよしなさい。あなたが本当に私の死体にこの香油を注がなければならない日がすぐに来る。それまで待ちなさい」そう言われたと読むこともできる言葉であるのです。

イエス様は私のために十字架にお架かりになられました。命まで捨ててくださいました。そのイエス様のために何が出来るのでしょう。マリアの出した結論、答えは、自分の持っている全財産と言っても良い、ナルドの香油をイエス様にささげることだったのです。

受難節、イエス様のご受難を覚え、互いの痛み苦しみを覚えてゆきたいです。私たちがこれからも互いに祈りに覚え合い、悲しみも喜びも共にしてゆくことができますように。

 

 3月17日 

「光を信じなさい」 佐野 治牧師

ヨハネによる福音書12章20~36節

 

「はっきり言っておく。一粒の麦は…。」(ヨハネ12:24)一粒の種が大地に蒔かれて、いったん姿を消す。これはイエス様の死を意味しています。しかししばらくすると、発芽をします。そうしますと予想を上回る大収穫をもたらします。これは、種の生命力と自然のはぐくみを意味しています。この死から命への転換こそ、イエス様の十字架と復活を象徴していると言えるのです。

神様が恵み深いみ力を示された信仰の出来事なのです。十字架の死により、イエス様を取り去られた衝撃と悲しみ、そこから「主は蘇られた」との確信、燃え上がる喜びへと変えられていくこの突破口を、当時の弟子たちはどのようにして得たのでしょうか。それは一言でいえば、今も生きておられる主ご自身の働き、それを認めて、それに気づくことなのです。十字架につけられたあと、今もなお生きておられるイエス様は姿を変えて近づいてこられる。このことに、私たちは気づかなければなりません。

さて、もう一か所注目をしたい節があります。それは35節です。「イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。」イエス様は人生を旅路に例えておられます。それもあまりぐずぐずしてはいられない。と言いますのは、時は容赦なく過ぎていくものです。過ぎ去ったら、もう二度と繰り返しのきかないものだからです。「光があるうちに」と言う言葉は、非常に大切な重みのある言葉なのです。日暮れの時と言うのは、終わりの時が刻一刻と近づいているのです。「暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。」自分がどこへ行くのか分からない。これは非常に危険なことです。暗闇、これはヨハネではとても意味深い言葉です。

 神さまは、今もなお、私たちと共にいてくださいます。そのことは私たちもよくわかっていることと思います。ではどこに?私たちの側に。側とはどこですか。私たちの心の中にいつもいてくださるイエス様です。英会話教室では、学びが終わってから、おやつタイムがあります。その中の10分ぐらいをもらい、毎回聖書のお話をしています。その時にもお話をしたことがあるのですが、「くつやのマルチン」という、トルストイの絵本を読むことがあります。「マルチンマルチン、明日わたしはあなたのところに行くよ。」と天から声が聞こえます。マルチンは喜び、イエス様の来るのを待っています。しかし待ってもやってきません。来たのは、寒い中掃除をしていたおじいさん。赤ん坊を抱いているのに、薄着をしていた母親。リンゴを泥棒してしまった少年。リンゴを取られて怒っている婦人・・・。姿を変えて、私たちの共にいてくださる聖霊なる神様。あなたの側に、今もそしてこれからも、どんな姿で共にいてくださるかは分かりません。しかし、確信はただ一つです。神様は今もなお、そしてこれからもとこしえに私たちと共にいてくださるというとです。

 

 3月24日 

「ペトロの打ち消し」 佐野 治牧師

ヨハネによる福音書18章15~27節

 

受難週の初めの日。本日与えられました聖書箇所の前の節では、イエス様が、ついに逮捕をされるという出来事が書かれていました。逃げることは出来たのですが、逃げずに断固として十字架の道に踏み留まったキリストの威厳に満ちた姿を見ることが出来たのです。イエス様は「わたしである」と名乗り出ました。そして他の弟子たちは逃がしてやって欲しいと言い、進んで捕まったのです。しかしその後の弟子たちはどうなったのでしょうか。

他の弟子は分かりませせんが、ペトロはイエス様が逮捕されて連行された、大祭司の中庭に忍び込んだと書かれています。そもそもペトロは、イエス様が逮捕される前に、このようなことを言っていました。「あなたのためなら、命を捨てます。」と。

ペトロは無謀にも驚くべき大胆さを持って大祭司の中庭に潜入しました。おそらくイエス様の声が聞こえて、イエス様が見えるところの近くに行きたかったのだと思います。

19節以下には、大祭司によるイエス様への尋問が記されています。大祭司アンナスはまず、イエス様に尋問をします。その答えが気に入らなかったのでしょう。下役がイエス様を平手で打ったのです。尋問に対する答えに気に入らないというだけの理由で、暴行が加えられていたのです。イエス様のご受難の時は、もうすでに始まっていたのです。

25節以下では、ペトロはまた同じことを聞かれて、2回目、3回目とイエス様を否定します。他の聖書箇所には、3回目の否定には呪いの言葉すら口にしたとも書かれています。

しかしなぜわざわざこのペトロの失敗をどの福音書も書いているのでしょうか。ペトロがこんなにダメな人間なのですよ、と言うことを言いたかったのでしょうか。そうではないようです。ここには深い意味があるのです。これは単なる失敗談ではないのです。むしろ信仰の告白だと、受け取ることが出来るのではないでしょうか。

聖書を読み進めておりますと、ペトロのように、「あれ?これって失敗談?」と思うような信仰の告白はいくつか出てきます。例えば、モーセを見てみますと、モーセは、同胞のヘブライ人を助けるために、エジプト人を打ち殺してしまいました。それが発覚すると動転して荒れ野に逃げ延びて、40年もの間そこで羊飼いをしていたのです。また、ペトロと一緒にローマで殉教した使徒であるパウロも、最初は教会を迫害してキリストを信じる者たちを次々と迫害し殺していた張本人でした。そのような出来事が少しも隠さず、ありのまま書かれているのです。ここに聖書の特徴があるということが出来ます。

 モーセ・ペトロ・パウロも失敗をしました。私たちも失敗をします。失敗をしない人などはいません。聖書の人物たちの全ての失敗や、私たちが繰り返して犯す失敗が、この十字架の下で福音に変えられるのです。ペトロの失敗物語は福音に変えられました。そこには、未来との約束が満ちているからです。

 

 3月31日 

「なぜ、泣いているのか」 佐野 治牧師

ヨハネによる福音書20章1~18節

 

ユダヤ人たちが、イエス様を処刑するよう求めた一番の理由は、イエス様が「自分はユダヤ人の王である」と言っていることが理由でした。その理由から死刑を望んだのです。そして「イエスを殺せ、イエスを十字架につけろ。」と皆が大声で叫んだのです。ピラトは、イエス様の体を鞭で打つようにと命じたのです。

世界で最初のイースターの朝、誰もイエス様の復活などは信じていませんでした。イエス様は生前に何度も「わたしは十字架につけられて処刑される。そして三日後に蘇る」と言うことを様々な言葉で弟子たちに伝えてきました。しかし誰もそのことを理解しませんでした。神の子・救い主メシアが、十字架で処刑されるということ自体があり得ないことであって、その先に復活があることなど人間の理解を超えたストーリーだったのです。

三日目の朝早くのことです。イエス様の葬られているお墓に向かったマグダラのマリアです。遠くからお墓の入り口を見てみますと、墓石の大きな石がずらされていて、中が丸見えです。中に寝かせてあった、イエス様のご遺体がなくなっていたのです。

イエス様の一番近くで、この日に起こるべき「復活」を教えられてきたのです。ですがそのような、死んで復活をするということが、本当に起こる訳がないと思っていた者たちがほとんどでした。これが現実の人間の姿ではないでしょうか。では私たちどうでしょうか。イースターの朝に教会に行くあなたは「イエス様が復活された!ハレルヤ!」と確信を持って礼拝に出席しているでしょうか。

最初のイースターの日マリアは度重なる不安と混乱の中にいました。マリアは、孤独と絶望の中に取り残されてしまったのです。ですからただ泣くことしかできませんでした。その時です。その姿をのぞき込む二人の天使の姿がありました。マリアのその悲しむ姿を見て聞かれました。「どうしたのですか」するとマリアは、私のイエス様のご遺体が誰かに盗まれてしまったのです。

 しかしイエス様は、「マリア」と声を掛けました。するとその時にどのようなことが起こったのでしょうか。目が開けたのです。マリアは、すかさずに「ラボニ」ヘブライ語で先生と答えたのです。マリアは復活のいのちに生かされて変わったのです。意気消沈していた弟子たちは復活のイエス様に出会って、新しい力を得るのです。本日の旧約聖書イザヤ書55章11節には「わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしの元に戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」と神様が言われたように、神様の言葉であるイエス様は、復活する事によって、マリアを変えて、弟子たちに力を与えて、人間を救われたのです。復活は理念的なことではなくて、イエス様の名によっていのちを与える力であるのです。その力は私たちをどのように変えて下さるのでしょう。

 

2024年2月

 2月4日 

「癒されるイエス様」 佐野 治牧師

ヨハネによる福音書5章2~18節

 

ベトサイダのほとりで病んで身を横たえている人がおりました。そして祭りの音に耳を傾けて、「あ~、今日は祭りの日なんだ。私も元気な時には神の宮に行っていたもんだな」と思いおこしていた人がおりました。

17節でイエス様はこのように言われています。「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ。」と。安息日は、働かない日のことを言います。明らかな根拠があるのです。この日は神様が働かれなかったからです。私たちも働かないのだと人々は信じていたのです。

さて、祭りが行われている時に、イエス様が来られました。ベトサイダと呼ばれる池、その池の周りに横たわる人たちのことを心にかけていた人が、イエス様以外にいたでしょうか。イエス様は、祭りの賑わいの中であっても、じっとその池の周りに目を留められたのです。イエス様はこの人がもう長い間病気であることを すぐにお知りになったのです。実に38年間も病気で苦しんでいたのです。この人が何歳であったかはわかりませんが、38年間といえば、どうでしょうか。人生の大半が病におかされていたということになります。

イエス様は、この人の本当の求めを、本当の願いを見抜かれて、この人に対して命じられたのです。8節「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」と。なぜイエス様はこのようなことを言ったのでしょう。38年間も歩くことができなかった人を目の前にして言われたのです。イエス様の言葉によって死んでいた者がよみがえるということと同じく、復活の出来事、新しい再創造の出来事が起こっているのです。このことがお出来になるのは神様のみです。イエス様は神様であることを示されているのです。

そして、床を担ぎ家に帰ろうとしたのかもしれません。しかしその途端に、祭りに来ていたユダヤ人たちが集まってきたのです。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない」という人が出てきました。ファリサイ派の人でしょうか。それとも律法学者でしょうか。安息日の当日に、どうどうと安息日規定を破って床を担いでいくものがいる、これは黙って見過ごすわけにはいきません。そう思ったのでしょう。

 ユダヤ人は怒りました。ユダヤ人たちは「イエスを迫害し始めた」と聖書に書かれています。なぜそこまで怒ることなのでしょうか。二つの理由を挙げてみたいと思います。一つ目は、イエス様がこの人を癒されて、床を担いで歩かせたのが安息日であったからです。二つ目は、彼らが、イエス様になぜ安息日に癒すのか、と質問をした時に、イエス様が言われた言葉は17節「私の父は今も働いておられる。だから、私も働くのだ」でした。ここでのイエス様の言葉は、ご自身を神様と等しい者としています。これこそが、ユダヤ人たちにとって、決して許すことができないことであったのです。

 

 2月11日 

「五つのパンと二匹の魚」 佐野 治牧師

ヨハネによる福音書6章1~15節

 

新約聖書の中には、イエス様が為された不思議な奇跡がいくつも記されております。イエス様の為されたこれらの奇跡を私たちはどのように理解すべきなのでしょうか。

聖書の中ではこれらを「奇跡」とは呼んでおらず、「しるし」と呼んでいます。6章2節「大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。」、6章14節「そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った。」とあるとおりです。この「しるし」は、イエス様が天地を造られた、ただ独りの神様の御子であるという「しるし」なのです。 イエス様が為された他の奇跡物語を見てみますと、弟子たちはいつもイエス様のそばで見ているだけでしたが、今回の奇跡においては、弟子たちは見ているだけではありませんでした。自分がパンと魚を配るという役割が与えられていました。パンと魚が自分の手元で増えていくのです。配っても配っても無くならない、弟子たちはこの奇跡の当事者、体験者だったのです。これは、強烈な印象を弟子たちに与えたに違いありません。

11節。「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて」というこの言葉は、どこかで聞いたことがある言葉ではないでしょうか。毎月行っている聖餐式の時の言葉です。

この時イエス様が人々に与えたパンは、単に食べ物としてのパンではなく、イエス様が与える永遠の命、イエス様御自身をも指し示しているということなのです。そして、イエス様御自身を食べ、イエス様の命に与るとは、まさに私たちが与っている、キリストの教会が二千年もの間、与り続けてきた信仰による食卓である「聖餐」であるのです。五千人の給食の奇跡は、更に最後の晩餐そして聖餐へと繋がっていく、ということが言えるのです。この繋がりこそが神様の救いの御業であるのです。

 弟子たちは五千人の給食の時、イエス様が不思議に増やしてくださるパンと魚、配っても配っても無くなることのないパンと魚を配りました。この不思議なことは、弟子たちが行ったことでしょうか。弟子たちに不思議な力が備わったから行われたのでしょうか。そうではありません。弟子たちは、イエス様が与えてくださったものを、ただ配ったに過ぎないのです。それは、今も変わることはありません。イエス様の弟子たちの集いである教会は、私達自らの中に、何か不思議な力を持っているのではありません。ただイエス様が自らの命を、教会を通して人々に与えてくださるのです。それが主の日のたびごとに与えられる御言葉であり、聖餐であるのです。一人でも多くの人がこのキリストの命に与ることができるように、そしてそのことを通して、キリストの命を配ることが出来るようにと、私たちはイエス様に命じられています。このキリストの恵みの命は、配っても配っても無くなることはありません。配れば配るほど、イエス様の不思議さを味わい知ることとなるのです。

 

 2月18日 

「荒れ野の誘惑」 佐野 治牧師

マタイによる福音書4章1~11節

 

本日の新約聖書の御言葉は、マタイによる福音書4章です。イエス様が悪魔から誘惑を受けたことが記されております。このイエス様が誘惑を受けたというところから、いったい誘惑とはどういうものであるのかについて、見てまいりたいと思います。ここで示されていることは、「誘惑」や「試練」はあるものなのだ、ということです。私たちは、様々な誘惑や試練などに、遭うことなくして、洗礼を受けられたのでしょうか。神の子として順風満帆に神の国に向かって歩みを進めることが出来たでしょうか。多くの人はそうではないと思います。私も違います。誘惑や試練は、必ずあります。何の苦労もなくして、今までの人生を生きてきたのでしょうか。そうではありません。誰にだって苦労はあるのです。悲しいことはあるのです。辛く苦しい時もあるのです。「神様が私を愛しているなんて本当なのか。」そのように思ってしまう、「私」の姿があったのです。

もう一つ考えてみます。誘惑・試練は、どんな時に起こることが多いのでしょうか。それは、自分が出来る、能力がある、と思い高ぶっているところにこそ、起こるのです。悪魔はイエス様に「これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」と言いました。それは、イエス様が石をパンに変えることがお出来なることを知っているからこそ、誘惑をしたのです。私たちに向かって、悪魔はそのようなことは言いません。私たちにはそのような力がないからです。「この石をパンに変えてみろ」なんかと言ったところで、出来ないことを知っているのですから、何の誘惑にもなりません。自分が出来ること、自信があること、能力があると思っていることに対して、私たちの中でどのような事が起こってくるでしょうか。そういう事柄については、人に自慢したいですし、時には自信過剰となってくるのです。そしてついには「あ、これは自分の力で全部できる。」となるのです。すると「神様なんていらない。いなくても大丈夫。うまくいっているし、自分の力だけでやっていける。」そのように悪魔が、私たちの心にささやいてくるのです。

では、イエス様はどうしてこれが悪魔による誘惑だと分かったのでしょう。それには悪魔の誘惑の特徴があったからです。神の子であるという自分が一番大切にしているものを、誰に頼ることなく、自分の力で守らせようとしている、と言うことです。つまり神の子であることを自分自身で証しさせようとしているのです。ここに、悪魔の賢さというか、誘惑の鋭さがあると言えます。イエス様が神の子であることを明らかにし、使命を全うするのはどこでしょうか。それは十字架上です。しかし、この時悪魔は、十字架上ではなくて、石をパンにする、そのことで証しせよと誘惑したのです。

 私たちは弱い人間です。しかしイエス様は強いです。悪魔よりも強い存在です。必ず悪魔の誘惑から私たちを守って下さいます。ですから私たちは、常に祈り求めて行きましょう。

 

 2月25日 

「光の子として」 佐野 治牧師

エフェソの信徒への手紙5章6~14節

 

聖書では、「あなた方は以前には暗闇でした」と語っています。しかし「今は主に結ばれて、光となっています」と言うのです。聖書は神の似姿として創造されて本来、罪のなかった人間が、誘惑によって罪に堕ち、自分の中に闇を抱えて、闇そのものになる、そういう人間の現実を見ています。しかしその人間が「今は主に結ばれて、光となっている」と言われて、「光の子として歩みなさい」と勧められます。

聖書には大きく分けて二つのことを避けるべきと書かれています。一つ目は性の乱れです。3-4節をみてみますと「あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なこと」と続きます。

もう一つ避けるべきこととして、偶像礼拝です。このエフェソ5章では、性の乱れを避けなさいと書いていますが、それが究極的に何に結び付いていくかと考えますと、偶像礼拝につながるのです。5節には、すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。と言っているのです。では私たちは、このような性の乱れ、偶像礼拝を捨てて、何を求めるべきなのでしょうか。エクレシアは何を求めるべきなのでしょうか。それを一言でいうと、「光の子どもらしく歩む」と言うことです。「光の子どもらしく歩む」これですとなんだか抽象的過ぎて、なにか具体的には分かりません。9節以降には具体的に「光の子として歩む」とはどういうことであるのか、と言うことが書かれています。

教会やクリスチャンの間では、「議論するのはやめよう、反論するのはやめよう。反対するのはやめよう。輪を乱すのは、神様が求めておられることではないよ。」と言うことが言われることがあります。しかし聖書には、暗闇の業が行われているのであれば、それをむしろ明るみに出しなさい、と言っておられます。論理的に追求して明らかにしなさい。と書かれています。教会の中でも、様々な意見を持たれている人はいます。教会に来られている方々は、皆さん生まれも育ちも年齢も違いますので、意見が違うのは当たり前です。相手を誹謗中傷することはもちろんよくないことですが、相手の意見を尊重した上で、私はこのような意見を持っています。と言うことを伝えること、それは大切ではないでしょうか。

 レント、受難節の期間を私たちは過ごしています。そしてその時、私たちは復活の主を見上げているのです。復活のキリストが私たちを照らされるのです。キリストの光に照らされれば、全ては明らかにされます。私たち自身の暗闇の業も明るみに出されます。「むしろ、それを明るみに出しなさい」と聖書が言っている通りです。

 

2024年1月

 1月7日 

「世の罪を取り除く神の小羊」 佐野 治牧師

ヨハネによる福音書1章29~34節

 

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」これはイエス様の先駆者であるヨルダンの荒れ野で悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた洗礼者ヨハネの言葉です。ヨハネは自分のもとへと来られたイエス様を見て、このように証言したのです。この洗礼者ヨハネの使命は何であったのでしょうか。それこそが、「証し」をすることであったのです。

ヨハネの使命は、証をすることです。ヨハネの証には、消極的な面と、積極的な面の二

面性があると言われています。例えば、19節「私はメシアではない。」これはある意味消極的な自己否定な言葉です。キリストの前にして、自分を打ち消したのです。ヨハネのそばに群衆が群がっていてイエス様を証ししたのです。人は時として、自分の功績を、人の功績までをも横取りしてまでも誇ろうとすることがあります。それなのに、ヨハネは否定しました。これがヨハネの証であるのです。

自分の弟子たちが一緒にいるところで、イエス様が歩いておられるのを目にして言いま

した。「見よ、神の小羊だ」その弟子はヨハネがそのように言ったのを聞いて、イエス様に従ったのです。ケファの次には、フィリポが従いフィリポはナタナエルを導きました。このような連鎖反応が続いたのです。このように次々と証人たちや弟子たちが、バプテスマのヨハネの一言から集まってきたのです。

勿来教会にも、教会の門を叩かれる方がおられます。皆さんも、出身教会は異なるにしても、それぞれの教会の門を叩いて、教会と出会うこととなりました。そして神様と出会ったのです。これは偶然なのでしょうか。燭火賛美礼拝において、奇跡のお話をいたしました。この出会いは、偶然ではないのです。出会いは選びであり、神さまの選びの奇跡であるのです。人の思いをはるかに超えた、神様のご計画に他ならないのです。

 洗礼者ヨハネが聖霊なる神様によって、イエス様がメシアであると示されたのは、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を授けられた時でした。しかし皆さん、この場面をよく考えてみますと、不思議だな、とは思いませんか。時々、礼拝に出席していても、「洗礼を受けなくても信じていれば良いでしょ?」また、「わたしは、聖書を読んで毎日祈っているから、それで良いでしょ。毎日祈っているし、聖書も読んでいるなんて、素晴らしいでしょ。」と言ってくる人もいます。そのような人達は、本当にそれでよいのでしょうか。本当に聖書をきちんと読まれているのでしょうか。イエス様ご自身が洗礼を受けて、あなたと同じ場所に立つと言って 下さっているのに、「私はそこに立つ必要はないです」と言っているのと同じではないでしょうか。イエス様は洗礼を受けることによって、私たちと同じ所に立とうとして下さっているのです。

 

 1月14日 

「最初の弟子たち」 佐野 治牧師

ヨハネによる福音書1章35~51節

 

今朝、私たちに与えられました新約聖書のみ言葉は、ヨハネによる福音書1章のみ言葉です。ここにはイエス様の最初の弟子たちの様子が記されています。

洗礼者ヨハネは、イエス様の証し人、証し人の中の証し人ともいうべき典型的な証人像であるということが出来ます。ヨハネは、旧約の預言者を継承する証人と言われていますが、ヨハネの弟子たちの中からイエス様の最初の弟子たちが選ばれたということは、旧約聖書の預言者の伝承を受け継ぐ人たちであったことを示しているということが出来ます。

私は30代で、日本聖書神学校へ通い始めました。神学校入学の際に、召命感を問われます。学んでいく中で、入学前に思っていた神学に対する思いが、日に日に崩されていくという体験をします。その後新たなものが、4年間の学びや信仰生活、人との出会いによって変えられていくのです。授業の中で、とことん否定をされるという体験をします。それに耐えることが出来ない人は、残念ながら、神学校を退学してしまう人もおりました。

35節以下を見てみますと、イエス様の言葉が出てまいりました。それは「何を求めているのか」と言う言葉でした。それに対して彼らが聞いたことは、 「どこに泊まっておられるのですか」と言うことでした。一緒に宿泊をしてじっくりと話し合いたいと思っていたから、このようなことを聞いたのではないかと思います。

この時にまずイエス様の弟子となったアンデレは、原始キリスト教会でやがて重要な役割を果たすようになるペトロをイエス様のところへと連れて行きます。アンデレの姿はこれ以外には、福音書の中では出てきません。その点では、頻繁に登場するペトロとは対照的ですが、そのペトロをイエス様のところに連れて行ったのはアンデレだったということを思い起こしますと、そこに彼の決定的な働きがなされていたのだということが言えるのです。

 

 人に伝道するということは、本当に難しい事と思います。自分一人の力では、いくら牧師であったとしても、難しいです。しかし、私たちは主と共に歩むものとして、洗礼を受けて、教会生活を送っているのです。やはりどなたかを主の道へと導く時に大切なことは、まず神さまに全てをお委ねして、祈り求めることが大切です。そして神さまの御声を聞いて、丁寧に証しをしていくこと、それが証人としての大切な姿勢ではないか、と感じるのです。神はその御業を成し遂げるために、独り子であるイエス様を私たちの内にお遣わし下さいました。主は、私たち人間をその弟子としてお召しになることによって、その御業の歴史の中で展開なさっています。預言者の伝統を受け継いだ証人としての弟子たちの姿を、私たちは今朝はっきりと示されたのです。「見よ、神の子羊だ」とわたしたちの前に示されているあの方に、私たちもまた私たちの生涯をお委ねしていこうではありませんか。手ごたえのある、充実した人生がそこに生まれてくるに違いありません。

 

 1月21日 

「栄光を現わされるイエス様」 佐野 治牧師

ヨハネによる福音書2章1~11節

 

11節「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。」この栄光と言う言葉、聖書の中に多くできます。栄光と言う言葉は、キリスト者にとって、イエス様の体である教会にとっても、とても大切な言葉です。神様の栄光と言うのは、私たちの目指す究極の地点と言うことが出来ます。

では、本日の新約聖書の場面には、どのような奇跡のしるしを見ることが出来たのでしょうか。結婚式の披露宴がピンチの状態です。人生の第二の門出と言う時に、何たる状態でしょうか。これは人間の苦境の状態です。物質は豊かになったように思えますが、人の心は、病み、痛み、傷ついています。苦境に落ち込んだ時の叫び、八方塞がりの人間のうめきでないのであれば、これは何でしょうか。母マリアは人々の苦境を代表して、イエス様にお願いをするのです。「ぶどう酒がなくなりました」と。

 イエス様が言った「私の時」と言う言葉がありましたが、「私の時」とはいつのことを言っているのでしょうか。イエス様が捕らえられる時のことです。十字架上で栄光の死を遂げて父なる神様の元に行くときのことを言っています

父なる神様から律法をゆだねられたモーセの最初の奇跡は、旧約聖書においてどのように書かれていたでしょうか。それはナイル川の水を血に変える奇跡でした。それに対して、父なる神様から福音を委ねられたイエス様の最初の奇跡は、今回の水がめの中の水をぶどう酒に変えることであったのです。

「弟子たちは彼を信じた」とあります。ある人たちがイエス様の弟子となってからイエス様を一層深く信じたことを意味している言葉です。必ずしも、イエス様を深く信じてからイエス様の弟子になる必要はなくて、イエス様の弟子となることによって、イエス様に従い、イエス様のしるしを確認してから、成長しつつ一層深い信仰を持つこともありうるのです。

私たちもそうですね。「神様を信じます」という、信仰を告白する儀式、洗礼式を行う時に、その前に準備会を行います。その洗礼準備会を通して、全てのことが理解できて、イエス様の事や神様のことが 全て分かる、理解できる等と言うことはありません。イエス様を知ることは、洗礼を受けた後、礼拝出席を通して、賛美・祈りそしてメッセージを通して、教会での奉仕を通して教えられて、信仰が成長していくのです。

 

 弟子たちはこの奇跡を、イエス様が誰であるかの「しるし」として見て、イエス様を信じました。イエス様の御業、神様の御業はいつも私たちを取り囲んでいます。私がこの人と出会った、そして結婚をした…それらはみんな、神様の御手の中にあることなのです。それらはみんな神様の御手から来たことを、私たちは聖書を通して知らされるのです。

 

 1月28日 

「真理とは」 佐野 治牧師

ヨハネによる福音書8章21~36節

 

イエス様は、人々に自分が何者であるのかを、あの手この手をつくして話をしたのです。しかし話はストレートには伝わりませんでした。イエス様の本当の思いを受け止められる人はいませんでした。

21節「だが、あなたたちは自分の罪の内に死ぬことになる。」、24節「だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。…あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」と「死」と言う言葉を3度繰り返されていることに注目をしたいと思います。3度繰り返すということは聖書の中でも重要な意味を持っていることを示す数と言われています。イエス様がご自身の「十字架の死」について予告なさったと言う記事は、マルコによる福音書やその他の福音書にも出てきますが、この箇所では、ごく短い間にイエス様が「あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになる」ということを3度も、警告を発せられているということは、余程のことであろうと思われます。

31節以下を見てみます。私たちに与えられている大きな恵みの一つは「自由」です。34節には「はっきり言っておく。罪を犯す者は誰でも罪の奴隷である。」とイエス様は言われました。罪からの自由というのは、罪の奴隷の状態からの自由ということです。このようなイエス様の言葉を聞くと、ドキッとしないでしょうか。私は罪を犯していません。」と言い切れる人はいるでしょうか。いくらキリスト者であっても、全く罪を犯していない人はいないのです。でしたら、キリスト者もまた罪の奴隷なのでしょうか。そうではありません。ここで言われている「罪を犯す者」とは「罪を犯し続ける者」のことです。神様の御前において私たちは、これをしたら怒られる、これをしたら家を出される、と心配している奴隷ではなく、ここは私の家だと安心して自由に過ごすことのできる「子ども」のような存在なのです。

 

 私たちが洗礼を受ける時に、「私は神様を信じます。私はイエス様が神様であることを信じます。」と言い、信仰を告白し、そして教会生活を通して、祈り、賛美し、み言葉を受け取り、奉仕を通して信仰を深めていくのです。私たちは洗礼を受けた者が全て、生涯信仰の生活を全うするとは限らないということを知っています。洗礼を受けて、1,2年の間は信仰生活に燃えている方も多いのです。問題はその後です。必ず信仰生活のマンネリ化ということが起きるのです。これは誰にでも必ず来るのです。私もありました。様々な理由をつけて、教会から離れてしまった期間がありました。このような信仰のマンネリ化をそのままにしておきますと、いつの間にか説教を聞いていても眠いだけ。礼拝に来てもつまらない。献金するのはもったいない。そのようになっていってしまうのです。イエス様の言葉「わたしの言葉にとどまるならば」と言われたことを心に刻んでいきたいと思うのです。