2023年12月

 12月3日 

「美しい足」 佐野 治牧師

イザヤ書52章1~10節

 

本日の説教題名を「美しい足」といたしました。誰の足が美しいのか、と思われた方もおられるかもしれません。今回のイザヤ書52章を読んでみますと、どのような意味で書かれているのかを読み取ることが出来ます。

捕囚の民が帰ってくるという噂はイスラエルに残されていた人たちにも伝えられていました。そこで人たちは見張りを立てて、その噂が本当なのか、本当にみんなが帰ってくるのか、期待と不安の入り混じった思いで、待っておりました。

捕囚の民たちの本体に先立ち、捕囚の民が帰ってくることを、山々をめぐり、町々を行き、人々に主の解放と救いの良い知らせを告げ知らせたのです。

見張りの者はその声をいち早く聞いたのです。その姿に気づきます。そして町の人たちに使者の到来を告げるのです「おーい。噂は本当だったぞ。捕囚の民は解放されたんだ。もうすぐ私たちの町に帰ってくるぞ」と。その喜びは、人たちに伝わっていったのです。

さて、解放の知らせを告げて回った人は、どのようにして告げ知らせたでしょうか。もう喜びを隠せず、喜びに満たされながら、走り回ったことでしょう。晴れの日も雨の日もどんな日でも走り回って告げ知らせたことでしょう。その足は、泥だらけで、どこからみても「美しい足」と言うことはできないような、汚い足であったと思います。

もちろん今のように靴があったわけではありません。ほぼ素足です。裸足ですので、石を踏み、木の枝を踏み、足の裏は、傷だらけでもあったのではないでしょうか。しかしそのような足を見てイザヤは言うのです。「その足が美しかっただろう」と。

新約聖書ヨハネによる福音書を見ていますと、「知っている」という言葉がキーワードの一つになっています。イエス様を囲んでいる人たちは、イエス様が何者であるのかを「知っている」というのです。しかしイエス様はこの人たちに対して、イエス様がいったいどこから来られたのか、つまりイエス様が神様のところから来たものであることを「知らない」と反論をしているのです。エルサレムの人たちは、イエス様をすぐにでも捕らえるだけの力はありました。実際に、捕まえようとしました。しかし、それは実行されませんでした。それは本当の意味でイエス様を知ってはいないことを象徴しているのです。神様の時がまだ来ていない時に、彼らは何もできないのです。

アドベントに入りました。イエス・キリストを待ち望む時です。それは同時に、キリストの到来を告げ知らせる時でもあるのです。

 私たちが苦難の中にいるとしたら、まさにそこにおいて主の救いを人々に告げ知らせようではありませんか。私たちがこのような闇の多い、現実の厳しさと重さの中で、まさにそこにおいて主の救いを人々に告げ知らせようではありませんか。

 

 12月10日 

「わたしの証」 佐野 治牧師

ヨハネによる福音書5章36~47節

 

イエス様は「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している…」と言われています。終末について考えたり、研究したり、それをただ待つだけではなくて、この世に来て具体的に生きられたイエス様の元に来なければならないのです。イエス様の元に来るとは、イエス様と共に生きるということです。真実の言葉であるイエス様が来られるのです。そのイエス様を迎え入れるのは義務ではありません。私たちはそこでこそ「命を得る」からなのです。

ヨハネによる福音書においてイエス様が明らかにしようとしてくださるのは、例えば、私が、皆さん聖書を読みましょう。そうすれば主なる神さまは、あなた方を救ってくださいますよ。そのことはすべて聖書に書かれています。と言ったとします。すると皆さんは、「うんうん。そうですね。」とわかることと思います。しかし、まったく信仰を持っていない人のところで、同じことを言ったとしたらどのような反応が返ってくるでしょうか。「『それはあなたが信仰があるから、そのように読めるのであって、信仰がなければそんな風に読めるはずがないですよ。』と答えが返ってくることでしょう。」はい。そのとおりなのです。聖書というものは、信仰をもって読まなければ、何が記されているのか分からないのです。でしたら、信仰がない人たちはどうしたら良いのでしょうか。どうしたら信仰を得ることが出来るのか。少し考えてみてください。

答えは、「聖書を読みましょう」なのです。(え、なんか矛盾していませんかと)、思うかも知れませんが、それが真実なのです。「聖書を読まなければ信仰を得られない。しかし、信仰がなければ聖書は分からない。」ということです。これは、本当に矛盾しているように聞こえます。しかし、ここには言われていないことが一つあるのです。これがなければこの矛盾が解けないという大切なカギです。それは、「聖霊なる神様のお働き」というものです。聖書は、確かに人間が記したものです。しかし、この聖書は、聖霊なる神様の導きによって記されたのです。

聖書を読み進める中で、大切なことを3 つお話しますと、まず、「自分が罪人であるということが分かるということ」です。そして、「このような私を、神様は何と深く、決して見捨てずに、愛し続けてくださっているか」ということです。さらに、「聖書には自分のことが記されているということが分かる」ということです。

 キリストの教会は、このキリストの証人たちの群れなのです。キリストの教会は、ただイエス様をキリストとして証言し、この方によって与えられる救いの恵みの真実を証言するために、キリストの体なる教会が建てられているのです。

 

 12月17日 

「洗礼者ヨハネの証し」 佐野 治牧師

ヨハネによる福音書1章19~28節

 

バプテスマのヨハネはイエスの宣教活動の直前に荒れ野で活動していました。ヨハネは預言者マラキが語る「主の日」の前に遣わされる預言者エリヤを想起させるのです。マラキが預言した「その日」が来ることは、イエス様の到来を指しています。

エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わした、と聖書に書かれています。祭司やレビ人たちと言われていますので、ここに派遣されたのは、宗教儀式を行う専門家が、ヨハネの元へと遣わされてきたのです。そして質問をするのです。ヨハネはここで、三つの否定をします。本日の聖書箇所の一つのキーワードです。

イエス様を迎え入れるということは、ただ単に受け身的にその時を待つというものではないのです。それは積極的な備えの時であるのです。その備えの一つとして、教会はこの世に対して、イエス様を指し示すという役割を担っているのではないでしょうか。

待降節は、ただイエス様の誕生日が近いことを示すのではありません。イエス様が私たちのところに来られることを指し示すのです。過去に誕生したイエス様の誕生日を祝うのではなく、未来に私たちのところに来られるイエス様を迎え入れる準備をする時です。

ヨハネが言いました、「私はメシアではない」という言葉を注目したいと思います。

一つ考えてみてほしいことがあります。教会の役割とは何でしょうか。教会がヨハネと同じ働きを現代もしているということはできないでしょうか。もしそのように言うのでしたら、「教会はキリストではない」ということになります。そのことを私たちは謙虚な思いで受け止めることができるでしょうか。「教会はキリストではない」ということは、実は当然のことということができます。でしたら、教会とは何でしょうか。その答えは「彼は光ではなく、光について証しをするために来た」というヨハネによる福音書1章8節の言葉をもって、答えていきたいと思うのです。教会は、キリストの陰に隠れている存在でしょうか。そうではありません。そうではなくて、キリストを証しするものであるのです。

ヨハネは、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」という質問に対して、的確な答えを出してはいないのです。していないのではなくて、できないのです。なぜならば、自分の中にその答えがないからです。ヨハネは徹底して自分自身について語ることを拒絶しています。自分自身について語ることは自らの使命ではない、と思っているのです。

 教会がイエス様に託されて洗礼を授けているのは、イエス様が来られるという希望に生かされているからなのです。アドベントクランツの3本のロウソクの火を見つめながら、神さまの大いなる愛の御業、救いの御業に感謝したいと思うのです。

 

 12月24日 

「闇の中に輝く光」 佐野 治牧師

ヨハネによる福音書1章1~14節

 

本日の新約聖書のみ言葉は、ヨハネによる福音書1章1~14節のみ言葉です。

暗闇と言う時に、街中の灯りの暗さなどを話す時にも用いますが、もう一つ、闇の多い世界という意味で“暗闇”という表現を使うことがあります。

イエス様が誕生された時の状況は、平和であったのでしょうか。いえ、そうではありません。民たちは、平和を願い続けていたのです。真の預言者を求め続けていたのです。なぜでしょうか。当時、偽預言者や偽まじない師がたくさんおり、「私が真の預言者だ」と、偽りの言葉を発し、混乱をさせていたのです。そのような世の中でしたので、争いごとも絶えることなく起こっていたのです。そのような時に民たちは、願い続けたのです。「主なる神様、どうか真の預言者を、真実な言葉を告げる預言者をどうぞ私たちのところにお送りください。」と。その願いを聞かれた神様は、イエス様をこの世へと遣わせてくださったのです。

ヨハネによる福音書1章5節で「光は暗闇の中に輝いている」とありましたが、これはいったい何を指しているのでしょうか。この光は、二千年前にベツレヘムにて、キリストが誕生されたことを示しているのです。その光は、真の光でした。世に来てすべての人を照らす光でした。光は、救いと喜びのシンボルともいわれています。キリストの誕生こそ、真の救いの到来を意味しているのです。

5節の後半、「暗闇は光を理解しなかった」とあります。闇とはいったい何なのでしょうか。それは人の心です。人の心の状態のシンボルとも言うことができます。神様に対抗する人間の、強情な高ぶりであり、敵意が作り出す状態を言っているのです。光が世に来られたことは、燭火賛美礼拝の時にお配りした、また、このアドベントクランツのろうそくから連想するような静かな到来ではないのです。光は闇と戦い、この闇に打ち勝ったのです。この聖句が言おうとしているのは、キリストの誕生のみならず、キリストの生涯をあらわしている一句なのです。闇の代表するものとは、聖書の中の誰を思い起こすでしょうか。一人思い起こしますのは、イスカリオテのユダです。イエス様を裏切ったこの弟子は、イエス様を売り渡すため、「最後の晩餐」の席から出ていきました。その時はいつであったでしょうか。それは夜でした。そして、イエス様が十字架につけられて、復活されたのはいつでしたでしょうか。朝です。朝早くです。朝の光の中に輝く復活の主が立っておられたのです。

共におられる神様は、私たち一人一人を心から愛してくださっています。ですから私たちは互いに愛し合うのです。光の子として歩む喜びが私たちに与えられています。

 このクリスマスの時をその第一歩として、新たな一歩をご一緒に歩んでいきましょう。

 

 12月31日 

「東方の博士たち」 佐野 治牧師

マタイによる福音書2章1~12節

 

東方から来た、3人の博士たちは、エルサレムの地にいるヘロデ王のところへ来たのです。ヘロデ王は、3人の博士を迎え入れ、ここまで来た理由を聞きました。すると博士たちは、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。その方の星を見たのです。」と言ったのです。ヘロデ王は、びっくりです。(ユダヤ人の王?それはわたしだ。)そのように思い、怒っていました。そんな王様が誕生したなどは、聞いていなかったので、これを聞いてヘロデ王は、不安を覚えたのです。エルサレムの人たちも不安を覚えたと書かれています。へロデ王の不安、それは自分以外の王様が生まれたことで、自分が王様として今後この立場を維持していくことが出来るのか、そこが一番の不安だったのではないでしょうか。

博士たちは、ヘロデ王からの依頼もあったので、導かれたその星にまた付いていき、幼子のところへ到着したのです。博士たちはここにたどり着くまでに、どのようなことを思い巡らしながら、ベツレヘムの地まで来たのでしょうか。ユダヤ人の王がどのような者なのかを実際に目にして、彼らなりに理解していたことと思います。そのヘロデ王を超えていくような王の登場を想定したのではないでしょうか。しかし、たどり着いたその場にあったのは、ただの家畜小屋でした。そして、中に入ってみると、若い母親、その横に幼子がいるだけでした。何も知らずに、この様子をもし皆さんが見たらどう思うでしょう。

普通に考えてみれば、「え?これが本当に王さま?ただの赤ちゃんではないか。」と、疑問に思うのではないでしょうか。博士たちはどうであったでしょうか。博士たちも疑問でいっぱいであったでしょうか。博士たちは疑問に思うどころか、その幼子の前に行くと、ひれ伏し、幼子を拝んだのです。そしてそれまで大事に持っていた黄金、乳香、没薬を贈り物として乳飲み子であるイエス様にお献げしたのでした。

ただの幼子としてこの世に生まれ、誰かに頼らなければ何もすることができない乳飲み子のイエス様です。しかし、「星に導かれて」、これを言い換えますと、「神からのメッセージを通じて」、何もできない乳飲み子こそ、救い主であるという決定的な価値の転換が博士たちに起こったのです。ですから博士たちは、最も大切にしてきたものを手放したのでした。最後にクリスマスは、神様の御独り子であるイエス様の誕生日です。私たちの救い主であり、私たちの罪をあがなって下さり、新しい生命を与えて下さった神様です。

 2023年、お一人お一人それぞれに色々なことがあったことと思います。嬉しかったことや悲しかったこと、楽しかったことや辛かったこと、色々あったことでしょう。その一つ一つの時に、神様が共にいて下さったのです。私たちは神様から大いなる祝福、救いの御業を頂き、今日まで過ごすことが出来たのです。主のご降誕、ハレルヤ!

 

2023年11月

 11月5日 

「イエスと共に」 佐野 治牧師

テサロニケの信徒への手紙一 4章13~14節

 

愛する者を奪って行く、大切な人を遠くへと隔ててしまう死。人間の力ではどうすることも出来ません。諦めるのでしょうか。絶望するだけでしょうか。ここでパウロは、「そうではないですよ。死の問題には、解決があるのです」と言っているのです。

 テサロニケの教会の人たちは、イエス様が間もなく再臨すると信じて、その日を迎えることに大きな確信と希望を抱いていたのですが、パウロたちがテサロニケを去った後で何人かの愛する兄弟姉妹が、死んでしまった時に、この人たちは動揺を隠すことができませんでした。

私たちはイエス様を信じれば救われるということを知っています。その人のすべての罪は赦されて永遠のいのちが与えられるということを知っています。そして、そのように罪が赦された人は、その罪の力から解放されるのです。

私たちはイエス様を信じて、天に国籍を持つ者とされました。しかし、それだけではありません。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを待ち望んでいるのです。その時、キリストは、すべての者をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださいます。

聖書には、イエス様は復活であって、命であると書かれているのです。ですから、イエス様を信じる者は、死んでも生きるのです。

 私たちは、神様を信じた時に、何をするでしょうか。信仰の告白をします。「私は神様を信じます」と。「イエス様が、主なる神、キリストであることを信じます」と自分の信仰を告白するのです。キリストの死と結び合わせて、古い自分の永遠の滅びに向かう自分、罪深い自分は、死んだのです。そしてキリストの命とも結び合わされて、新しい永遠の命に生かされるのです。新しい自分に復活しているのです。つまりキリストと共に死に、キリストと共に復活したということです。その時に私たちは、洗礼を受けるのです。洗礼式というものの一つの意味はこれなのです。洗礼式で、水に入って、出るということは、私たちがキリストと結び合わされて、古い自分が死んで、新しい命に生きる者とされた、ということを象徴しています。

 私たちは今日、永眠者記念礼拝をおこなっています。これは過去において、地上の歩みを共にされた信仰の先達者たちのことを偲ぶだけのための礼拝ではありません。また、大切な人を天に送った私たちの心をこの礼拝によって癒そうというものだけでもありません。イエス様の十字架と復活によって保障された救い、私たちは確実な希望と慰めをこの礼拝で確かめて、神様に感謝したいと思うのです。

 

 11月12日 

「神様の選び」 佐野 治牧師

創世記12章1~9節

 

旧約聖書の創世記のみ言葉を通して、主のみ言葉を見て行きたいと思います。

 アブラムは自分の願いや考えではなく、ただ主の導きに従いました。カルデヤ地方は豊かな土地で、その当時、世界の最先端を行く文明・文化の地です。それに比べれば当時のカナンの地は辺境で、人口も少ない所でした。それもアブラムは「カナンの地」と初めから示されたのではなく、「行く先を知らないで出て行った」のです。なぜそのようなことが出来るのでしょうか。どこに導かれるかが問題ではなかったのです。ただ主なる神さまがおっしゃった「わたしが示す地」であれば、どこでも従っていく、それがアブラムの信仰でした。

先日、日本聖書神学校の同窓会東北支部の一泊研修会を山形県の上山で行いました。14名ほどの教師が集められて、研修会と報告会を上山教会で行ったのです。ある牧師はこんなことを言っていました。「神学校を卒業して20数年が経ちました。私は神様が示される地に行き、牧師として仕えてきました」と。初任地は地方の教会で、子どもたちは転校を。妻は仕事を変わらなければならないという結果になってしまったというのです。しかしそれが神様の示された道であり、喜びと感動と感謝を持って、任地に赴いたというお話をしてくださいました。

聖書に出て来る信仰者たちは、主が共にいて下さることを、何よりの祝福と受け取り、地上では「旅人であり寄留者」であることを自ら言い表し、「天にある故郷」を熱望していました。

イエス様を通して、父なる神様は私たちを愛してくださり、そして祝福したいと願っておられる「愛と祝福の神さま」であることが示されたのです。 アブラムが祭壇を築いたその場所というのは、実は偶像礼拝が行われていたところでありました。まことの神様をまだ知らないこの世は、自分の利益ばかりを求めているという罪の世界であったのです。神様がアブラムを愛し、祝福するために、この世から呼び出して下さったように、神様は今もなお、私たち一人ひとりの名を呼ばれて、イエスさまを通して「あなたを祝福する」と約束して下さっています。

 

 私たちは、時折、この道はあっているのか。非常に不安になることはないでしょうか。主が示して下さった道を進んでいるように思いながらも、疑ってしまうのです。しかしその疑いが大切であるという先生もおります。私たちが疑ってしまった時にどのようにするのでしょうか。それは祈るのです。主なる神さまの御声に耳を傾けるのです。 様々な偶像、誘惑に惑わされず、イエス様を信じ、真の神様に信頼して、祝福に満たされた生涯を共に歩んでいこうではありませんか。

 

 11月26日 

「子どもの好きなイエス様」 佐野 治牧師

マルコによる福音書10章13~16節

 

今日は、収穫感謝礼拝です。みんなが好きなお野菜や果物ありますか?私はこれが好き、いや~、僕はあれが嫌い。などあると思います。さて、ここにある果物や野菜は、最初から野菜の形をしているでしょうか。違いますね。種ですね。小さな種。種もいろんな大きさの者がありますね。柿の種は大きい方です。みんながよく知っているのは、朝顔の種でしょうか。お米の粒みたいに小さいよね。

さて、ヨハネによる福音12章24節にはこんなことが書かれていました。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。しかし、死ねば、多くの実を結ぶ」という言葉です。イエス様は「一粒の麦は、地に落ちて死ななければそのままである。しかし、死ねば多くの実を結ぶ」とおっしゃいました。イエス様は麦を土にまくこと、埋めることを「死ぬ」と言われたのですね。一粒の麦は袋の中に入れたままだと一粒のままですが、土にまいて埋めればたくさんの実を結びます。そのことをイエス様はいわれました。しかし、なぜイエス様はこんなたとえ話をなさったのでしょうか。

それは、イエス様ご自身のことを教えるためでした。これからイエス様は十字架におかかりになって、死んでいかれます。しかし、死ぬことによって私達に永遠の命を与えてくださる。イエス様の死によって、私たちは永遠の命という実を結ぶのです。イエス様は「私が死んでも、私はあなたたちの命となって実を結ぶのだ。私の死は無駄になるのではなく、多くの実を結ぶのだ」、そう私達におっしゃっているのです。

今日は、「子どもと共に守る礼拝」として、礼拝をおささげしています。イエス様は、人間とお話しすることがとても大好きでした。ですから、イエス様の周りにはいつもたくさんの人がいます。人がたくさん集まっているそのような中で、「あ、イエスさまだ」と、子どもたちが集まってきたのです。実はイエス様は人間の中でも、子どもたちがとても大好きでした。子どもたちが来るのを見ていたお弟子さんたちは、子どもたちに向かって「これこれ、イエス様は忙しいんだから、子どもの相手なんかはしていられない。あっちに行きなさい。」と言って、追い返そうとしました。それを見ておられたのがイエス様でした。イエス様は悲しい顔そして、「おいおい、子どもたちを妨げちゃだめだよ。わたしのところに来させなさい。」「子どものように神の国を受け入れる人ではければ、決して入ることは出来ませんよ。」と言われたのです。

私たちはですから、勉強をして、努力をして、神の国に入るのではありません。神様を信じて、神様に従って歩んでいくという、素直な心を持っていれば、神様は、神の国へ入れて下さる、と言ってくださっているのです。 

 

2023年10月

 10月1日 

「選ばれたもの」 佐野 治牧師

ヤコブの手紙2章1~9節

 

1節.「栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら」という文章によって、この読者たちの信仰が確認されていることがわかります。私たちは、主イエス・キリストを信じる信仰に生きる者たちであるということを、ヤコブは読者たちに、つまり教会の人たちに、しっかりと思い起こさせているのです。ここで記されている特徴と言えることの一つは、イエス様は「栄光に満ちた」私たちの主であるということです。ここでの問題は、栄光に満ちた私たちのイエス様を信じる信仰と、人を分け隔てすることが両立するであろうか、と言うことです。その分け隔ての一例として、金持ちの立派な身なりの人と、汚らわしい服装の貧しい人、両方の人に対する教会の人たちの接し方の大きな違いを挙げているのです。人を分け隔てすることのもう一つの問題を考えてみます。これが決定的に大切なことと言えます。それは、神様ご自身が、人を偏り見ることをなされたか、と言うことです。答えは“ノー”ですね。分け隔てなどなされませんでした。

教会の中には、社会的には、立場や影響力などにおいて異なる人たちがいます。逆にこのようなことには、まったく無関係な人もいます。様々な人たちが教会には集められています。そして新来会者として新しい方が、礼拝の群れに加えられていきます。しかしそこで、人を分け隔てして偏り見ることは、教会が一つの体であるという本質から大きく外れていくことになるのです。「私たちの教会ではそのような事はない」と、私は思っています。しかし今回このみ言葉が与えれて、身が引き閉まる思いがいたしました。このような極端なことはしていなかったとしても、自分自身が発する言葉によって、相手に不快な思いをさせてしまったり、差別的に受け止められてしまったことはないだろうか、と考えさせられました。

8節の言葉は、色々な受け止め方があると言われています。肯定的に、素直に、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。」と。読むこともできます。しかし、ここでは、皮肉を込めての言葉ではないかと、いうこともでき、私はその読み方の方に近い考えを持っています。「あなたがたは「隣人を自分のように愛しなさい」という律法を守っていると言っているが、実際にそうであればよいですね。しかし、現実はそうではないのではないですか?」という指摘をしようとして、書かれているのではないでしょうか。

 9節.「人を分け隔てする」ことが、どのような律法の違反者となるのでしょうか。ヤコブが最も尊い律法として挙げたのは、「隣人を自分のように愛しなさい」でした。あなた方は神様の心を痛めているのだ、そのことに気づかなければならない、これがヤコブが教会の人たちに律法との関係で教えようとしていることであったのです。

 

 10月8日 

「赦し」 佐野 治牧師

ルカによる福音書17章1-10節

 

本日の聖書箇所に出てくる二つの事柄は、つまずきをもたらす者への対応、そして赦しについてです。この二つは、バラバラのことを言っているのではなくて、つながりがあると思われます。

イエス様のことを中心として考えるのは一人だけではありません。一つのグループだけでもありません。たくさんの人がいて、たくさんのグループがあるのです。その中のグループで、イエス様を中心として考えるはずのグループが、人間をリーダーにおいて、人間を中心とする、自分自身を中心とする群れが形つくられてしまうこともあるのです。

ここではつまずく人よりも、つまずかせてしまう人が問題となっているのです。イエス様は、福音の純粋さを危うくする者やユダヤ教に戻り、あるいは異教に走り、あるいはイエス様からすら離れて、独自性を強調するような教えや指導者がいても、不思議ではないというのです。

私たちが生活をしていく中で、イエス様を祈り求めることもたくさんあると思います。また、イエス様の恵みに感謝をすることもたくさんあると思います。しかし、私たちは気を付けなければならないことがあるのです。それは、私たちの求めている神様は、ご利益宗教的な神様ではないということです。

主なる神さまは、良い事ばかりではなくて、間違っていることに対しては、戒めを与えられて、そして、そのことに気づかせて、悔い改めを求められるのです。

ここでパウロは赦しの勧めをしているのです。「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい」と書かれています。「罪を犯したら」と書いてありますが、それ以上の詳細はしるされていません。それに対する対応はどうしたらよいかと言うと、まず「戒めなさい」と言うのです。率直な指摘を改善へと勧めるのです。そして次に、「悔い改めた場合は、赦してあげなさい。と勧めているのです。

私たちはなぜ、赦すのでしょうか。なぜ私たちクリスチャンは、このようなことを教えられるのでしょうか。そのことについて聖書には、とても大切なことが書かれています。

使徒たちが、イエス様に質問をするのです。「私たちの信仰を増して下さい。」と。使徒たちは自分たちには信仰があるが、それが少ない。と思っていたのでしょうか。この言葉を少しみてみたときに、信仰は自分の所有物である。しかし、まだ足りない、と言っているとも言えます。

「信仰は神様の働きです」そして賜物であるのです。この働きが、隣人、他者への愛への働きへと向かっていくのです。

 

 10月15日 

「わたしはこう祈ります」 佐野 治牧師

フィリピの信徒への手紙1章1~11節

 

本日私たちに与えられている御言葉は、使徒パウロがフィリピの教会に宛てた手紙の冒頭において、差出人である自分と宛先であるのフィリピの教会を記しています。

第一のキーワードは、「キリスト・イエスの僕」。パウロは、自分のことを指して、「キリスト・イエスの僕」と言います。パウロはこの言葉を、大変誇りを持って使っています。

第二のキーワードは「キリスト・イエスに結ばれている」。パウロにとってピリピの教会の人々は、本当に親しい関係にありました。パウロは、そのような人間的な交わりの中でフィリピの人々を見ているのではないのです。パウロはフィリピの人々を、何よりも「キリスト・イエスに結ばれた者」として見ているのです。

最後のキーワードは「聖なる者たち」。神さまの聖さに与っていると言うことは、罪と戦い、それに打ち勝つ者とされているということでもあるのです。

「キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださる」と、6節に続きます。このような言い方によって、神様によって建てられた地上の教会が、終末の日まで続けられる教会であることが、明らかにされているのです。教会が常にその目標として仰ぐべきものはなんでしょうか。それは、ただ主の日に、キリストがおいでになる終末の時なのです。教会は、終末の時を目指して前進をするのです。

勿来教会は、今年で創立66年を迎えます。同じ地において、66年間勿来教会がたち続けているのです。その間には、いくつもの教会にとっての危機的な状況がありました。しかし、信仰の先達者たちの祈りによって支えられて、今日まで、建ち続けることが出来ています。そしてまた、勿来教会は孤立した教会ではありません。この勿来、錦町の地域に根差した、地域の人たちが「あ、勿来教会ね」と、すぐに言ってもらえる教会となっているのです。勿来教会は、この錦町の地に密着をした教会であり続けたいと願うのです。

3節から11節までに記されていることは、感謝の言葉です。しかしパウロはここで、 フィリピの教会の信徒のために祈っていると述べていますので、感謝の祈りと言ってもよいのですが、その祈りの内容は、フィリピの教会の人たちに対する感謝の祈りではなくて、神様に対する感謝の祈りであるのです。

主が不完全な者のためにこそ、十字架による贖いの御業を成し遂げてくださるのです。その贖いを信じる者にとって、「キリスト・イエスの日」と言うのは、裁かれることを恐れる日ではなくて、主が救いの業を完成してくださる、希望の日なのです。

 苦しみの中にあっても、信仰の内に歩んでいる者は、「キリスト・イエスの日」を、楽しみにして待つことが出来るのです。不完全な者であっても、「キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち」として、喜びを持って、歩むことが出来るのです。 

 

 10月22日 

「信仰の創始者であるイエス様」 佐野 治牧師

ヘブライ人への手紙11章32節~12章2節

 

本日の新約聖書のみ言葉、ヘブライ人への手紙の著者は、ここに書かれている説教の中で言うのでしたら、寄り道、回り道のような箇所であると言われています。そうであるなら、ここの箇所の本論はどこに戻ることになるのでしょうか。

12章で本論に戻って浮かび上がってくるのは、「忍耐強く」と言う言葉です。2節にも3節にも「耐えることが語られて、勧められています。

もう一つ目を留めたい言葉があります。それは「喜びを捨て」と訳されている言葉です、イエス様の十字架を仰ぎ見る時に、自分の心を惹きつける地上の喜びを自分も捨てることが出来るのです。

第一番目は、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てるということです。長距離走、あるいはマラソンを走るのに、荷物を背負って走る人はいないですよね。できるだけ身を軽くして走ります。靴にしても、着るものにしても、できるだけ軽くして走るわけです。それと同じように、信仰のレースをする人も、レースの障がいになるようなものを取り除かなければなりません。

第二番目は、イエス様から目を離さないということです。ここには苦しみだけでなく、喜びもあったことがわかります。苦しみの中にも喜びがあります。ゴールのないマラソンを走るような人はいないと思います。

第三番目は、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方とは、イエス様のことです。イエス様は、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方です。このイエス様のことを考えなければなりません。

私たちは、喜びを持って、主に仕えます。イエス様の十字架による死と復活を信じ、神さまの大いなる恵みの愛の業を体全身で受け止めて、信仰生活を歩みます。しかしその信仰生活を継続していくには、多くの試練、多くの誘惑があります。それに負けて信仰生活を継続することが出来ずに、主なるキリストの体である教会から離れてしまう人も少なくありません。その信仰生活を継続させていくことに、とても大切なことはなんでしょうか。それは、イエス様から目を離さないということです。イエス様を見つめ、そしてイエス様の歩んだ道を共に歩んでいく。神様が私たちに向けられた愛の御業を感謝して受け止めて、そしてその愛の御業を私たちの隣人を思い、喜びを持って行っていく。そのことが求められるのです。

 信仰の創始者であり、完成者であるイエス様を見つめ、そして目を離さないでいなさい。そうすれば、あなたはこのイエス様から励ましと力をいただき、あなたの前に置かれて いる信仰のレースを最後まで走り抜くことができるのです。

 

 10月29日 

「ヴィア・ドロローサ 悲しみの道」大森 意策神学生

創世記1章1~5節、24~31節

ヨハネによる福音書1章1~14節

 

創世記の1章では。神は「・・あれ」と言われます。そして神が言葉を語られると、その後実際にそのようになります。そうして天地がつくられ、時間と空間が作られていったことが語られます。そして6 日目におつくりになった全てをご覧になって「見よ、それは極めて良かった」と語られます。

ヨハネ福音書の冒頭もまた、とても荘厳な印象を受けます。他の共観福音書とはまた違った意味での、主イエスの誕生物語で、とても惹きつけられる言葉で始められます。けれど、何かわかったようで、わからない、表現になっています。が、ここに出てくる「ことば」という単語をイエス・キリストに置き換えると少しわかるようになります。「初めに言、イエス・キリストがあった。言、イエス・キリストは神と共にあった。言、イエス・キリストは神であった、この言は、イエス・キリストは、初めに神と共にあった」。

私たち一人一人にも、それぞれの誕生物語があります。で、私たちは、自分のことは自分が一番よくわかっている、と思っています。でも実は私たちは自分で思っているほど、自分のことはわかっていないのかもしれません。私たち時として、自分の思い込みの中で身動きができなくなって、どのように歩んだらよいか、しばしばわからなくなり、さまよってしまうことがあります。そのような時、イエス・キリストの物語が、2000年間伝えられた物語が、私たちの暗闇の光となり、私たちに新たな「ことば」として立ち現れ、新たな物語の息吹が吹き込まれるのです。

ご存知の方も多いかと思いますが、現在、エルサレムの街にはヴィア・ドロローサ、悲しみの道とか苦難の道というところがあります。私は今回の旅で、そこを何度もと訪れました。主イエスが、ポンテオ・ピラトによって、死刑判決を受けたのち、そこからゴルゴダの丘に向けて十字架を背負って歩まれた道です。距離は600mから1Km くらいの短い道です。その道を主イエスは歩まれた。今回私はその道を5 回訪れました。このヴィアドロローサの道、凸凹の坂道を主イエスが十字架を背負って歩まれた。昔からその道のそれそれの場所で起こった出来事が語られています。その内の3箇所は、十字架を背負われたイエスがつまずかれた、と言われる場所でした。重い十字架を背負って、何度もつまずかれた。その十字架の重さは、主イエスの背中にのしかかっているのは、もちろん私たちの罪の重さでもあります。この道で、主イエスがつまずかれ、倒れられた場にたたずみながら、ある詩を思い出しました。『あしあと』という詩です。「ある夜、私は夢の中で主とともに、浜辺を歩いていた。夜空には、私の人生の日々が映しだされていた。砂の上には、二人のあしあとが残されていた。わたしと主のあしあと。次に私の前に一つの場面が映し出された時、私はそのあしあとに目をとめた。そこには一つのあしあとしかなかった。わたしの人生で一番つらく、悲しい時だった。私の心は乱れ、どうしてなのかと主にお尋ねした。『主よ、わたしがあなたに従いたいと願ったとき、あなたは、いつも私と共にいると約束してくださいました。けれど、私の人生の一番つらい時、私は一人ぼっちで、砂浜には一人のあしあとしかなかったのです。あなたは、なぜ、私と共にいて下さらなかったのですか?』と。すると、主は、しずかに語られた。『わたしの大切な子よ。わたしは、どこまでも、あなたを愛している。わたしは一度もあなたを見捨てたことはない。あなたが苦しみの中にあったとき、あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って共に歩んでいた。わたしは、あなたと共に、いつもいる』と。」

 そのことに気がついた時、ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)は、私たちにとっての希望に道へとなるのです。そして、ヨハネ福音書は、この新しい「いのち」を、永遠の命と私たちに語るのです。

 

2023年9月

 9月3日 

「神がご存じです」 佐野 治牧師

コリントの信徒への手紙二 11章7~15節

 

コリントの手紙二は、コリントの手紙一とは違って、コリントの教会の内部的な営みと深くかかわっていて、使徒パウロが自分の使徒職について説明して、擁護し、弁明するために書かれた手紙なのです。この手紙は一度に書かれたものではなく、いくつかの手紙を、パウロの死後、コリントでだれかが保存するために、一緒に組み合わせた手紙と思われています。

本日の旧約聖書のみ言葉を見てみましょう。知恵の書の中の格言集と呼ばれている箴言です。箴言の25 章にも、「ことを隠すのは神の誉れことを極めるのは、王の誉れ」と書かれています。また「王の前でうぬぼれるな。身分の高い人々の場に立とうとするな」とあります。傲慢さを捨てて、低くたつ、そのようにしてこの世で隠れたようにあり続けることを神様は称賛して、そのような生き方をご自分の誉れとして下さると、語り継がれているのです。

パウロは、外見は見栄えのしない、と人々から言われたようです。パウロに対する敵対者たちは、パウロの弱さ、欠点をとらえて攻撃してきます。パウロの使徒職を否定しようとしました。

11章7節からは、パウロの使徒職が、偽使徒たちのそれと異なるもう一つの点が取り上げます。それは、無報酬でパウロが福音を宣べ伝えていることについて、反対者からの批判があったからです。パウロが最初にコリントを訪れ、一年半滞在して福音を宣べ伝えたとき、パウロはアキラ・プリスカ夫妻の家に住み込んで、一緒にテント造りの仕事をして収入を得ながら(使徒18・1~4)、安息日ごとに会堂で福音を伝えていたのです。「あなたがたを高めるため、自分を低くし神の福音を無報酬で告げ知らせたからといって、わたしは罪を犯したことになるでしょうか。」とパウロは言っています。

 今回、この説教準備をしているときに、何年前にヒットしたフォクソングだかは、覚えていませんが、「あの素晴らしい愛をもう一度」を思い起こしました。パウロは、まさに「あの素晴らしい愛をもう一度」と切実に願っているのではないか、と思ったのです。神様の熱い思いにこたえていた、かつてのコリントの人たちです。パウロは思うのです。それが様々な偽使徒などの登場によって、神様を重んじていた人たちが、人間の言葉や思いに重きを置くようになってしまい、変わってしまった。しかし、「もう一度」起こること、もう一度、自分たちの愚かさに気づき、悔い改めて、神様の言葉に耳を傾けて、「あの素晴らしい愛」がもう一度起こってほしい。これがパウロの心からの願いであったのではないでしょうか

 

 9月10日 

「十字架を誇る」 佐野 治牧師

ガラテヤの信徒への手紙6章14~18節

 

パウロが約2年間エフェソに滞在していた時のことです。パウロはガラテヤ教会の憂慮すべき事態を聞くと、直ちに激しい論争と叱責の手紙を書き、信徒たちを正しい信仰に引き戻そうとしたのでした。

「肉において人からよく思われたがっている…割礼を受けさせようとしています。」ここの箇所において、いつわりの福音を伝える敵対者たちを思い起させます。「肉において人からよく思われたい」と願って、あなたがたに割礼を強いるのは、ユダヤ教徒から背教者として迫害されることを恐れ、身の安全を守ろうとする自分たちのためを思ってのこと以外の、何ものでもありません。パウロは彼らの魂胆を暴いたのです。

「これからは、だれもわたしを…イエスの焼き印を身に受けているのです。」

煩わすとはどんな意味でしょう。それはユダヤ人キリスト者の偽りの福音に惑わされて、パウロの伝えた、真の福音から離れ、偽りの神々に仕えるかつての「奴隷状態」へ逆戻りの道を歩むことであるのです。パウロの心を痛ませ、悩ませ、そしてこのような手紙をパウロが書き記したのです。

パウロは、「この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対し、はりつけにされている」と語りました。洗礼によって、キリストと結び合わされた人は、主の十字架の死にあずかる。」とあります。また、古い自分のすべてが十字架にかけられて滅ぼされ、この世との関係も決定的に断絶させられるというのです。

この聖書個所を読んだときに、皆さまはどう感じたでしょうか。私は、「自分自身はどうだろう」という思いになりました。自分自身を誇るようなことをしていないだろうか。と、振り返りの時が与えられました。ここでもう一度改めて覚えたいと思ったことは、やはり、私自身が誇るものは何か、と言うことです。パウロは、自分自身にとげがあると言っています。そしてそのとげを、取り除いてほしいと、神様に祈りましたが、そのとげは取り除かれませんでした。そして言ったのです。「自分は、弱い時にこそ強い」と。とげがあり苦しみの中にある、その時程、強いというのです。何かを行い、成功をした、何かがうまくいった、そのような時に、自分の功績をほめたたえたくなってしまう、それが私たちです。しかしそこで、神様が共にいてくださったことを忘れてはならずに、誇るとするならば、「イエス・キリストの十字架を誇る」このことを再度、確認させられました。

 最後に、パウロは「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。」と、主の十字架に集中する形で、信仰を告白しています。この聖書箇所を読んでおりますと、イエス・キリストの十字架のみを誇る、パウロの宣教に対する使命感と、パウロの覚悟が響いてくるように感じます。

 

 9月17日 

「赦し合う」 佐野 治牧師

コロサイの信徒への手紙3章12~17節

 

先ほど司式者によってお読み頂いた、コロサイの信徒への手紙を見て行きます。「古い人」の特徴は何と言っているでしょうか。「みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲」(3章5節)「怒り、憤り、悪意、そして口から出る恥ずかしい言葉(8節)とあります。それらを脱ぎ捨てて「新しい人」の特性を告げます。そして「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛、を身につけなさい」とパウロは言うのです。

「忍び合い、赦し合いなさい」と語ったパウロは、イエス様のこの遺言を思い出したかのように、「これらすべてに加えて、愛を身につけなさい」と勧めます。そしてパウロはコリントの教会に宛てて、「それゆえ信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(コリ一13:13)。と語ります。

私たちは、日常の生活の中で、様々な状況下の中にさらされます。怒り、悲しみ、苦しみ、そして笑い、喜び、感謝等、喜怒哀楽と言う感情を持っています。

「神様が私たちを愛して下さったように、隣人を愛しなさい」と言う言葉を耳にしたとき、皆さまは、このみ言葉をどのように受け止めるでしょうか。

とは言っても、赦せない気持ちが抑えられない時があります。そのような時はどうしましょう。教会にご相談に来られる方の中には、このような相談をされる方がおられます。そのような時の一つの方法として、私は一緒に祈ります。

パウロにとって教会はどのように言っているでしょうか。それは「キリストの体」です。何が原因であったとしても、教会に不和や分裂が起こることは、パウロは到底容認できる事態ではありませんでした。教会に不和や分裂があることは、「キリストの体」が引き裂かれることを意味していたからです。パウロは、コリントの信徒への手紙一1章10節で、繰り返し「一つの体」と言う言い方をして「心を一つにする」ように訴えました。

15節の後半には、「いつも感謝しなさい」と有ります。最後は「父である神に感謝しなさい」と言う言葉で閉じられています。「感謝」と言う言葉で挟まれた締めくくりの部分の中心には、「感謝して心から神をほめたたえなさい」と言う言葉があります。

最後に、本日の12 節―17 節のみ言葉を見てみると、パウロは具体的な勧めをする根拠を指示しておりました。それは、何よりもキリストにおいて示された神の愛を思い起こさせようとしているのです。

 キリスト者として生きることは、キリストに結ばれた生活をしていくことはもちろんでありますが、それは「詩編と賛歌と霊的な歌」により、感謝して心から神をほめたたえる礼拝から始まることであるのです。

 

 9月24日 

「荒れ野における祝福」 中條康仁牧師

          (安積教会・本宮教会)

  サムエル記上24章1~16節

コリントの信徒への手紙二11章7~10節

 

旧約聖書に登場するダビデは、神さまに尊く用いられた偉大な王であり、詩人、また信仰者でした。しかし、彼の生涯は決して順風満帆ではありませんでした。ダビデには敵の手から逃避する苦難の時代が2度ありましたが、今日の箇所はその最初の時代の出来事です。ダビデは、追跡するサウル王から命からがらエン・ゲティの荒れ野に逃れましたが、そこは決して自ら望んで向かった場所ではありませんでした。旧約時代の理解では、荒れ野とは神さまの祝福から逸れた場所を意味しました。つらく困難な荒れ野…しかしダビデは、ここで神さまのご臨在と導きを再確認したのでした。

3000人の軍隊を引き連れたサウル王は、用を足そうと一人で洞窟に入ったとき、そこには何とダビデと部下たちが休息していたのでした(4節)。部下たちはここで仕留めるべきと進言しましたが、ダビデはそれを退けて言いました。「わたしの主君であり、主が油を注がれた方に、わたしが手をかけ、このようなことをするのを、主は決して許されない。彼は主が油を注がれた方なのだ」(7節)。神さまが選ばれた器に手をかけることは、神さまへの許されざる反逆であるという信仰をダビデは持っていたのです。ダビデはサウル王の上着の端を切り落とし、サウル王の背後から自分の潔白を訴えました(5~16節)。その後、サウル王は自分の命が奪われなかったことに感動し、一旦は悔い改めたかに思われましたが、しかし相変わらずダビデの命を狙うことに血眼になったことがその後の展開で分かります。

今日の箇所には、サウル王とダビデは対照的に記されています。嫉妬に燃え、忠実な部下を殺害しようとするサウル王、苦難の荒れ野の中でそれでも主を避けどころとする祈りと信仰で過ごしたダビデ(詩編57:2~4)。この苦難の荒れ野の中で、主に祈り御心を求める中で気づかされました。それは、権力や力(またその他全てのもの)は自分が使いたいように使うために与えられたのではない、むしろ主の御心をなすために与えられた、と。なので、自分の形勢逆転チャンスのときにも、ダビデはサウル王の命を奪わなかったのです。

 荒れ野の時間は、ダビデにとって神さまに出会い、より謙虚に従い行くための大切な時間でした。サウル王の次にダビデは王位を受けますが、神の民を導くダビデにとって、荒れ野での時間を通して、王にふさわしくされるための訓練学校となったのです。私たちもダビデの様に、人生の荒れ野とも言うべき時間を過ごすことがあるかも知れません。しかし、その苦難の中にも、主が共にいてくださり、御言葉と聖霊による導きを通して、私たちをよりふさわしい主の民としてくださることを信じます。感謝をもって今週も歩んでまいりましょう。

 

2023年8月

 8月6日 

「苦難の共同体」 佐野 治牧師

ペトロの手紙一 3章13~22節

 

私が小学生のころ、海ではなく、カニではありませんが、ザリガニとりによく出かけていたんですね。タコ糸にイカの切り身を結んで、水の中にたらすと、ザリガニがかかってくるのです。ザリガニを取る前に沼地にはまってしまうと、足が抜けなくなってしまい、大変なことになってしまいます。しかし、回数を重ねていくと、うまく通れるようになっていくのです。それは、前の人が通った足跡があるのです。その足跡の上に足をのせて、ゆっくりと行くことです。

2章21節に、「あなたがたが召されたのは…キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」という言葉に出会いました。イエス様の弟子であるペトロが大切にして、信仰生活の中心においているみ言葉です。

ローマ帝国の迫害の時代に、キリスト者たちは各地に離散して、異教社会の中で主を礼拝し続けていました。主の日の朝は、少数のキリスト者たちが信徒の家に集まって礼拝を捧げていました。そこにローマの兵士たちがなだれ込み、礼拝を捧げていた者たちを片っ端からとらえていくのです。その中には、キリスト者だけではなくて、まだ洗礼を受けていない家族や友人たちもいたのです。そのような者たちも捕らえられて、殺されてしまっていたのです。そこで切実の問いが生まれたのです。「洗礼を受けずに死んでいった家族や友人は救われるのでしょうか。」という問いです。

驚くべき言葉です。十字架で死なれて、復活されたイエス様は、直ちに天に上って行かれたのではなかったのです。死者のところへ行って、キリストを信じずに死んだ者たちに福音を告げ知らせていたというのです。このようなみ言葉は聖書のほかの箇所では出てきません。このペトロの手紙のみです。

私たちは主の日の礼拝で、教会が受け継いできた大切な信仰告白をしています。使徒信条です。その中で「主イエス・キリストは、十字架につけられ、死にて葬られ、よみにくだり、三日目に死人の内からよみがえり」と続きますが、皆さんは、「よみにくだり」という言葉を、どのような思いで告白をしているでしょうか。

 ここでペトロは改めて、十字架で死なれて、葬られて、三日目に復活されて、天に上られたイエス様の出来事を示したのです。神はこれらのイエス様の一連の出来事を通して、私たちにどのような救いの道を開かれたのかを問い続けたのです。その時にペトロに一つの確信が与えられました。「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなた方を神の下へ導くためです。私たちの罪のために、十字架にかかり、死なれて、よみにくだられ、三日目に復活なされた、イエス様です。

 

 8月13日 

「神によって選ばれた者」 佐野 治牧師

テサロニケの信徒への手紙一 1章1~10節

 

パウロは、テサロニケを訪問しています。テサロニケを訪問した結果、そこにイエス様を信じる人たちの群れが生まれたのです。(使徒17:1-9)しかしパウロに危険が迫ったので、この地を去ったのです。しかしパウロはテサロニケのことが心配で仕方がありませんでした。ですので、パウロはその地へテモテを遣わしました。

「祈りのたびに…あなた方のことを思い起こして」と、パウロは言っています。教会やキリスト者の背後にあるのは、祈る人がいてくださる、ということです。

 コリントの信徒への手紙一13:13に「信仰と希望と愛、この三つは、いつまでも残る。」と記されています。この言葉は、キリスト教の恵みの本質を示すものと言われています。その中の信仰は、多くの働きを生み出す原動力と言われています。

皆さんは、からし種を見たことがありますか。本当に小さな、砂粒のような大きさの種です。その小さな種ではありますが、それが地にまかれて、成長すると、数メートルにもなるように、小さな信仰であっても、それが生きて働くときに、人や社会を動かし世界や歴史を動かしていくのであると、イエス様はお話になられたのです。

テサロニケの教会の人たちは迫害の中にあったのです。しかしそれを耐えたのです。信仰を守ることができたのでした。なぜできたのでしょうか。それはキリストの再臨を待ち望むという大きな希望があったからなのでした。

9節には「偶像」という言葉が出ております。偶像とは、聖書ではどのような意味として使われているでしょうか。それは、一貫して、空しく空虚なものとして厳しく退けられてきました。ヤハウェなる神様があってあるもの、存在を存在として示しているもの、存在の根源であることに対して、偶像は、無存在、空虚なものであると言っているのです。

私は以前にカルトと呼ばれる団体に入信をしていた方から次のように話をお聞きしたことがあります。教会に出会うまでは、そこが一番の自分の居場所だと思っていた、というのです。しかしだんだんと年数を重ねるうちに、あれ、なんかおかしい、何かが違う、ということに気づかされていきました。そんな不安な気持ちを抱きながら、ふと教会に吸い込まれ、キリスト教と出会ったのです。そこで真実な神様の愛に出会いました。」と。

 「神の怒り」イエス様は、私たちの罪を背負われて、十字架につけられて死なれました。そしてよみにまでくだられて復活されました。そのイエス様の十字架こそが神の怒りから私たちを救い出してくださる唯一の方法であるのです。神様の怒りの激しさの前にして誰もが身ぶるいするほどに驚き恐れるに違いありません。しかし神様の怒りが激しければ激しいほどに、イエス様によって怒りから救い出される神様の恵みの深さと愛の大きさを私たちは痛感することとなるのです。

 

 8月20日 

「み言葉を行う人」 佐野 治牧師

ヤコブの手紙1章19~27節

 

聖書のみ言葉を見ていきたいと思います。

19節。最初に「聞くのに早く」と言われています。その後「話すこと」「怒ること」に関しては、「遅く」と言われています。「早い」とか「遅い」とか聞きますと、スピードを思い起こす方は多いですよね。私もそのように受け止めておりましたが、どうもここの箇所では、速度の問題ではないようです。速度の問題ではなくて、心の姿勢、あるいは人間的な応答の在り方に関することが、速さの概念を含んでいる言葉を用いて語られている、と考えるほうが良いのではないでしょうか。

次に、「語るのに遅く」と有ります。神様の言葉を聞くことは、次に語ること、伝えることへと進んでいきます。その時に、遅いように、というのです。み言葉を語ることに対して、もったいぶるようにということではありません。

三つ目の「怒るのに遅く」と忠告をされています。ここでは決して怒ってはいけない、とは、語っているのではありません。ここでは、怒るにしても、正当な怒りがあるということを含んでいるのです。

皆さんは、自分自身がコントロール出来ないほどの怒り、を経験したことがあるでしょうか。私はありませんが、経験されたかは、本当に自分を自分で抑えることが出来ないくらいに、なってしまう、と言っておりました。ヤコブは「怒るのに遅いように」、誤りに満ちた怒りに陥ることのないように、警告をしているのです。

ヤコブは聞くだけの行為と対比して「行うこと」を教えています。背景にあるみ言葉はイエス様の種まきのたとえです。

「聞くだけの人」をどのように描写しているかを見てみますと、第一には「自分を欺いて」と描写されています。「欺く」という言葉は「勘定をごまかす」といった意味がありますが、自分を欺くとは、自分に対して、自分の評価をごまかして計算することです。

「自分を欺くこと」と「鏡を眺めただけで立ち去って、何を見たかを忘れてしまうこと」の二つを結びつけますと、私たちは神様の言葉という鏡に対面して、自分とは何者なのか。という生まれついての自分の姿を知らされることとなるのです。

 ヤコブは言っています。ただみ言葉を聞くだけではいけません。神さまのみ言葉には魂を救う力があると。「この魂を救う力があるみ言葉に、あなたの全生涯をかけて、従ってごらんなさい」ヤコブは言うのです。神様は、あなたの魂を救うだけではなくて、あなたの生涯を通して賢い生き方をさせてくださるのです。神様のみ言葉は、あなたがたが神様に栄光を期するような生き方ができるようにさせてくださることを約束しておられるのです。

 

 8月27日 

「生きるにしても死ぬにしても」 佐野 治牧師

ローマの信徒への手紙14章1~9節

 

ローマの信徒への手紙14章ではまず、「信仰の弱い人」たちにどう接するべきなのか等かが語られています。3 節。これは、「人は行いによってではなく、信仰によって義とされる」というパウロの中心的な主張であるこの言葉からしてみまと、当然のことということが出来ます。神様は、その人の行いではなくて、心の中にある罪や謙遜、神様に自分の全てを委ねる信仰や従順、つまりその人の信仰を見ておられるのです。異なる確信を持つキリスト者が同じ交わりの中にあるときに、どうすべきなのでしょうか。パウロはその想定となっている事柄に対して、どちらにも加担しないと言っています。それぞれに配慮し、違いがあることを確立するにとめるというのです。パウロが心を配っているのは、この問題が及ぼす教会への影響でした。

勿来教会は小さな教会です。小さな集団です。10人の方が集えば、10通りの考え方を持っています。キリスト教信仰を持っている方の集まりでありますが、洗礼を受けてからの年数も様々ですし、まだ洗礼を受けていない人もいます。この教会の方々は、そのような方々を受け入れて、共に教会生活を喜びを持って、送って下さっています。教会に初めて来た人が、この教会の方々はあたたかいですね。この教会の人たちは親しみやすいですね。と言ってくださいます。とてもうれしく思いました。

8節.洗礼によって、「キリストと共に葬られ、キリスト共に復活させられるという新しい生活が始まるのです。「主のために生きる」とは、イエス様によってあらわされた神様の愛にこたえる生き方をするということです。死においても、主のために死ぬのです。なぜなら、私たちは洗礼後、イエス様に属しイエス様の死と復活に与るからです。

トーマス・ロング著作の「歌いつつ聖徒らと共に」という本があります。そこに書かれていたことの一つが、マザーテレサのことについてです。悲惨な状況にあるコルカタの人々のために、自分を顧みず世話をした修道女として、半世紀にわたって世界中の人々の心を動かしながらも、心に深い傷をも持っていたのです。マザーテレサは2016年に、カトリック教会の聖者の列に加えられた女性でした。なぜ信仰を捨てなかったのでしょうか。マザーテレサは他の書物の中でその秘訣を語っていました。「朝四時ごろと夕方は八時ごろのミサがその活力の源である」と

 9節.ここでまず大切なことは「死んだ人にも生きている人にも」と書かれているところです。生と死の両方の領域においてイエス様は主権を持っておられるということです。イエス様は、両方の領域で主権を確立されたのです。私たちは、どんな領域においても、イエス様のものとされているのです。

 

2023年7月

 7月2日 

「福音が告げ知らされる」 佐野 治牧師

使徒言行録11章4~18節

 

ペトロは、伝道活動をしておりました。そしてカイサリアにおいての伝道活動が、大成功して、異邦人の方がたくさんバプテスマを受けたことを聞いて、エルサレム教会の人たちの多くは、喜んでいました。しかし、その喜んだ人も含めて、心のどこかで「これでよかったのか。」「異邦人伝道をここまでやるべきだったのか」という疑念を持つ人も少なくありませんでした。それは、今までに前例がなかったからです。イエス様は、当時のユダヤ人から「汚れた者」として疎外されていた人たち、聖書に出てくる重い皮膚病の患者、遊女と呼ばれている人、徴税人に近づいて行かれたのです。イエス様は、なぜそのようないわゆる汚れた者たちの方へと、救いの御手をお与えになったのでしょうか。

本日の使徒言行録11章の主だったテーマは、異邦人の救いです。ペトロたちが、10章の終わりに書いてあった通り、イタリア人コルネリウスの家に「数日滞在」している間に、このコルネリウス家の受洗のうわさが「使徒たちとユダヤにいる兄弟たちに」伝わっていったのです。ステファノの殉教から始まったユダヤ教会らのエルサレム・キリスト教会大迫害という事態に会っても「使徒たち」は、エルサレムにとどまったのです。1節に「異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にした」と有ります。ここに出てきました「神の言葉」というのは、旧約時代に唯一の神がイスラエルに語り掛けてこられた「神の言葉」という意味ではなくて、イエス様についての福音宣教の言葉であるのです。ユダヤ教最高議会から釈放されて戻ってきた弟子たちが「大胆に神の言葉を語り出した」と聖書には記されています。

パウロがガラテヤの信徒への手紙5章3節で「割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。」と書いています。ユダヤ教では「割礼」は、モーセの律法を皆守ります。という契約のしるしでした。それで今までキリスト教会のどんな人であっても、ヘブライ語を話す人でも、ギリシア語を話す人であっても、また改宗者でもサマリアの人であっても、「皆、割礼を受けている」、つまり律法を守るという点では共通していたのです。

 聖霊が与えられた以上、割礼はいらないと把握したのです。旧約の民たちに割礼が施されたのは、聖霊が与えられるという約束のしるしでありました。そのしるしは成就したと確信させられる事実が起こったのです。ですから、この成就が確認をされた以上、主の名において行われるバプテスマを人間が拒むべきではありません、という趣旨で、カイサリアではバプテスマが行われておりましたし、バプテスマのある所では、割礼はすでに全うされた約束のしるしでありますので、無用となったのです。そのような意味で廃止をされたのです。

 

 7月9日 

「騒ぐな。まだ生きている」 佐野 治牧師

使徒言行録20章7~12節

 

使徒言行録20章7節以下で、トロアスでの出来事が記されています。本日の聖書箇所の一節前の6節には、「七日間そこに滞在した」と書かれています。滞在して、出発する前の晩に集会をしたのです。トロアスでどのような伝道をしていたのでしょうか。教会がそこに生まれていたのです。「わたしたちが集まっていた階上の部屋」と8節に記されておりますが、これは多くの教会が、個人の家の、しかも2階あるいは3階を使っていたことがうかがえます。当時の家のつくりでは、おそらく上の方に大きな広間があったようです。そのようなところで集会をしていたのです。

パウロはずっと話を続けていました。9節には「パウロの話が長々と続いた」と記されています。とうとうエウティコという青年が、パウロのあまりにも長い話に耐えられなくなり、眠ってしまったのです。エウティコがいたのは窓の側で、その窓に腰でも掛けていたのでしょうか。3階の窓から落ちてしまったのです。眠りこけて3階から転落した青年エウティコという青年、パウロの説教は夜中まで続いたと記されています。真摯に話していたことでしょう。聴き手も熱心であったからこそ、説教者も熱心に語ったことでしょう。その部屋には「たくさんの灯がついていた」と有ります。それはあたかもそこに集まる人たちの情熱の炎であって、その情熱を燃やす聖霊の炎でもあったと言えるのです。

さて、このエウティコという青年の名前は、本日の聖書箇所だけ記されています。教会の歴史の中で、「礼拝の説教で、長い話を聞いて眠りこけて3階から落ちた」ことで、その名前が広まっていったのです。中々不名誉な広まりだと思います。ある神学者はこのエウティコという青年の名前に、まことに愛すべき名であるという響きを読み取るような気がします。と言った方がおられました。またこのエウティコの名がここに記されているのは、当時、このルカが使徒言行録を書いていた時に、すでに知られていた名前であったのではないかと思う、というのです。

「騒ぐな。まだ生きている」この言葉の解釈には、色々あります。一つの解釈は「まだ生きている」とあるように、「死んではいないよ、まだ息はしているよ」とパウロが言ったのだと読む人もありますが、そう読もうと思えば読むことができる言葉です。

 私たち人間は、肉体を持っています。肉体には限界があります。いつかは死ぬのです。しかし復活のキリストを信じて死ぬ者は、復活の恵みに与ることが出来るのです。それによって、「まだ生きている」という確信を持つことが出来るのです。死からよみがえり、永遠に生きておられるイエス様によって、私たちは死んでも生きるのです。

 

 7月16日 

「互いに重荷を担いあう」 佐野 治牧師

ガラテヤの信徒への手紙6章1~10節

 

先ほどお読みいただいた聖書のみ言葉は、6章1節からでしたが、5章25節、26節で、パウロは次のように言っています。「霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑みあったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」と。霊に従って、霊の導きに従って前進しない時に何が起こるのでしょう。それは「うぬぼれることに負けてしまう。」ということです。つまりうぬぼれが始まるということです。

この聖書箇所を読み進めているとき、私自身の過去を思い起こしました。神学校を卒業してすぐの出来事です。失敗をした時のことです。神学校を卒業して、私自身も、霊に従うことを心にはわかっておきながらも、自分自身のおごり高ぶり、つまり自分の栄光を求め続けてしまったことによる失敗であったな。と改めて考えさせられました。神学校を卒業したばかりで、経験も全くないのに、卒業したことで、嬉しくなってしまったのか、自分の思いを推し進めて、相手の話を聞くことが出来ない、そんな自分の姿がありました。

ガラテヤの教会の場合は、事情が少し異なります。人たちは決してコリントのようには不品行・不道徳ではありません。むしろ行いの点では、いたって真面目であったと言えるのです。しかしだからと言ってフィリピのように、パウロとの良好な温かい関係を維持することが出来たのではありませんでした。教会の中の人間関係も、互いに助け合うという暖かな愛の交わりが失われていたのです。霊的な能力を持っている人は、自分を「霊の人」と言って他の人に対して、優越性を主張してしまうのです。

しかしどうでしょうか。自分の能力が高いことを人に誇ることは、非常に心地よいのと大きな誘惑となります。パウロは4節で、「自分の行いを吟味しなさい」と語っています。

「侮る」という言葉が出てまいりました。「神を侮る」ということは、ここでイエス様が紹介してくださっている天の父を侮るということです。侮ったときには何が起こるのでしょう。それは、お互いに赦しあうことが出来なくなるのです。

教会は赦しに生きる。ということが出来ます。神の霊に支配されて、キリストが私たちのなかに生きていて下さるのです。ここには赦しが満ちているのです。

ガラテヤの教会指導者たちは「霊の人」と自称していました。そして高慢にふるまっていたのです。自分の霊的能力にあぐらをかいてすでに聖霊を受けて完全なものとなっていると自己過信していたのです。生きる目的や生きる張り合いが失われて、今という時が、かけがえのない、大切なものであることが自覚できません。

 私たちキリスト者は、恐れずに感謝と喜びを持って、この終わりの時を目指して、この道に励んでいくことが出来るのです。そうであるからこそ、今この時が、かけがえのない貴重な大切な、神様に対する感謝の応答の時となるのです。

 

 7月23日 

「皆、一つ」 佐野 治牧師

フィリピの信徒への手紙4章1~7節

 

 フィリピの信徒への手紙に登場してまいりましたのは、エボディアとシンティケという二人の女性です。フィリピの教会において、指導的な働きをしていたキリスト者であったようです。パウロはこの二人の婦人が「福音のためにわたしと共に戦ってくれた」と、その働きを高く評価しています。使徒言行録の16 章によりますと、フィリピの教会は、もともと女性の働きによって生まれました。それは世界伝道のきっかけになった出来事であると言われています。女性の働きが大きかったことを、パウロは体験として知っているのです。そして、この手紙でも二人の女性が登場しています。パウロはこの二人の女性とも一緒に働き、彼女たちに感謝していたことと思います。そしてこれからも、期待していたに違いありません。

私は、小中学生時代にいじめにあっていました。一人を集団でいじめるのです。その当時、痛い思いをした記憶や、悔しい思いをした記憶が、今もなお残っています。時々夢にも出てきます。この時のことを私はいつまでも赦すことが出来ませんでした。高校を卒業し、そして保育の専門学校へ入学した時から、私は教会学校の教師として教会で奉仕をするようになったのです。その時に、神様の愛についての教えを教会学校の説教で牧師先生がお話をされているのを聞きました。イエス様の十字架でのお言葉の場面です。十字架につけられたイエス様が言われました。「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」と。このメッセージを聞いたときに、私自身が絶対に赦さない。とこだわっていたそのことが、なんとちっぽけなことであって、神様の大きな愛の御業をここで改めて知ることが出来たのです。その時に私は、わたしをいじめてきた人たちを赦すことが出来たのです。

 パウロは、イエス様の復活によって明らかにされた、神様の恵みが「天上のもの、地上のもの、地下のもの」すべてを実効支配していることを高らかに宣言しています。それゆえに喜びに満たされているのです。そして私たちはその呼びかけに喜んで答えるのです。教会はいつの時代であっても、その時にその土台に立っている内側から外側からの絶え間ない挑戦を受けているということが出来ます。時にはそれが大きな波となって襲ってくることもあります。教会の大切な基礎を失ってしまいそうになることもあります。しかし、パウロは大切な言葉を言っています。「喜びなさい」という言葉を教会の群れに向かって言っているのです。パウロは、「主において喜びなさい。」と、教会の群れに対して呼びかけているのです。キリストにおいて喜ぶこと、キリストにおいて誇ること、これは一つのことを示していると言ってもよいのです。パウロは喜ぶにしても誇るにしてもその内容は「キリストにおいて」と示しているのです。

 

 7月30日 

「共に喜び、共に泣く」  大森意策神学生

            (日本聖書神学校3)

ローマの信徒への手紙12章9~21節

 

当初はキリスト教徒を迫害していたパウロは、復活の主イエスに出会って、イエス・キリストの言葉を伝える者とされました。それは、パウロ自身、思いもよらなかった出会いでした。そして、この出会いの喜びがあったから、パウロは、その後の困難な伝道旅行を続けることができたのでしょう。

以前パウロの手紙を読んだ時、その言葉が私には難しいだけでなく、権威的な表現だと感じていました。この原因の一つは聖書の訳しかたの問題に起因しています。今日の箇所も「・・しなさい」という命令口調で書かれています。しかし私は「・・しなさい」ではなくて、「・・するように」に変えた方が良いと考えています。それは神の権威がないと言うのではなくて、パウロ自身は権威的でない形で、ローマの信徒に勧めとして、神の権威を伝えたと考えているからです。ローマの信徒に愛情のこめて語られたこの箇所は、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣くように」というパウロの言葉として、私たちに語られているのではないでしょうか。

旧約聖書箇所は出エジプト記22章では、エジプトで寄留者にすぎない、寄る辺なきモーセの民が、神の導きによって、「いのち」を与えられたことが書かれています。私たちも、今、寄る辺なき人たちと連帯するように、と促され、人と人との連帯こそが、平和の礎になるのです。しかしながら、昨年からウクライナで戦争が始まり、現在世界は核戦争の危機にあります。報道によれば、ロシアでは報道統制がなされており、国民にはプロパガンダが流され、戦争が正当化されます。そうした中で、ブチャでの虐殺がありました。私は非人道的な残虐行為を行うロシアを嫌悪し、怒りを覚えます。けれど、少し振り返れば、現在のロシアは80年前の日本と同じであることに気づきます。同様の残虐行為が、かつて東南アジアで、この日本の軍隊が行っていたという事実。そして、そうした事実を知ることは個人としては辛く耐えられないことであり、私はこのような残忍なことを知る中で戸惑い、苦しくなります。こうした、現実の中で、私たちは、聖書の御言葉をどの様に聞き取ればいいのでしょうか。

私は赤ちゃんに関わる仕事を長くしてきました。そこで気づいたのは、弱く、小さな赤ちゃんのように、寄る辺なき私たちは、神から「いのち」を与えられ、みな同じ地平にいるということです。そのように私たちは「いのち」の時間を与えられています。この賜物としての「いのち」は、人の評価を超えて「可能性」に開かれています。けれど、戦争のような出来事だけでなく、ときに、私たちの生活の基盤と思っていたものが失われ、大切な人を亡くすことで、自分の時間を失うことがあります。ときに耐えられない不条理が起こります。そうしたことが起こると、時が止まり、混乱が訪れます。けれど、ヨブ記のヨブのように、そんな自らではもうどうしようもなくなってしまった時間のあとで、神の時間が立ち現れ、聖書の言葉が立ち現れます。そして再び「いのち」に気づかされるのです。

寄留の民であったモーセの民が、主から「いのち」を与えられ、祝福された記憶。その記憶を繰り返し後々まで語り継ぐ者として、かつて加害者であった私たち日本キリスト教団の教会は、1967年に戦争責任告白を出しました。現在に生きる私たちも、その記憶を繰り返し語り継いています。そして、私たちは加害者であるにも関わらず、知る勇気と、罪の告白が許されています。それができるのは、私たちがさまざまな過ちや罪の中で喘いでいるときも、イエス・キリストが泣いてくださっているからです。パウロの出会った復活の主イエスはそう言う方でした。

 私たちも、泣いているものと共に泣き、喜ぶものと共に喜ぶものとされるように。今週も、主からいただいた「いのち」に感謝しながら、共に歩みましょう。 

 

2023年6月

 6月4日 

「教会の使信」 佐野 治牧師

使徒言行録2章22~36節

 

あの臆病者であった弟子たちが、ついに立ち上がったのです。「ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた」というのです。イエス様がユダヤ人たちに捕らえられた時、怖くなって逃げだしてしまった弟子たちですが、生まれ変わったように堂々として立ち上がり、声を張り上げて、福音を宣べ伝え始めたのです。その説教には、ヨエル書や詩編からの引用が行われて、説得力があり、力強いものがありました。座って話すのが、ユダヤ教の習慣でしたが、ペトロたちはギリシア風に立って話し始めるのです。外国からやってきている人たちのためのスタイルではないでしょうか。このような弟子たちの変化も聖霊降臨による力であるに違いありません。

まず 22 節を見てみましょう。この文章で一番伝えたいことはなんでしょうか。それは「これらの話を聞いてください。ナザレのイエスを神からあなたがたに証明された人を。」ということです。中心点は、「ナザレのイエス」という方が「神から証明された人」であるということです。

23節を見てみましょう。この節で注目をしたい言葉は、「お定めになった計画により」ということです。イエス様が裏切られて殺されることになっても、これはすべて神様の御計画の一つであったということです。また、積極的にイエス様の死にはその深い意味があるということです。

24節で「復活」について語るのです。22節から続く文書で、ペトロの説教は、「イスラエルの人たち、これらの言葉を聞いてください。ナザレの人イエスを、神から引き渡されたこの方を、そしてその方を神は、と、どんどんと畳みかけて「復活させられたのです」というところまで一気に聴衆をひっぱっていったのです。聖霊の力を受けて、ペトロはイエス様の十字架と復活の意味を解き明かしています。イエス様が十字架で死なれたことはペトロや他の弟子たち自身の離反を思い出させるので、彼らにとってはつらい話ではあります。

33節では、「それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。」と続くのです。イエス様が体が朽ち果てることなく復活されたというこの「復活」は、ただそれだけで独立をしている出来事ではないということです。そうではなくて「それで、イエスは神の右に上げられ」るということに直結をしている出来事であるということです。

ペトロや弟子たちは、語りながら伝道する喜びを確かめていたことでしょう。聖霊が降るまで、自分たちは何の力も持っていなかったことを知っています。

 私たちも伝道の喜びを、伝道しながら、味わっていきたい。そのように思うのです。

 

 6月11日  子どもと共に守る礼拝 

「成長させてくださったのは神です」 佐野 治牧師

コリントの信徒への手紙一3章5~6節

 

礼拝堂の前に置かれている花を見てください。色とりどりのきれいなお花がたくさんあります。お花にもみんなとおなじように名前がありますが、お花の名前がわからないものが多いですね。この季節、幼稚園のお庭や小学校の校庭などでも、きれいなお花がたくさん咲いていますね。

皆さんは、お花をどのように育てるか知っていますか。一応、わたしも知っているのですが、自分で育ててみようと思っても、うまくいかないことが多いです。幼稚園や小学校で、朝顔の種を植えませんでしたか。私は、小学校低学年の時に、学校で植えて、家に持って帰って、枯らしてしまった経験があります。朝顔の種を植えて、葉っぱが出て、花が咲くために、必要なものは何でしょうか。水・日光・そして酸素(空気)ですね。これがそろわないと、お花は元気に育ちません。私がなんで枯らしてしまったかと言いますと、お水をあげすぎてしまったからですね。「朝顔さん、お水たくさん飲んで元気に育ってね」と言いながら、たくさんジョーロで水をあげていたら、根っこが腐って、死んでしまったのです。この三つが、お花や野菜を育てるのに大切です。と言われています。この三つは、神様から頂いた恵ですね。

お花などに水をあげるのは私たち人間ですね。種を植えたり世話をするのも、私たち人間でね。でも、その花を成長させるのは、私たちではないのですね。それは、神様がしてくださるのです。

今日の聖書の中に、パウロさんとアポロさんという人の名前が出てきました。そしてパウロさんが言っています。「わたしが植え、アポロが水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」ここで言っている通りです。パウロとアポロは、水をやったり、植えたりしています。しかし成長をさせて下さったのは、神様なのですね。

 今日は花の日・子どもの日の礼拝をおささげしています。先ほど、子ども祝福の祈りを行いましたね。神様が成長をさせてくださるのは、花や草だけではありません。この世に生、つまり命があるもの全てです。ですからもちろん私たちもその一つです。神様は、人間がとても大好きでした。特に子どもたちが好きであったと聖書には書いてあります。子どもたちを祝福されました。私たちを成長させてくださるのです。ですから神様は私たちにたくさんの愛を注いで、成長をさせてくださるのですね。お家でたくさんの愛情を受けて私たちは育ちました。そこで忘れてはならないことは、神様の存在です。神様は目には見ることが出来ませんが、いつも私たちを愛して成長を見守り、助けてくださっているのです。そして、あなたたち一人一人に、たくさんの祝福がありますように。と、神様はいつも願い、祈っていて下さるのです。 お祈りします。

 

 6月25日 

「何か妨げがあるでしょうか」 佐野 治牧師

使徒言行録8章26~38節

 

本日与えられました聖書のみ言葉は、聖霊なる神様の計画による異邦人第一号となる宦官の洗礼式です。はるばるエチオピアからエルサレム神殿まで片道約1500キロと言われている距離を旅して礼拝を捧げて、その後エルサレムからエチオピアへと帰る途上の話です。片道1500キロというとどれくらいの距離でしょうか。いわき市から鹿児島までの距離を見てみると1500キロちょっとです。だいたいそのぐらいの距離の片道を馬車に乗って移動して、礼拝を受け、そしてその道のりをまた帰る途上での出来事であったのです。この洗礼式は、聖霊なる神様の導きによって、異邦人伝道の第一歩として記録されています。この洗礼式によって、初代教会の土台が築かれ伝道の喜びが広くエチオピアまで広がったのです。

36節の後に「十字架」のマークがついていることにお気づきになられた方はおられますか。そしてその後、37節が飛ばされて、38節となっています。37節は、新共同訳聖書の翻訳に用いられた有力な写本には載っていなかったから、ここには記されていなかったのです。このように記されています。「フィリポが、「真心から信じておられるなら、差し支えありません」と言うと、宦官は、「イエス・キリストは神の子であると信じます」と答えた。」と記されています。このみ言葉は、私たちにとってとても大切な言葉となるのです。洗礼をお受けになられた方は、思い出してください。ご自身の洗礼式のことを。誓約をするところで、「あなたは、イエス・キリストを神様と信じますか」という質問に対して、どのように答えたでしょうか。「はい。信じます」と、確信を持って答えたことと思います。神様・イエス様との出会いは本当に不思議なものであると思うのです。

ある青年が、教会を訪れました。その青年は、教会に来たわけではなかったのです。教会で行っている英会話教室に興味を持ち、教会の門をたたいたのです。その青年が教会の門をたたくとジーパンを履いたおじさんが出てきました。「あの。英語を話せるようになりたいので、来たのですが。ここの先生はいますか。」と尋ねたのです。するとその男性は「はい。私がこの教会の牧師で、英会話をみんなと一緒にやっています」と答えました。するとその青年が再度強調して「あの、僕は英会話を学びたいだけで、キリスト教には何にも興味がありませんから。勧誘しても、クリスチャンになんて絶対になりませんから。それでも大丈夫ですか。」と言いました。すると牧師は「はい。もちろん大丈夫ですよ。英語を一緒に学んでいきましょう。」と言ったのですが、心の中で「あ、この青年は、キリスト教に興味が大ありなんだな。神様が教会に招いてくれたんだ」と確信に至ったそうです。その後この方は洗礼を受け、今は牧師として仕えています。

 私たちも、イエス様によって、どんな苦しみも悲しみも弱さも惨めさも受け入れられている福音を、受け入れていきたいと思うのです。この福音によって、喜びを与えられて、喜びをもって生きていきたいと思うのです。苦難の僕、イエス様、宦官、そして私たちが、今なお繋がっているのです。私たちも今も、そしてこれからも洗礼の恵みを心から感謝し、神様の大いなる恵みの業に感謝していきたいと思うのです。今週も、心豊かに一歩を踏み出してまいりましょう。

 

2023年5月

 5月7日 

「キリストにおいて一つ」 佐野 治牧師

ガラテヤの信徒への手紙3章27節~4章7節

 

使徒パウロは、イエス様がこの世に来られたことを「信仰が現れた」という言い方をしています。信仰が現れたとは、言葉を少し補って言いますと、信仰の時代が現れる、信仰の時代が到来したという意味となるのです。これは、神さまがイエス様において約束された救いをひたすら信じる、そのような深い神さまとの関係が歴史を形成していく時代がキリストと共に到来したのだ、とパウロは言っているのです。そのような神様と人との関係は同時に、人と人との新しい関係を作り上げていくことにも結び付いていくのです。そのことが本日の聖書箇所では展開されているのです。

神の子と呼ばれて、実際にそのような者として神様に取り扱われることは、どのようにしてわたしたちのもとにもたらされるのでしょうか。その信仰的な手続きはなんでしょうか。本日の聖書箇所を通して二つのことがわかります。一つ目は、信仰によって神の子とされるということです。もう一つは、キリスト・イエスによって結ばれるということです。神さまは私たちをいつも招いてくださっています。まだキリストを知らない、勿来教会を知らない人たちがたくさんいます。私たちが関わりを持つ人たちは、クリスチャンが多いので、クリスチャンたくさんいると、思ってしまうこともありますが、しかし日本のクリスチャン人口は、1%未満と言われています。そのような中であっても、私たちは、悲しんだり、あきらめる必要はないのです。教会を必要とする人たちをお招き下さるのは、神さまなのですから。一人一人の心にノックをして下さり、そのノックに気づいて、心の扉を開いた人たちがここに集っているのです。勿来教会で行っているハレルヤカフェによく来られている地域の女性の方々がおります。もう半年ほど前になるでしょうか。その女性がこのようなことをおっしゃっていました。「礼拝はあまり出席できないけど、わたしも神様を信じているよ。神様にお祈りしたいことたくさんあるんだ。」と。カフェでの交わりが始まり、「神様にお捧げします」と言って、献金をお捧げ下さるのです。ここまでの変化が与えられたこと、これは神様の愛の業であって、この女性を神様はこの勿来教会への交わりへと導いてくださったのだと思いました。

 神様が私たちに、神様を信じる信仰という一致を通して、私たちを一つとして下さいます。私たちは神様から最も大切な掟を二つ頂いています。まず、主なる神を愛しなさい。そして隣人を愛しなさい。という掟です。この掟を守り、神様から頂いたこの無償の愛を感謝し、愛を持って、キリスト教の伝道へと導かれたいと思います。心と体に鋭く差し込んでくるこの世界の闇も、キリストが私たちを覆って下さる時に、キリストは私たちに届く前に、私たちが着ているキリストがそれを防いでくださいます。十字架上で受けたあのイエス様の脇腹の傷跡が、そのことの何よりの象徴であるということが出来ます。

 

  5月14日 

「わたしたちのために祈ってください」 佐野 治牧師

テサロニケの信徒への手紙二3章1~5節

 

神様も、イエス様も私たちの信仰や祈りを無視することはなく、御心に沿って必ず、応答して下さいます。これが信仰に対する「報い」と言うものです。時としてそれは、私たちの祈り、願いの通りではないかもしれませんが、神さまとイエス様とを深く信頼して祈り続けて、応答の結果を感謝して受け入れたいと願っています。

この箇所でパウロは、主の言葉につかえる者たちのための祈りを、テサロニケの信徒たちに求めています。その求めは、宣教の熱意に裏付けられているとともに、宣教の進められるべき姿を、具体的に描き出しているのです。「私たちのために祈ってください」と求めたパウロは、この段落の最後で、パウロは、このテサロニケの信徒のために祈っています。祈り祈られるといった、生き生きとした祈りの交換の姿が描き出されています。

皆さんは、こんな経験をしたことがないでしょうか。自分自身が、何かの病気になってしまったときに、「あ~。私は孤独だな」と感じたことはないでしょうか。皆さんは、相手からの祈りによって支えられた経験はお持ちでしょうか。相手から祈られて、その祈りが心に響き、そしてまたその方の事を祈ることによって、相手の心へと響いていく。祈り祈られる関係、この姿こそ、神の家族としてのあるべき姿ではないでしょうか。祈りは、心に平安を与えます。また祈りは、その人に対して癒しを与えます。

パウロは、この手紙を書き記している時は、コリントにいました。コリントの教会はとても堕落していました。教会は性的に堕落し、ねたみや争いが絶えません。彼らはイエスさまを信じて救われていたはずなのに、ただの人のように歩んでいたのです。

パウロは、祈りのリクエストを出していました。そのリクエストは、自分たちが道から外れた悪人どもから逃れられるように、という祈りのリクエストです。この「自分たちが道から外れた悪人ども」とはどのような人たちの事を言っているでしょう。

伝道には反対者や困難はつきまとってきます。しかし、時としてそれが福音宣教の大きな足かせになってしまうこともあります。だからパウロは、福音の前進のために、このような悪人どもの手から救い出されるように祈ってほしい、と願っているのです。

5 節には、「どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように。」とあります。この確信があれば、あとは主が働いてくださるのです。主が私たちの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせてくださるのです。クリスチャンが神さまの愛とキリストの忍耐を持つことは、自分の力や人間の努力だけでできるものではないのです。そのためにはどうしても神さまの恵みと御力によらなければなりません。

私たちもこのような確信を持たせていただきましょう。それが困難な中にあっても神さまの愛と、キリストの忍耐とを持ち続けていく秘訣となるからです。

 

 5月21日 

「イエス様ってどんな人」 佐野 治牧師

マルコによる福音書1章21~28節

 

 今日は、子どもと共に守る礼拝です。英会話教室に通っている子どもたちが礼拝に出席してくれています。

 皆さんはイエス様って知っていますか。聞いたことありますか。イエス様ってどんな人なんでしょう。イエス様は、聖霊によって赤ちゃんが与えられた、マリアさんのおなかから生まれました。イエス様の幼い時の様子などは、聖書にはあまり書かれていません。イエス様は、大きくなって、洗礼者ヨハネという人から、洗礼を受けられて、宣教活動をスタートしました。宣教活動って何をすることかというと、神様の喜びの知らせをみんなに伝えることでした。イエス様は、神様の子どもです。神の子と言われていました。ですから神様と同じ力を持っていたのです。ですから、病気の人を治したり、死んでしまった人を生き返らせたり、時には、悪魔から誘惑をされた人を癒されたりもしました。

 今日の聖書のお話は、そんな悪霊にとりつかれた人の話でした。

 今、私たちが行っているように、イエス様も礼拝を捧げていました。そこにはたくさんの人が集まっています。イエス様はここで、福音、喜びの知らせを伝える役割がありました。するとそこにけがれた霊にとりつかれた人がいました。そして言うのです。「私にかまわないでくれ、わたしを滅ぼさないでくれ」と叫びだしたのです。周りの人たちは、びっくりしています。「なんだこの人は。」と。でも周りの人たちはこの人のことは以前から、知っていたのです。前からこのように叫んでいたのでしょう。周りの人はみんな怖がっていました。イエス様は、その悪霊にとりつかれた人を見て、その人にとりついている悪霊に言いました。「黙れ、この人から出ていけ」すると、その霊にとりつかれた人は、震えだしたのです。そして、時間がたつと、その震えは収まって、穏やかになったのです。

 周りにいた人たちはびっくりです。だっていつも叫んでいた人が、急に穏やかになってしまったのですから。そして、この人の体から、とりつかれていた悪霊が出て行ったのですから。このイエス様が悪霊を追い出した話は、この後、多くの人たちに広まっていきました。

 イエス様って、すごい人ですね。イエス様は、悪霊も追い出すことが出来て、困っている人を助けて下さいます。イエス様ってどんな人?イエス様は、神様のみ言葉を伝える人。みんなが困っているときに助けてくれる人。イエス様は、神様の子どもです。

 

 5月28日 

「聖霊の賜物」 佐野 治牧師

使徒言行録2章1~11節

 

本日の旧約聖書のみ言葉は、バベルの塔の物語です。バベルの塔の物語に証言されていた「主がそこで全地の言葉を混乱させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである」という現実は、神様の御力と聖霊のとりなしの内に、あらたな回復へと導かれたと読むことが出来るのです。

使徒言行録2章には、聖霊降臨の出来事が、記されています。イエス様が十字架につけられて、なくなってしまった時、弟子たちは失望の中にありました。しかしイエス様は、ご自身で3回予告していたように、復活をされたのです。イエス様は復活後に、弟子たちに会われたのです。弟子たちは、失望が希望へと変わったのでした。復活したイエス様は40日間、弟子たちに会われました。そして、弟子たちの見ている前で、天へと昇られたのでした。弟子たちは、雲の中に消えていくイエス様をずっと見つめながら、また不安の心が生まれたのです。そんな状況の弟子たちを、喜びへと変わる出来事が起こったのです。それが、聖霊降臨の出来事です。

このゴーっという音はなんであったのでしょうか。「風」という言葉は、ルーアッハというギリシア語が使われています。このルーアッハの意味には、息・風・霊・命という意味があるといわれています。つまりここで、強い風のような音と共に、霊、聖霊が降られたのです。そして炎のような舌が分かれ分かれにとどまったとのです。この人たちは、それぞれの生まれ故郷へと帰り、それぞれの故郷で、神様の福音を宣べ伝えたのです。

地域に開かれた教会を目指し、ハレルヤ♪カフェ、そして子ども英会話教室等、地域向けの集会を行っています。勿来教会に着任し、まだ4年目です。この約3年間を振り返ってみて思うのが、地域伝道の難しさです。喫茶店での伝道を始めたのは、2021年の9月のことでした。他の教会の牧師先生も、地域の喫茶店での伝道をされていると聞きましたので、やってみようと思い、開始したのです。

 

 3節・4節のみ言葉に注目をしてみたいと思います。「激しい風が吹いてきたような音」がしたのです。この巨大な音を聞いて、人たちは驚いたのです。実際に風が吹いたのでしょうか。その風によって、建物が揺れ動き破壊されたのでしょうか。そうではありませんでした。大音響が聞こえただけでした。その音が風の音のようであったのです。これは聖霊の降臨が風のような音を伴って起こったと示しているのです。本来“聖霊”は、形もありません。また、音もしないのです。4節。聖霊によって、そこにいる者たちが、生まれ故郷の言葉を語りだしたのです。そして生まれ故郷へと向かい、伝道をしていったのです。そして、約2000年の時を経た今、このように、主を礼拝する、主を賛美する教会が立ち続けているのです。

 

2023年4月

 4月2日 

「十字架への道」 佐野 治牧師

ルカによる福音書23章32~49節

 

私たちは、今朝、受難節の最後の主日に礼拝を捧げています。イエス様のこの地上での最後の一週間という意味で、この週を受難週とも呼んでいます。

イエス様が子ろばに乗ってエルサレムへと入場されたのです。それは王としての入城を思わせる情景であったのです。

イエス様は、エルサレムに入城する時、何に乗って入城をされたのでしょうか。イエス様は、ロバに乗ってです。それも子ロバに乗ってです。ここに凱旋する王の入城が描かれているのです。皆さんは、王様と言いますと、どのようなイメージを持たれますか。よろいやかぶとを身にまとって、剣を持ち、そしてロバではなくて、馬に乗って、さっそうと登場する。私はそのようなイメージを持ちます。

イエス様は、エルサレムには何をするために来られたのでしょうか。それは、私たちの罪をすべて背負われて、十字架につけられるためでした。私たちを救われるために、エルサレムへと入場されたのです。

イエス様の十字架の苦しみ、これは肉体だけのことではなくて、人たちのあざけりという屈辱を伴う者でありました。議員たちのあざ笑い、兵士たちの侮辱、飛び交う怒号と笑い声、そのような苦しみの中でイエス様が発せられたお言葉。それが「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

 イエス様は十字架の上で、もう一つ大切な言葉をお語りになりました。43節「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」です。イエス様の右と左には、犯罪人が同じように十字架につけられておりました。一人は、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」とののしりました。しかしもう一人は、このイエス様をののしる犯罪人をたしなめ、「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」と言うのです。イエス様をののしる人をたしなめた人は、イエス様に向かって「イエスよ、あなたの御国においでになるときによ、わたしを思い出してください。」と語るのです。これは悔い改めの言葉です。「イエス様、よろしくお願いします。」と、イエス様を頼ったのです。イエス様はこの言葉を受けて、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」と告げられたのです。

 ここで大切なことは、このイエス様の救いの約束は、今までも良いことをしてきたわけでもない犯罪人に対して、しかもこれから死ぬのですから、良い業など何一つすることが出来ない、そのような者に向かって告げられたのです。神様は、神様がお考えになられた、正しいことをして下さったのです。それは、罪びとを罰するということではありませんでした。赦すことでした。イエス様は、そのために十字架にかかってくださったのです。 

 

 4月9日 

「キリストの復活」 佐野 治牧師

ヨハネによる福音書20章1~18節

 

世界で最初のイースターの朝の事が聖書のみ言葉に記されています。誰もイエス様の復活など信じることが出来ませんでした。墓参りに来ていたマリアは大きな喪失感の中にいました。そしてその喪失の気持ちをさらにえぐられるような事件が起こったのです。

それは、「イエス様のお墓が荒らされている」という事件です。  

ペトロたちは、イエス様の一番近くにいて、この日に起こるべき「復活」について教えをイエス様から3度も聞かされてきました。しかしそのようなことは実際には起こる訳ない、と思っていたのでしょうか。イエス様のお言葉を思い起こすことはできませんでした。これが現実の人の姿であるのです。

墓穴から、イエス様のご遺体がなくなってしまったことを、マリアはペトロたちに伝えました。ペトロたちは墓穴を見て、遺体がないことを確認すると、帰ってしまいました。マリアはここでまた、孤独と絶望を味わうこととなるのです。マリアはそのような孤独と絶望の状態で、墓穴をのぞき込むと、二人の天使がいることを発見します。

 イースターの日、私たちはイエス様のみ言葉を聞きます。イースターの日の朝に最初に語られるイエス様の言葉は何であったでしょうか。それは名前でした。イエス様の最初のみ言葉は、私たちの名前なのです。愛する者の名前です。私たちの名前が今やイエス様の口を通して語られたのです。園丁だと思い込んでいるマリアは、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら…」と言いますと、イエス様は「マリア」と。イエス様が復活して初めて呼ばれた名前が「マリア」でした。マリアは、イエス様の復活を理解せずに泣いていました。すでに復活のイエス様は、マリアのそばに立っていたのです。復活のイエス様というお方は、しばらくの間は気づかれないままで、私たちに近づいておられるのです。マリアはこの場面の最初で、復活後のイエス様を見ているのです。しかし、それがイエス様であると気づかないのです。マリアはイエス様の姿を見てもイエス様だと分からなかったのですが、自分を呼ぶ“声”を聴いて、「イエス様だ」と分かり、目が開けたのです。イエス様が言われたことを思い起こします。「羊は羊飼いの声を知っている」と言われたように、マリアはイエス様の声を知っていたのです。

 イエス様が復活されたのは決して、地上の生活に再び戻られるためではありませんでした。天の父のみもとに上ってゆかれるために蘇られたのです。復活のイエス様の存在で大切なことは、神様との和解の架け橋となられたということです。救い主である、イエス様は、十字架につけられてよみに降り、そして三日目に復活されて、生きておられるのです。そして、私たちに救いをもたらされたイエス様が、私たちと神様との間の和解の架け橋となってくださったのです。

 

 4月16日 

「キリストの顕現」 佐野 治牧師

ルカによる福音書24章13~35節

 

初代教会の人たちにとってクレオパという名前は、ほかの事は忘れられていったと思いますが、この名前については忘れられることなく今日に至るまで、教会の中で読まれて、語り継がれる名前となったのです。それは、「蘇られたイエス様がこの二人と一緒に歩いて下さった。この二人はそれに気づかなかった。気づかなかったのは愚かなことだと主イエスに叱られている」。愚か者の代表として、クレオパの名前をルカは、書き留めたのではありません。その愚かさを笑うよりも、イエス様と一緒に歩いていただくことが出来たこの幸せを心にとめて、この名前をルカは残したのでした。

このルカによる福音書が書かれた当時は、まだキリスト教会は本当に厳しい迫害のさ中にありました。そのような中で、この二人の弟子たち、あるいはもっと正確に言いますと、この3人の姿を思い浮かべて読み進める時、この福音書を最初に読み始めた人たちがどんな思いになったことだろうな、と思います。喜びにあふれるみ言葉として読まれていたのではないかと思うのです。

旧約聖書列王記を見てみます。絶望の内に置かれた重い皮膚病を患う4人が、イスラエルに敵対するアラムに降参しようとして、神さまの業に触れたことが証言されています。

夜は、神さまから切り離された時間として、人たちに恐れられていました。復活の主との出会いによって、心を燃やされた者たちは、暗闇に直面することがあっても、いたずらに恐れているのではありません。神さまの求める「正しい行い」のために勇気をもって、復活の主を証しして進んでいくので、私たちも、そうした復活の証し人としての歩みを進めていきたいと願っています。

18節以下。イエス様が復活なさったことを弟子たちは聞いていました。しかし、それでもなお、途方に暮れてしまっているのです。復活の知らせを聞きながらも、なお光が見えていないのです。

イエス様は言われるのです。私が苦しむということの意味が少しも分かっていない。私がなぜ十字架について死ななければならなかったのか、ということが分かっていないのか。それがよく分かった時に、あの意味が分かった時に、そこから突き抜けて見えてくるものがあるのだ。と。十字架を回避して、キリストの復活だけを信じることはできないのです。

 イエス様は、私たちがどうしたらよいか迷っている時、私たちにとってもはや十字架の意味も復活の意味も分かりそうにないと思われるその所で、イエス様がなお私たちと共に歩き続けてくださっているのです。私たちは相変わらず、立ちすくむことがあります。もう、立ち続けることはできないと思い込んでしまうこともあります。しかしそんな私たちの思いをはるかに超えて、主は共に歩んで下さるのです。

 

 4月23日 

「どうして疑いを起こすか」 佐野 治牧師

ルカによる福音書24章36~43節

 

復活を信じることが出来ない弟子たちに対して、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」と語り、「ここに何か食べ物があるか」と問いかけました。そして焼いた魚を食べて見せて下さったのです。弟子たちの前でむしゃむしゃと食べるその姿は、聖なる神の子というよりも、人間らしいしぐさと言えないでしょうか。生きた人間らしい姿です。そのようにしてイエス様は、完全な体で復活をしたことを示されました。弟子たちを完全に赦したことを示されるためであったのです。イエス様と弟子たちの食事は、再開されたのです。イエス様が弟子たちを愛し続けておられて、彼らの裏切りを赦して下さったのです。それを示すためにも、復活をして、弟子たちの前においでになったのです。イエス様の復活を疑う思いを払拭することが出来ない私たちのために、聖書はこのように語りかけて下さっているのです。

ここで最も大切なことは、イエス様の復活は、あの主イエス・キリスト、弟子たちと旅をし、教えを与えて、数々の奇跡を為し、十字架の上で死なれた方の復活であったことなのです。復活の出来事と、イエス様の御人格とを分けて考えることは出来ないのです。復活はあり得ない大変なことです。しかしそれは、イエス様以外の誰に起きても良い、誰に起きても私たちの救いの根拠となるということではないのです。復活を信じるということは、私たちの信仰の根本にあるものです。しかし、この復活信仰とは、第一には何よりもあの主イエス・キリストというお方の復活を信じることです。それに続いて、あの方が復活された以上、私たちも、又その命に与ることを信じるということなのです。イエス様というお方と切り離された復活信仰ではないのです。そして、このイエス様の復活という出来事に支えられ、説教と聖餐により、私たちの信仰の歩みは今もなお守られ、導かれているのです。この二人の弟子は、イエス様に対して、「イスラエルを解放してくれるのはこの人だ。」との希望を持っていました。しかしそれは、イエス様の十字架の死によって終わってしまったのです。彼らの希望、見通しは砕かれたのです。

今年も、私たちはイースターの日を迎えました。皆様はどのような思いでこの日を迎えたでしょう。私はイースター礼拝にて洗礼を受けました。あの時はまだ20代の前半です。当時は、牧師先生に促されるがままに、洗礼を受けてしまったと言っても良いと思います。もちろん、「イエス様を神様と信じます」と信仰の告白を致しましたが、その後の信仰生活の事を今思い返してみますと、恥ずかしい思いがするのです。

 イエス様が天に昇られ、姿が見えなくなった後も、弟子たちはイエス様との食事を、聖餐を行いながら守り続けました。私たちも聖餐を通して、イエス様が私たちの罪を完全に赦して下さったこと、今も共におられるというこの喜びを胸に、歩んでまいりたいのです。

 

 4月30日 

「希望」 佐野 治牧師

ローマの信徒への手紙5章5~11節

 

5章に入り、「信仰によって」から「すでに義とされているという事実」に移行をしているのです。この「すでに義とされている」というこの事実が、それ以降のパウロの主張の前提となったのです。これがパウロの出発点となったのです

2節、パウロはここでとても大切なことを主張しているのです。それはまず「このキリストのお蔭で」なのです。一切の事はこのキリストにかかっているというのです。「今の恵み」というのですから、これもすでに事実となっているという出来事なのです。パウロは言うのです。「私たちはこの恵みの中にいる」と。それだけではなく、「神の栄光に与る希望を誇りにしています。」と指摘しているのです。「希望」とは、まだ現実の事態ではありません。それが現実のものとなるのは、先の事です。私たちがそこに今立っている現実というこの恵み以上のこの輝かしい現実がこの先に現れるという希望です。それが「神の栄光の希望」であるというのです。

パウロは「そればかりでなく、苦難をお誇りとします」と言いました。「苦難を誇る」とは、どういうことなのでしょうか。「苦難を忍ぶ」という言い方なら分かりますが、パウロは言うのです。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む。」と。パウロはこのような連鎖を持ち出しました。私たちの経験から、苦難が最終的には、希望につながっていくということはわかります。その苦難も、度を超えるような厳しい苦難で、押しつぶされてしまいそうな時であってもパウロは「苦難をも誇ります」というのです。

5節「希望はわたしたちを欺くことはありません。」と、パウロは続けます。「苦難、忍耐、練達、希望」という連鎖の先にある希望は、私たちの目を未来へと向けさせるのです。神さまの約束にゆるぎない信仰を置いているパウロは、「希望は私たちを欺くことはありません」と断言をしているのです。神さまの約束が「私たちを欺くことがない」以上、神さまの約束に裏付けられた私たちの希望も、「私たちを欺くことはない」のです。

 2022年度の歩みを振り返ってみますと、多くの方が教会を訪問して下さり、そして、求道中の方も与えられて、楽しい交わりの時を多く持つことが出来ました。教会で、飲食を通しての交わりは、とても大切であると私は思っています。そのことを通して、笑顔が生まれ、喜びが生まれるからです。教会にはそれと共に、大切な交わりがあると、私は思います。それが神の家族としての交わりです。神の家族としての交わりというのは、主に霊的な交わりの事を指して言います。私が、ある牧師から頂いた言葉があります。その言葉を大切にして、教会生活を送っています。その言葉は「教会は、楽しむところ。まずあなたが楽しみなさい。」という言葉です。またある方は、「教会は緊張をもって、共に楽しく」と。希望と喜びをもって、これらの教会生活を共に楽しく過ごしていきましょう。

 

2023年3月

 3月5日 

「悪と戦うキリスト」 佐野 治牧師

ルカによる福音書11章14~23節

 

ルカによる福音書11章14節以下の主題は何でしょうか。それは「イエス様の救いとは何か」ということです。

ベルゼブルが支配している家から、悪霊たちが、あちこちへと出張して、良くないことをするのです。悪霊どもを追い払うのに一番力があるのは、一家のあるじであるベルゼブルが「おい、戻ってこい」ということで、すぐに戻ってくるのではないでしょうか。また「そこから出ていけ」と言えばよいのです。イエス様の御業が、あまりにも素晴らしいので、人たちは、どうもその悪霊の家のあるじの力によって、このことをしているのではないか、と疑ったのです。

本日の旧約聖書のみ言葉は、創世記6章です。ここには、主なる神様が洪水を起こされるに至った理由が記されています。私たち人間は、神さまのみ旨やその御業をそのままに受け取ることが出来ない時があり、罪を根深く抱えています。そのようなわたしたちの罪が、堕落、または偏見や悪意という形で現れるのです。こうした悪は、常に私たちに付きまとっているのです。個人に対してだけではなく、教会に対しても言うことが出来ます。  主イエスが、悪霊を追い出していると、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う人が出て来ました。あんなに見事に悪霊を追い出しているからには、悪霊より強い力を持つ者、それは悪霊の頭である、ベルゼブルによるに違いないと考える人がいたのです。この人は悪霊より強い力を持つ者、それを彼らは聖霊とは考えなかったのです。それは、イエス様が行っている業を聖霊によると認めるのであれば、イエス様は少なくとも神様の使いと考えなければならないからです。

20節「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」と言われたのです。これは、実に素晴らしい宣言であると思います。「神の国」は、死んで行く所ではないのです。主イエス・キリストによって、神様の業がなされている所には、すでに来ていると言うのです。「神の指」とは、神さまの絶大な力が動き始める言葉と言われています。旧約聖書の出エジプト記で、頑ななファラオをついに屈服させた力、それが神の指であると言われています。

 私たちの人生、それは良いことばかりではありません。悪の力との戦いの連続であるとも言えます。しかしすでに神様はイエス様において、悪の支配を打ち破って勝利されているということを覚えておきたいのです。病気、苦しみ、不幸などを抱える私たちも、イエス様の勝利を信じている私たちは、慰めであり、喜びであるのです。そうしますと私たちの人生は、闇の中からの光が差し込んだような、光を受け、心豊かに明るくなっていくのではないでしょうか。

 

 3月12日 

「受難の予告」 佐野 治牧師

ルカによる福音書9章18~27節

 

イエス様から、群衆がイエス様の事をどんな存在であるか、どのように受け止めているかを問われた弟子たちです。皆が言っていることをイエス様に伝えて、続いて、「あなたがたはわたしを何者だというのか」と鋭い問いの前に立たされました。ペトロは言うのです。「神からのメシアです。」と。これがペトロの信仰告白となるのです。イエス様は、ペトロの答えを受け止めつつ、ご自身のこれからについて、「人の子は必ず多くの苦しみを受けて、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」と語られたのです。

イエス様というお方は、十字架の死を遂げることなしには、使命を全うできないメシアであるのです。イエス様は、神の国の到来を告げて、神の救いのご意志を明らかにされて、力ある御業によって語ったことの話をされたのですが、それだけではまだ、なすべきことの半ばだったのです。神様と人を隔てているもの、罪と汚れと背きを、自分がすべてを背負って、人たちを聖なる神の前に立てるようにするということが、大切な使命、なすべきことでありました。

並行記事であるマタイやマルコには書かれていて、ルカには書かれていない箇所がありますが、では、ルカには、何が書かれているのでしょうか。23節以下に、イエス様のお言葉が続きます。その中の23節の言葉に注目をしてみたいと思うのです。イエス様の受難の道、苦難の道は、このイエス様に従って生きるすべての人の道ともいうことが出来るのです。イエス様の道は、主の弟子の道となるのです。それゆえにこのように言われたのです。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と。ここで一つ注目したい言葉があります。「日々」という言葉です。ルカによる福音書で語られているこの十字架の道は、どのような意味を持っているのでしょうか。なぜそのようなことを言うかと申しますと、先ほどの「日々」という言葉が絡んでくるのです。ルカによる福音書で語られている十字架は、特別な十字架ではなくて、日常的なものであるというのです。十字架を負うとは、殉教のような特別なことではないということを言っているのです。では、これはどういう十字架を言っているのでしょうか。ここでの十字架は「日々、負う自分の十字架」であるために、私たちの人生に起こる様々な試練や病、そして何らかの苦難として受け止められることも多いのです。それぞれが皆、固有の自分の十字架としての苦難を背負って、その人生の歩みを送っているのです。

 そして、大切なことは、私たちが十字架を背負うということは、神の国ともかかわりがあるということです。私たちはイエス様の十字架と復活において実現している、神の国、神のご支配の現実を見ることが出来るのです。

 

 3月19日 

「主の変容」 佐野 治牧師

ルカによる福音書9章28~36節

 

本日の説教題は、「主の変容」です。山上での主の変容は、受難予告の記事と深く関連しているのです。この主の変容の場面では、ついに受難予告をして十字架の道を歩み始めたことを、祈りの内で神様に報告しようとされていたのです。

イエス様の死と復活の予告は、イエス様ご自身にとっても重大な事であったのです。それが本当に父なる神様の御心であるのだろうか、もう一度神様に確かめたいと思って、祈りに集中しておられたのです。祈っているうちに、イエス様の顔の様子が不思議な変化をしていったのです。    

イエス様が祈っておられると「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」と書かれています。イエス様の姿が光輝いたのだというのです。このことから思い起こすことは、旧約聖書のモーセという人物です。モーセもシナイ山で、律法の板を神様から授かり、山から下りて来た時に、顔の肌が光を放っていたと言われています。ここでイエス様の姿が光輝いたということは、十字架の道を歩むイエス様が神様との深い交わりの中にあって、イエス様の決意が神様に受け入れられたということを意味しているのではないでしょうか。

神さまは十字架の道を歩むイエス様と共におられ、そして「この道で間違いない。この道を行きなさい」と、神さまはいわれたのではないでしょうか。そしてここに、十字架を通して実現する神の国の栄光が先取りされたのです。

他の共観福音書では、明らかにされてはいませんが、ルカによる福音書では、話の内容が明らかにされています。それは「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」の話であったのです。つまり、イエス様の十字架の死についての話であったという事が出来るのです。イエス様の十字架の苦しみが、旧約に始まった救いの歴史を完成させるという事です。  

イエス様が語られていた「最期」とは、苦しんで迎える十字架の死だけを指しているのではありません。昔から排斥されて捨てられる、その悲劇だけを見ているのでもありません。闇の中を脱して、墓穴をも蹴り破るイエス様の復活、そして天に昇られることをも含まれています。イエス様の歩みというのは、死で終わりではありません。 

ペトロは、イエス様とモーセ、エリヤのその素晴らしい情景を見て、いくらかでも、この情景が保つことが出来るように、仮小屋を三つ立てると、この情景を見て興奮し、そのような言葉を口走ったのです。

 私たちは今朝、その十字架が、暗黒の十字架ではなくて、栄光に輝く十字架であることを知らされました。その主を仰ぎ見ながら、私たちもまたこの栄光の十字架への道を歩んでいくのです。

 

 3月26日 

「十字架の勝利」 佐野 治牧師

ルカによる福音書20章2~19節

 

本日の「ぶどう園と農夫」のたとえ話は、イエス様の苦難と死を想起させるものとなっています。この「ぶどう園」のたとえ話は、旧約聖書イザヤ書5章1-7節に記されている「ぶどう畑の歌」がモチーフとなっています。

ぶどう園で働く農夫たちは、ぶどう園の主人から、多くの僕が遣わされてきたにもかかわらず、彼らを袋叩きにして追い返しました。そして最後には、その主人の息子すら殺してしまったのです。

私たちは毎週、感謝と献身のしるしとして、礼拝において献金をお捧げします。しかしその時に、自らのものとして、持っている物の一部を献げることに留まってはならないのです。「与えられているものの一部をお返しして、お献げします」と祈りながら、その生活においては、与えられているものをお預りしている信仰の内実が問われていくのです。さらに問われることは、口で祈っていることと、その生活がずれていることに気づかないでいる、ということです。

農夫たちの主人の言葉をみましょう。「どうしようか。私の愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。」という言葉です。農夫の主人は、収穫の時となった時に送った僕たちをことごとく袋叩きにして、追い返されて、困り果ててしまいました。そして考えて、最後の手段として選んだ道が、「私の愛する息子を送ってみよう」ということでした。先ほども申しましたが、この農夫の主人は、神さまであって、その愛する息子とは、イエス様の事であったのです。このような父なる神の御心の内に、イエス様は神さまから、この世へと遣わされたのですが、人々はイエス様を十字架へと追いやり、ついには殺してしまったのでした。

この受難節の時、私たちは、神さまの大いなる愛の御業を知ることとなります。17節「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」というみ言葉です。その次の節には、このように記されています。「その石の上に落ちる者は誰でも打ち砕かれ、その石が誰かの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」と。どういう意味でしょうか。他の訳では「その石の上に倒れる人は砕かれ、その石が人の上に落ちたら、その人を粉々にしてしまう」と訳されています。これは神様の裁きを語っているのです。「愛する息子」を殺す者は、むしろ逆に「砕かれて、粉々になる」のです。愛する息子を殺したとしても、滅ぼすことはできないのです。愛する息子という石に躓いて、捨てる者は、その石の上に倒れて、またその石がその人の上に落ちるというのです。  

捨てられる石となり、隅の親石となって、私たちの救いの石となることを覚悟して、イエス様は、語っておられるのです。

 

2023年2月

 2月5日 

「教えるキリスト」 佐野 治牧師

ルカによる福音書8章4~15節

 

ルカによる福音書の本日の聖書箇所は「種を蒔く人のたとえ」とその説明が示されています。イエス様は、御自分もその種を蒔く一人である、とおっしゃり、蒔かれた種がどのようにして実を結んでいくかということについて語っているのです。

本日のイエス様のお言葉を聞いていたのは誰であったでしょうか。4節には「大勢の群衆」と書かれています。そして9節には、「弟子たち」とあります。群衆がいて、弟子たちもいました。そして9節ではその弟子たちが「このたとえはどういう意味がありますか」、とイエス様に問いかけたのです。そしてイエス様は言われました。「あなたがたには、神の国の秘儀を悟ることが赦されている」と言われたのです。この意味は、あなたがたはこの種まきのたとえの秘密がわかるはずです。神さまが分かるようにしてくださっているのです。と言われているのです。イエス様はご自分の種を蒔かれます。その種が少しも実を結ばない深い経験の中で、だが、私の蒔く種は実を結ぶと約束をなさいました。聞く耳のある者は聞くことが出来るのだと叫ばれたのです。

本日のみ言葉を読み進めている中で、あるみ言葉を思い起こしました。それは「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」です。「そうすれば、それらのものは加えて与えられる」と続きます。私たちはまず、神の国と神の義を求め続けなければならないのです。では具体的に、どのように求め続けることが求められているのでしょうか。神さまは、掟をお定めになりました。神さまの律法、愛の律法です。この一番大切なことは、「神様を愛すること」そして次に「隣人を愛すること」です。私たちはまず、この二つを忘れずに常に求め続けなければならないのです。そしてその事を求め続けるために、まずは聖書を読むことです。そして祈ること、祈り続けることです。さらに、イエス様が「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われたように、み言葉を聞く、ということが求められているのです。そのみ言葉を聞くことに対して、イエス様は、種を蒔く人のたとえで、先ほどの4つの種のお話をなさいました。当時の農夫たちは、種を手で蒔きましたので、失われる種もかなり多くありました。しかし農夫たちは失望をしていませんでした。失われるものがあっても収穫を期待して蒔くことが出来たのです。

 このたとえを通して、イエス様は、「あなた方も、神さまを信頼して喜びなさい。神の国は必ず素晴らしい結末を迎えますよ。落胆してはいけません。神の国は人間の計画や予想をはるかに超える形で進展して、どのような挫折や妨害に会おうとも、最後には大いなる勝利、大いなる恵みが約束されていますよ。」と、伝えているのです。これが本日の聖書箇所で、最も伝えたかったメッセージであったのです。

 

  2月12日 

「あなたの罪は赦された」 佐野 治牧師

ルカによる福音書5章12~26節

 

旧約聖書のレビ記によると、重い皮膚病であるかどうかは祭司によって認定されて、患部が治癒した場合も祭司によって判断されなければなりませんでした。病気と認定されると周囲の世界から隔離されて、病気の事実を周囲に告白し、「宿営の外に住まねばならない」とされていました。このように重い皮膚病と認定されるということは、世間からも神様の前からも締め出されて、生きる望みを完全に失うことを意味していました。

そのような絶望のどん底にある人たちとイエス様はどのように関わられたのでしょうか。ここで、重い皮膚病の人の懇願の言葉は興味深いものがあります。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」という言葉です。これは、複雑な含みをもつ言葉ということが出来ます。それは一方では、イエス様ならば癒すことがおできになると、信じながら、他方では「御心ならば」と慎重に付け加えている言葉であるからです。これはイエス様の憐みがどこまで届くかを探ろうとする意図をもっているのからなのです。これに対するイエス様の返事は、「よろしい。清くなれ」でした。「よろしい」とは、「私は望む」と訳されている聖書もあり、そのような意味でもある、ということが出来ます。

中風の人を担いで、イエス様の前に下ろしたという話には、続きがありました。「人よ、あなたの罪は赦された」との、イエス様の罪の赦しの宣言を聞いても、その者たちと共に喜ぶことが出来ない人がいました。その場に居合わせた、ファリサイ派の人たちと律法学者たちでした。この人たちは、ガリラヤの地方で最近話題になっている「イエスという人」がどういう人であるのか、エルサレムの教えに反していることを語っていないかどうか、それを確かめる為にやって来たのだと思います。この人たちはイエス様の話を必死に聞いていたのでしょう。そして罪の赦しの宣言を聞いて思ったのです。「あ、神様を冒涜している。」と。イエス様はこの人たちの考えを見抜いておられました。

この中風の人は、癒されて、罪も赦され、全く新しくされて家に帰っていったのです。イエス様の救いに与った者の新しさを、聖書はどのように書かれているでしょうか。「神を賛美しながら家に帰って行った。」と記しています。イエス様の救いに与ったこの人の口には、何があふれていたでしょうか。それは神様への賛美です。この賛美があふれていたのです。神様を賛美すること。それは神様の救いに与り、新しくされた者のしるしなのです。

 信仰とは私たちのなすべきことです。しかしそれが出来る人にしか、できない事だと思い込み、できる人だけが救われるのだ、と思い込んだとき、信仰は信仰ではなく“掟”に代わってしまうのです。信仰とは、他の人が何と言おうと、私は神様を信じますと、公言することが出来る、という事でなければ、本物の信仰ではないのです。神様を信じ続けることが大切です。その時に自分がとらわれていた狭い枠から解き放たれることが出来るのです。

 

  2月19日 

「5つのパンと2匹の魚」 佐野 治牧師

ルカによる福音書9章10~17節

 

 本日の5千人の給食のお話は、12人の弟子たちが伝道旅行から帰って来た時のことでした。初めての伝道をして帰ってきた弟子たちは、イエス様のもとに帰ってきて、自分達が行ったことを、一つ一つ報告をしました。それは、喜びと興奮に満ちた報告であったに違いありません。イエス様も又、その報告を聞きながら、お喜びになったのではないでしょうか。イエス様は、その報告を弟子達から聞くと、弟子達と共にベトサイダという町へと退かれました。イエス様と弟子達は多くの群衆から退いたはずなのですが、その群衆たちはイエス様が退いていくのを赦しませんでした。このような状況になった時に私たちだったらどうでしょうか。「もう休ませてくれ」とか「今から祈りをする時なんだから、ついてこないでくれ」と言って、どうにか追い払おうとしてしまうのではないでしょうか。イエス様はこのような時であっても群衆を追い返すようなことはなされませんでした。弟子達は、イエス様に告げました。「そろそろ時間も遅いですし、群衆を解散させてください。」と。弟子達は、ここに集まってきた群衆たちの事を思い、その配慮から、このような事を言ったのでしょうか。イエス様と弟子たちは、祈るために場所を移動しました。ですから、人里離れた所に来ていたので、食べる物、また泊まる場所もありません。そのような弟子たちの心の内はお見通しでした。13 節「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」と言われたのです。「そんなことを言われてもイエス様・・・、どこにそんな食べ物が、あるのですか。」弟子達は、イエス様の言葉に戸惑いを感じていました。そして弟子達は答えました。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません。」。 聖書の中の4つの福音書のすべてに記されている奇跡物語は、この5千人の給食の話だけなのです。これはどのような意味を持っているのでしょうか。この奇跡が、他のどの奇跡よりも弟子達を驚かせた、ということが先ずいうことが出来ます。さらに深く心に刻ませたということではないでしょか。この奇跡において、弟子達はただイエス様のそばで話を聞いて見ているだけではありませんでした。弟子たち自身が自分たちの手で配ったのです。配っても配っても無くならないという、驚きの体験をしたのです。弟子たちは驚き、喜び、そしてイエス様というお方が誰であるかということを知らされたのです。配っても無くならないそして皆が満腹になるパン。これは後に、私たちが毎月一度行っている聖餐式の時のキりストの体である聖餐のパンを指し示すものとして理解されるようになったのです。主がお語り下さる福音のみ言葉を、弟子たちは語り続けたのです。主が語り続けて下さった福音は自らだけが満たされれば良いというのではありません。福音を語ることは、隣人を愛することによって、初めて意味を持つ言葉となるのです。

 

 2月26日 

「荒れ野の誘惑」 佐野 治牧師

ルカによる福音書4章1~13節

 

イエス様を試みたのは悪魔でした。なぜ悪魔はイエス様を試みたのでしょうか。「もしあなたが神の子なら」と書いてあります。悪魔は、イエス様が本当に神の子かどうかを試したかったのです。悪魔は、イエス様が本当に神の子かどうか、本当に神の子であるのならば、実証して見せろと言って、イエス様の歩みを正しい道から引きずり降ろしてしまおうというのが意図であったと考えられます。

この箇所で問われていることは、なんでしょうか。悪魔がイエス様に、「いったいおまえがもたらそうとしている救いとは何か」ということ尋ねているのです。それを繰り返して問うことによって、イエス様の救いの業を、その最初のところで破壊してしまおうと試みたと、言ってもよいのです。ですからここではイエス様のすべてが問われているのです。

イエス様は、悪魔からの誘惑を受けられました。私たちはどうでしょうか。誘惑は全くないでしょうか。そんなことはありません。誘惑は多いです。悪魔の誘惑をも受けることがあります。悪魔の心は、いつ私たちに牙をむけるかはわかりません。では、どうしましょう。イエス様は言われました。「人はパンだけで生きるものではない」と。この言葉が私たちにとっても、とても大切なのです。では、私たちは何によって生きるというのでしょうか。神様の言葉です。神様の真理に生きて、神さまの言葉に耳を傾けて生きる時に、私たちは正しい道へと導かれるのです。

「悪魔は、あらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。」とあります。「あらゆる誘惑を終えて、イエス様から離れ去り、すべてが終わった」と書いてあるでしょうか。そうではありません。口語訳聖書では、「一時、イエスのもとを離れた」と書いてあります。これはどういうことでしょうか。そうです。これは悪魔の誘惑はこれで終わりではないということです。ただ、一時離れただけなのです。ということは、やがて時が来たらまた悪魔が現れるということです。この受難の時、サタンが、イスカリオテのユダに入ったのです。そこで人間の裏切りが始まりました。十字架というのは、最も暗い闇を示しました。新約聖書では、このイエス様が十字架につけられた時に、神様の勝利が始まったと告げるのです。その暗闇の中に、希望の光がさした、と語り始めるのです。イエス様は十字架につけられた時に、ここの悪魔と同じことを言われて、ののしられました。

 ルカは、十字架への道を望みを持って、自らの信仰の戦いを刻むような思いで、なおこれからも書き進めるのです。私たちもこの主の日の朝、気持ちが落ち込み、もう崩れてしまった、という思いになってしまっていても、自分自身の力では崩れることがあっても、まさにその時、そこに主のゆえに聖霊が注がれて、今私たちは、主の望みを持って立っているという確信を、新たにしていただきたいと願うのです。

 

2023年1月

 1月1日 

「主に委ねます」 佐野 治牧師

ルカによる福音書2章21~40節

 

本日の聖書箇所に登場しますのは、シメオンとアンナです。

 シメオンの言葉に注目をしてみたいと思います。それは29節です。「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに、この僕を安らかにさらせてくださいます。」とあります。この言葉、私はとても興味深い言葉でした。この主と訳されている言葉は、「君主」と訳すことが出来ます。「暴君」と訳すこともできる言葉です。「僕」とは「奴隷」です。この言葉は、死ぬ時だけの言葉ではありません。

 皆が眠っている時にも目を覚まして、神さまの御業について本当に敏感な神経をとがらせて祈り続けて、待ち続ける見張りの仕事が今、やっと終わったのです。この仕事はとても厳しい仕事と言えます。激しい仕事とも言えます。私たちは祈ることは、どのように考えているでしょうか。祈りは暇な人がすることでしょうか。そうではありません。暇な人、暇が出来たからすることではありません。忙しい間は祈らなくていい。何もやることがなくなったらできる、ということではありません。違いますね。何よりもまず祈ることが大切です。すべての事は祈りから始まるのです。ノアの箱舟を降りたノアが、何よりもまず、最初におこなったことは、祭壇を築くことでした。まず祈りの場、礼拝の場を大切にしたのです。「平日の仕事が忙しく疲れてしまうので教会に出席することが出来ません。」「なんだか、不摂生な生活をしていて心落ち着かないので、教会に行くことが出来ません。」ということを、聞くことがあります。そのような方たちこそ、まず教会に来て祈り、主を礼拝することが大切であるのです。家で聖書を読むこと祈ること、もちろん大切です。YouTubeなどを通してメッセージを聞くこと、それも良いでしょう。しかし何よりもまず、教会へ来て礼拝を捧げることを通して、豊かな聖霊の働きがあり、心が整えられていくのです。礼拝は、神さまが一人一人を招いて下さっている場です。週の初めの日の日曜日に、礼拝を通して神様と向き合う事で、その週の日常生活も安定をしていくのです。そこにこそ、教会の本来の姿があると思います。神さまから救いが来なければ、人間は自分の事を救うことが出来ないのです。

 不信仰は、幼子イエスを見て、そこに神様の救いを見ることはできません。エルサレムの宮に仕える者たち、神の宮に仕える祭司たちは、貧しい大工の夫婦が、一人の幼子を連れて来た時に何も感じませんでした。幼子イエスを迎え損なった祭司たちが先頭に立って、イエス様を十字架につけて殺したのです。母マリアの胸を貫く痛みを負わせるものとなったのです。「主の遣わすメシア」との出会いを定められていたシメオンは、この時「万民のために整えて下さった救いで…イスラエルの誉れです」とイエス様を高らかに賛美をしています。シメオンと共に、私たちも主を心から賛美し続ける一年でありたいと思います。

 

 1月8日 

「イエスの洗礼」 佐野 治牧師

ルカによる福音書3章15~22節

 

ルカによる福音書3章15節―20節では、洗礼者ヨハネがイエス様と自分との関係について語っています。ここでヨハネは、自分がメシアであることを否定をした事のみならず、自分とメシアの間には絶対的な違いがあることを明らかにしたのです。

ヨハネがメシアではないか、と考えていた民衆に対してヨハネは、「自分がメシアではない」ことを明言して、真のメシアについて語るのです。ヨハネが語ったことの第1は、これから来るメシアは自分よりも優れた方であり、自分はその履物のひもを解く値打ちもない、ということです。自分と真のメシアとの間には、絶対的な違いがあると語るのです。

もう一つ、ヨハネが自分とメシアの違いを言っているのは、自分は水で洗礼を授けるが、メシアは聖霊と火で洗礼をお授けになると語っているのです。水というのは、私たち誰でも手にすることが出来るものです。しかし聖霊と火による洗礼は、私たち人間には授けることはできません。ヨハネは、自分は人間にできることをしただけである、と語るのです。

ヨハネは、何を語ったのでしょうか。18節に「ヨハネは…ヨハネが告げ知らせたことは、福音であった」と書かれています。ヨハネが語ったことは、神の救いの福音です。

 続けて、21節以下を見て参ります。イエス様は、宣教活動を始めるに先立ち、バプテスマのヨハネから洗礼をお受けになりました。イエス様の洗礼は、ただ水を用いて悔い改めということにとどまりませんでした。

本日の旧約聖書のみ言葉は、ヨシュア記3章です。ヨシュア記3章14節以下を見ておりますと、出エジプト記の葦の海の奇跡の場面をお思い起こします。ここでは葦の海と同じような現象が起こっております。水が壁のように両側に立って、その中、川底を民たちは進んでいくことが赦されたのでした。この水の間、海の間を通り、新しい生き方、主に示された新しい道へと導かれる、これが洗礼式の浸礼の持つ意味と重ね合わせて読まれてきたのです。

2022年のクリスマスに、二人の方が洗礼を受けられましたが、洗礼式って素晴らしいですね。また私は、洗礼式をする前の洗礼準備会の時という、素晴らしい時間を共に過ごさせていただいております。洗礼準備会の時に私が大切にしていることは、どのようにして神さまがその方を招いて下さったのか、その方の人生の中でどのような神様の導きがあったのか、そのことを聞いて、神さまに共に感謝をする時を、大切にしています。「私は神様を信じます。」という信仰の告白を、自分の証しを通して語ることが出来ることが、洗礼を受ける準備の中で、一番の目的なのです。

 ヨハネは、自分の力でよい実を結ぶように求められました。一方のメシアは、わたしたちが聖霊のお働きによって、良い実を結ぶようにと、道を開いて下さいました。

 

 1月22日 

「宣教のはじまり」 佐野 治牧師

ルカによる福音書4章16~30節

 

故郷ナザレではイエス様の宣教は実を結ぶどころが、そこにいた人たちに殺されそうになってしまうのです。イエス様は、ご自身がお育ちになったナザレにも福音を宣べ伝えるために、その地へと赴いていかれました。そして、会堂での礼拝がはじまりました。イエス様は立ち上がって、係の者からイザヤの巻物を渡されると、61章の最初の部分を読まれました。ルカによる福音書の中心的な福音は何であるでしょうか。それは、「神の恵みの時の到来」です。イエス様は、御自分が聖霊によって油そがれたメシアであり、御自分の到来によって、今までには全くなかった、新しい時、主の恵みの年が来た、と語るのです。

イエス様は、聖書を読み終えると、係の者に返して、席につかれたのです。説教をなさるためでした。今まで聞いたことがないような力強い聖書朗読に続いて、このイエス様が何をお語りになるのかと、会衆の目は一斉にイエス様に注目しました。そして語りだします。「この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にした時、実現した」と。

み言葉は、彼らが聞いて受け入れてくれたから、成就するということではありません。

福音の出来事が聴衆の「耳の中で」起こるのでしたら、それを受け止める者は、「見ないで信じる信仰」でしかありません。ナザレの聴衆者たちは、せっかく神の国を一瞬垣間見ることが出来ましたが、それを自らの手でつぶしてしまったのです。彼らはイエス様を見て躓いてしまったのです。「この人は、ヨセフの子ではないか」との言葉を発したのです。

ナザレにいた人たちは、説教者が「神から遣わされている」ことを忘れてしまい、イエス様をただの「ヨセフの子」としか見ることが出来なかったのです。

イエス様は言われました。「きっとあなたがたは、「医者よ。自分自身を治せ」ということ…言うに違いない。」と。イエス様は、ナザレの人たちの心の中が分かっていたからです。このナザレでも、カファルナウムで行ったことと同じような偉大な業を行い、自分を信じてもらえるようになれ」と思っていると見抜いたのです。つまりナザレの人たちは、イエス様に何を求めていたかと言いますと、しるしを求めたということです。

自分が納得をするような救いを、自分が気に入るような救い主を、気に入る神様を期待するのです。ナザレの人たちは、イエス様を偶像にしたかったのです。そうではければならないのです。気に入らなければ、神さまを捨ててしまうということなのです。

 ここで私たちはもう一度捉えなおさなければなりません。それは宣教の主体は誰であるのかということです。宣教の主体は、もちろん神さまにこそあるのです。神さまが求められること、それはイエス様に示されたこと、それはこの世でさまざまな思い悩みや痛みを抱えている人、苦しんでいる人と共に生きる、そのことを課題として、日々の生活を送っていきたいと思うのです。

 

 1月29日 

「生ける神の神殿」 佐野 治牧師

コリントの信徒への手紙二6章14節~7章1節

 

コリントの信徒への手紙二6章14節をお読みします。「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません」とあります。私はこの一文を読んだときに、なんて厳しい言葉だろうと思いました。その後に「正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇に何のつながりがありますか」と、たたみかけるようにして、厳しい言葉が続いています。この言葉を受け取ったコリントの教会の人たちは、戸惑ったのではないかと思うのです。コリントの教会があった街は、ギリシアの港町でした。様々な文化や宗教が入り込んでいたところでした。教会はそのような環境の中で、小さな集団を作って、その地に建っていたのです。周りには別の考え方の人たち、自分たちとは信仰が同じでない人たちばかりが生きていた、と考えても良い環境のもとに教会がありました。

ここを読み進めている中で、イエス様の姿を思い起こすのです。神さまはイエス様において、ファリサイ派とは正反対に、徴税人や罪びとを迎えて食事を共にされました。また、異邦人に対して救いの道を開かれました。イエス様は、人となり、あらゆる点において、私たちと同様に試練に会われました。そしてイエス様は、十字架を通して、敵意などの隔ての壁を取り壊され、ユダヤ人と異邦人の「隔ての壁」は取り除かれて、かつて神様を知らずに生きていた人たちも「聖なる民に属する、神の家族」として下さったのです。

勿来教会があるこのいわき市には、約34万人の方が生活をしていると言われています。いわき市には、25の諸教会があります。その教会で、今現在教会生活を送っている人は何人だと思いますか。400人と言われています。34万人中の400人です。またいわき市にて、以前は教会生活をしていた方々をも含めると、約500人と言われています。その方々を除いた人たちはまだ「信仰のない者たち」なのです。

 

 6章16節~18節で、いくつかの旧約聖書からの引用が記されています。ここでパウロが最も大事なこととしているのは、「そして、彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」という言葉です。もう一つこの節の前に書かれている「私は彼らの間に住み」という言葉です。神さまの民というのは、神さまがその中に住んで、一緒に歩んで下さる民ということです。それこそが教会の事であるのです。そのように生きている教会が汚れたものに触れることはできない。ただ、神にのみ触れ、神にのみ集中して生きるということは当然のことであると、パウロは言うのです。私たちの歩みを、よそへと引きずり出してしまうような無信仰・不信仰とのかかわりは、厳しく絶たざるを得ません。ただ、その無信仰・不信仰の者たちも、神さまの愛を受け、神さまが信仰の道へと導いて下さる、そのことを信じて、これからも私たちは祈り続けてまいりたい、そのように思うのです。