2019年4月

 4月7日

「十字架の勝利」  武 公子牧師

哀歌1章1~14節

ルカによる福音書20章9~19節

 

 ぶどう園とは、神が創造された世界のことであり、その世界を神は人間の手に委ねられた。ぶどう園は本来神のものですが、いつしか人間はそれを認めようとはしなくなった。そこで神は「僕」をこの世へと送ったが、彼らは僕を殴って追い返した。それでも次々と僕を送り続けたのは、悔い改めを待っておられる神の忍耐でした。ついに、この子なら敬ってくれるだろうと神の最愛の子を遣わしますが、農夫たちは跡取りの息子を殺してぶどう園の外へ投げ捨てた。もはや神は忍耐をもって応じてはくださいません。神から離れた私たち人間は神を崇めようともせず、罪を犯さざるを得ない罪人です。神との交わりを断たれて死ぬほかない存在です。しかし、人間の目には愚かであるが、神の深淵なるご計画がイエス・キリストの十字架によって実現したのです。役に立たないと捨てられた石が、家の四隅を固める最も重要な親石となったのです。その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれます。隅の親石であるキリストを拒否して、敵対するならその人はついに滅びに至るのです。キリストはそのような私たち罪人に代わって十字架の上で神の裁きを受けてくださいました。神はイエスを死から復活させ、世界のすべての人の救い主とされました。「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」(Ⅰコリント1557

 

2019年3月

 3月3日

「与え続ける力」  武 公子牧師

イザヤ書41章8~16節

ルカによる福音書9章10~17節

 

 「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません」。これが弟子たちの現実でした。今、空腹な群衆は、男の人だけで5000人ほどいました。しかし、イエスさまは「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われます。自分たちの力だけに頼るならそこには絶望しかありません。しかし、小さな力であっても、少ししかなくても、ゼロではありません。その現実をありのままイエスさまの手に委ねます。「すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。」イエスさまがパンを裂いて、繰り返し弟子たちに渡しておられるのです。そして弟子たちは人々に与え続けます。いったん人間の貧しい現実をイエスさまの手に委ねてから、再び受けるなら、すべての人が満腹してなお有り余るほどの豊かさとなります。イエス・キリストは与え続ける力をお持ちです。イエスさまと出会った多くの人々は、イエスさまのなさる業において「奇跡」を見ました。それは今もなお、私たちの中でも起こることであります。

 

 3月10日

「荒れ野を生きるために」  武 公子牧師

申命記6章10~19節

ルカによる福音書4章1~13節  

 

荒れ野の40日間、悪魔はイエスを誘惑しましたが、イエスはその「誘惑」を神の「試練」に変えました。イエスは申命記の言葉をもって悪魔に反論し、黙らせました。一時、離れた悪魔は再び戻ってきてイスカリオテのユダに入りました。その時から、最後の誘惑、すなわち十字架の苦難がイエスに襲いかかります。荒れ野で悪魔から「神の子なら・・・」と誘惑されましたが、今十字架の上でも「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」(マタイ2740)と人々からののしられます。イエスは荒れ野で石をパンに変えなかったように、十字架から降りようとはしませんでした。十字架から降りないから神の子なのです。そしてイエス・キリストは「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」(ヘブライ218)。私たちがこの世の荒れ野を生き抜いて救いに入るために、イエスは悪魔を退け、その誘惑の空しいことを示してくださいました。

 

 3月17日

「悪霊を追い出すキリスト」  武 公子牧師

 創世記6章11~22節

 ルカによる福音書11章14~26節

 

イエスさまが口の利けない人から悪霊を追い出すと、その人はものを言い始めました。神の霊の働きを見ながら、なお悪霊の力によるものだとイエスさまに敵対する者がいました。「神の指」すなわち「聖霊」が働いているところは、すでに神の国が始まっているしるしなのです。

私たちは悪魔の支配から解放されたと喜んでいるだけでは足りません。悪霊たちは再び戻って来て、もっと悪い悪霊を連れて来て、私たちの内に入り込んで、住み着こうとします。私たちがしっかり立つためには、聖霊で満たしていただき、イエス・キリストのものとならない限り悪魔の勢力に打ち勝つことはできません。イエスさまと一緒に集めない人は、自分勝手な考えや自家製の愛でやろうとしますから、羊たちを集めるつもりが、かえって散らすことになってしまいます。

勿来教会が神の国の到来を告げるしるしとなりますように。そのためには「神の指」の働きを祈り求めていかなければなりません。今まで以上にいっそう「聖霊よ、おいでください」と祈ってまいりましょう

 

 3月24日

「真理とはなにか」  武 公子牧師

ルカによる福音書18章33~38節

 

 真理とは、真に人間を人間たらしめるもの、すべての人間が本当に幸せになる永遠の命に至らせる道、それが「真理」ではないでしょうか。イエスさまは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない」(ヨハネ146)と言われました。いまだかつて「神」を見た者はだれもいません。父なる神のもとから世に来られたイエスさまだけが、神はどのようなお方であるかを証しすることがおできになり、イエスさまのご生涯を通して、私たちは神を知ることができるのです。世は、イエスさまを十字架の死に引き渡すほどに、神に背を向けました。そのような私たちの罪を負い、イエスさまは神の裁きをお受けになりました。しかし、主イエスの十字架の勝利によって、私たちは神と和解することができました。「真理に属する人は、皆わたしの声を聞く」とイエスさまは言われましたが、世の権力者ピラトにとって、真理などは何の役にも立たないどうでもいいことでした。彼はイエスさまに何の罪も見出せなかったが、わが身を守るためについにイエスさまを十字架に引き渡します。「真理」とは、神ご自身であり、神の言葉であり、そしてイエス・キリストそのお方にほかなりません。

 

 3月31日

「日々、十字架を負い我に従え」  武 公子牧師

イザヤ書63章7~14節

ルカによる福音書9章18~27節

 

 ペトロは、イエスを「神からのメシア」と答えました。イエスは、確かにメシアです。しかし、十字架へと向かうメシアなのです。神の救いのご計画は、復活だけではありません。メシアは多くの苦しみを受け、捨てられて、殺されるということも含まれます。十字架の死を通っての復活ですから、神は、イエスを苦しみの中から助け出すわけにはいかないのです。御子の苦しみは、神ご自身の苦しみです。そのようにわたしたちもまた十字架を背負うことは、キリストと共に苦しむことを意味します。神とイエスの交わりが苦難を抜きにしては考えられないように、イエスと私たちの交わりも苦難を抜きにしてはあり得ないのです。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とイエスは言われます。十字架とは「神の思い」であり、自分を捨てるのは、神の思いを背負うためです。その時、「命」が与えられます。神のことを思う人が、自分を捨てて十字架を背負うとき、命への道が、日々、開かれて行きます。 

 

2019年2月

 2月3日

「新しいぶどう酒」  武 公子牧師

エレミヤ書13章1~11節

ルカによる福音書5章33~39節

 

人々はイエスの弟子たちが断食しないで、飲んだり食べたりしているのを見て不思議に思いました。イエスさまはおよそ人々が考えているような宗教的な人間ではありませんでした。人々と共に飲み食いされました。イエスさまは人々の疑問にお答えになります。

イエスさまは花婿で、イエスと共にある人たちは、皆、婚礼に招かれた客なのです。婚礼の席で決定的なことは、花婿がそこにいるということです。それが婚礼の喜びの源泉です。婚礼はすでに開始されました。キリストと共に食すること、それが私たちにとっての救いなのです。「しかし、花婿が奪い取られる時が来る」。これはキリストの十字架の死を指し示す言葉です。その時、私たちは悲しんで断食をします。しかし、キリストが共におられる限り、私たちは断食よりも主と共に食することを重んじます。

 花婿は世界から奪い取られたままではありません。罪と死の力に打ち勝ち、復活されました。そして聖霊降臨において、主は私たちと共に生きておられることを実現されました。このイエス・キリストと共に生きる中にこそ、真の新しさがあります。

 

 2月10日

「安息日の主」  武 公子牧師

   出エジプト記20章8~11節

 ルカによる福音書6章1~11節

 

 ふつう人は六日の間働いて、日曜日に疲れをとるため休むと考えます。しかし、聖書では逆です。初めに安息ありきなのです。「第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった」(創世記22)。神の御業の完成の日、すなわち安息日が終わったとき、地上の人間の歴史が始まりました。神の創造の本来の目的はこの安息日が到達点でした。もちろん、神はお疲れになって休まれたわけではありません。休むことは、働くための手段ではなく、働くことの目標であり、その到達点でした。私たちもこの神の安息に与るように招かれています。神の安息に与るということは、礼拝を守るということです。安息日は仕事を休んで何もしない日ではなく、礼拝を守る日なのです。まず神の安息に与って休み、その第二日目からそれぞれ神に委ねられた地上の働きを始めます。イエスさまは安息日の本来の意味を取り戻すためにファリサイ派の人々と戦われました。安息日の律法は、とくに社会的弱者に対して人道的な配慮と愛の精神で貫かれています。神の独り子イエス・キリストこそ、天地創造の業を終えて安息された神と等しい方であるゆえに、イエスと共にいるところにすでに真の安息があります。

 

 

 2月17日

「聞く耳のある者は」  武 公子牧師

箴言3章1~8節

ルカによる福音書8章4~15節

 

私たちは4つの土地について、私はどの土地か、あの人はどの土地かとつい詮策したくなります。しかし、その時から裁きが始まってしまいます。同じ人間の中にもいろいろな土地の状態がありますから、私はダメな土地だと考えるのでなく、神さまが良い土地になるよう耕してくださるという信仰を持ちたいと思います。

 この「種を蒔く人」のたとえを宣教の視点から考えるならば、とうてい芽が出そうもない道端や石地や茨の中にまで種が蒔かれて行き、神のみ業が起こされるという大きな可能性が秘められています。そして何よりここでは「神の国の秘密」が語られています。弟子たちにもわかりませんでした。それはイエス・キリストの十字架と復活の秘儀だからです。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ1224)。神の国は、必ず十字架を通って復活に達します。信仰はそのように苦難や障害を乗り越えて行く戦いです。良い土地に落ちた種とは、神の恵みにのみより頼む人です。悪魔の誘惑にもかかわらずついに勝利します。主イエスは、たとえを話されてから大声で言われました。「聞く耳のある者は聞きなさい」と。

 

 2月24日

「友なるイエスさま」  武 公子牧師

ヨハネによる福音書15章11~17節

 

本来なら天と地ほどの差がある私たち罪人を、イエスさまは「友」と呼んでくださいます。僕は主人のしていることを知らないで従うだけですが、イエスさまは父なる神さまから聞いたことをすべて私たちに伝えてくださったから、もはや僕ではなく、イエスさまは私たちにとって、主であるとともに友でもあるのです。イエスさまがすべて伝えたこととは、神の御子イエスさまが、私たちの罪のために十字架にかけられて死ぬということです。「友のために自分の命を捨てること、これ以上大きな愛はない」。友となってくださったイエスさまはこう言われます。私たちが友ために命を捨てることではありません。そんなことは人間にできないことは、イエスさまはよくわかっておられます。

 

 イエスさまの友であるためには、一つだけご命令があります。それは「互いに愛し合う」ことです。私たちにはできないかもしれません。しかし、「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」(ヨハネの手紙一416)。友なるイエスさまにとどまるなら、私たちもまた互いに友なのです。

 

2019年1月

 1月6日  

「わたしの心に適う者」

イザヤ書40章1~5、9~11節

  ルカによる福音書3章15~16、21~22節

 

 民衆が洗礼を受けたとき、イエスもその仲間に加わりました。罪とは無縁の御子イエスが、なぜ洗礼を受ける必要があったのでしょうか。イザヤ書の「苦難の僕」には、こう記されています。「彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった。」(5312)。イエスは、「罪人の一人に数えられる」生涯の第一歩をここから踏み出そうとしています。それは十字架の苦難と死へ続く道でもあります。主イエスは民衆と一つになって、救いの道を共に歩もうとされます。イエスが洗礼を受けた時、3つの出来事がありました。まず「天が開け」て、天と地が一つに結ばれました。そして「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」のです。ペンテコステに先立つ聖霊降臨でした。そして天から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞えたのは、十字架に上るイエスが、世に対する救いのしるしとなるからです。そして今日でも洗礼を受ける者には、天から同じ声が響くのです。

 

 1月13日  

「しかし、お言葉ですから」 武 公子牧師

イザヤ書6章1~8節

  ルカによる福音書5章1~11節

 

 シモンとその仲間たちは、夜通し漁をしたのに何もとれませんでした。イエスは彼らに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と命じました。漁に関しては誰よりも熟知している漁師たちにとって、イエスの言葉はいぶかしく思われたことでしょう。しかし、シモンだけは「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言いました。彼の決断は漁師としての経験や知恵に基づいたものではなく、イエスの言葉の上に基づいたものでした。その結果、網が破れそうになるほどの大漁でした。この常識を超える出来事を体験したシモンはイエスにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と告白しました。しかし、それはどうしてでしょうか。なぜなら、彼は大漁という圧倒的な出来事の中に、神の恵みを見て取ったからでした。それまでは体面に捕らわれて、自分の罪を告白しないで隠していました。しかし今や、圧倒的な神の恵みに出会って、もはや罪を隠す必要はなくなりました。私たちは常識を超える神の圧倒的な出来事に遭遇したとき、自分の罪深さを知らされます。同時に、神の恵みの豊かさをも知らされます。そのとき、み言葉の信頼のうちに生き始めます。

 

 1月20日

「恵み深い言葉に驚き」  武 公子牧師

民数記9章15~23節

ルカによる福音書4章20~30節

 

安息日に会堂で行ったイエスの説教に、ナザレの人々はイエスの口から出る恵み深い言葉に驚きました。しかし、イエスを「ヨセフの子ではないか」と見る故郷の人々は、イエスを通して働く神を見ないで、地縁や身内意識に目を向けます。ある者はイエスを英雄視し、自分たちは特別な恵みを受けられると思い違いをします。しかし、イエスは、神の恵みはユダヤ人だけではなく、異邦人にも注がれることを聖書を通して明らかにすると皆、憤慨しました。最初はイエスを称賛した人々ですが、次第に怒りに満たされ、ついに崖から突き落とそうとしました。すでに故郷という狭い枠の中で、イエスの十字架が暗示されています。自分たちとは異質な者と見た故郷の人々はイエスを排除しようとしました。しかし、イエスは彼らの真ん中を通り抜けて立ち去りました。

 神の言葉と恵みは、それを拒否した人間の間を通り抜けて異邦人に向かって出ていきます。わたしたちが自分の狭い枠を取り払い、イエスの後を追って、神の言葉という新しい世界へと出ていくなら、恵みに満たされます。

 

 1月27日

「この人のするままに」  武 公子牧師

ヨハネによる福音書12章1~8節

 

マリアはイエスさまのために高価なナルドの香油を惜しげもなく注ぎ、自分の髪でイエスさまの足をぬぐいました。イスカリオテのユダは、なぜ、こんな無駄遣いをするのか、これを売って貧しい人々を救わないのかととがめます。ユダの言葉に多くの批判の目がマリアに向けられたことでしょう。するとイエスさまは「この人のするままにさせておきなさい」と言われました。マリアの愛と信頼の心をイエスさまは見て取って、彼女の行為に大いなる意味をお与えになりました。救い主イエスは、私たちの罪のため十字架について死んで墓に葬られます。マリアの香油注ぎは、イエスさまの葬りの日のための備えとなりました。

一方、ユダの正論の陰に隠されている心をイエスさまは見抜かれました。彼は貧しい人々のことを思ったわけではなく、自分の罪を隠すためでした。

 

 私たちもマリアのようにイエスさまに仕えるために行動を起こすとき、そこに大いなる意味を与えられます。主の復活された日曜日に、こうして礼拝に集い来る私たちは、大きい者も小さい者も共にこの地にキリストのからだを造り上げるのです。