2019年9月

 9月1日

「もしそれでもだめなら」  武 公子牧師

ルカによる福音書13章1~9節

 

 ぶどう園に植えられたいちじくの木とは、神が選ばれたイスラエルのことです。けれどこのいちじくの木は主人の期待に反して、何年たっても、「悔い改め」という実を結びません。主人は怒って園丁に、「切り倒してしまえ」と命じますが、園丁は一生懸命にこの主人に、もう一年待ってくださいと執り成します。この園丁こそ、十字架の上で私たちのために、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ2334)と祈られたイエス・キリストです。父なる神は、私たちの罪を赦すために御子イエス・キリストを世に遣わされました。したがってこの神に信頼して生きようとしないことが一番の大きな罪なのです。「悔い改め」という実を結ばなくてはならないのは、まず私たちキリスト者なのではないでしょうか。神は一人も滅びないで、すべての者が悔い改めて命を得るようにと、忍耐しておられます。神はイエスの憐れみと赦しの執り成しによって、皆が神に立ち帰るのをあと一年、あと一年と待ち続けておられます。そしてそのためにも神は、神と共に働く者を求めておられます。

 

 9月8日

「狭い戸口から入れ」  武 公子牧師

ルカによる福音書13章22~30節

 

 

 神の国の戸口はなぜ狭いのでしょうか。終わりの日に、大勢の人たちが入ろうとして押し寄せるからです。狭い戸口からだれでも入れるわけではありません。そのためには今から鍛錬しなければなりません。神の国に、先に入れると高ぶっていたユダヤ人が、後になります。神の憐れみを求めた異邦人が、先に神の国に招き入れられました。私はすでに洗礼を受けているからと慢心していると逆転が起こるかもしれません。神の国の戸口の中から「お前たちがどこの者か知らない」と主人の答えがきびしく返ってくるでしょう。神さまとの関わりを大事にしないで、ふさわしい態度をとらないからです。神の国の戸口はいつ閉じられるかは誰にもわかりません。しかし、「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に務めよ。悔い改めよ」(黙示録319)とイエスさまは言われます。今なら、神さまはだれに対しても戸口を開いておられます。イエスさまとの交わりを大事にして、神に心を開いて、いっそう神さまとの関わりを深め、狭い戸口から入る鍛錬をします。終わりの日に戸口から中へと迎え入れられるためには、私たちが今という時をどう鍛錬するかにかかっています。

 

2019年8月

 8月4日

「喜びなさい」  武 公子牧師

フィリピの信徒への手紙4章2~9節

 

 異教の地で生きるキリスト者にパウロは「広い心」を持てと命じます。「広い心」とは、譲る精神、負ける精神、損をする精神のことです。主イエスは神の子でありながら、愛する者のためにご自分を空しくして十字架についてくださいました。これがキリスト者の「広い心」の源泉です。またパウロは決して喜べない状況の中から、「常に喜びなさい」と呼びかけます。どんな苦しいことがあっても、「常」に喜べるそのような喜びは、私たちがふつう考えているような喜びとは別な新しい喜びがあるからです。それは「キリストにおいて」喜ぶということです。英語で「in Christ」の「in」は、「キリストの中に」という場所を示すと共に「キリストに結ばれて」という密接な依存関係をも示します。キリストを信じる者が抱く喜びは、人間が作り出す喜びではありません。牢獄にあるパウロの喜びは、まさにキリストに結びつき、キリストに依存することによって得られる喜びです。私たちキリスト者は、どんな苦境の中にあろうとも、キリストの外にあるのではありません。キリストの御手の只中にあるのです。

 

  8月11日

「後ろを顧みず」  武 公子牧師

ルカによる福音書9章51~62節

 

 イエスは、神のご計画を実現するためにエルサレムに向かう決意を固めました。旅の途中で三人の人がイエスに従いたいと申し出ます。最初の人は、あなたにどこまでも従って行くと言います。イエスはご自分の現実を示し、自分は安らぐ場所さえないことを告げ、覚悟を迫ります。二番目の人は、父親の葬儀をすませてからと言います。イエスは死者のことは、神の国の到来に気がつかない人たちにまかせればよい。死んでしまった人は、もうあなたが手を出せる領域にはいない。神が配慮してくださることだ。あなたは心配しないで、神の国を告げ知らせるべきだと言われたのです。三番目の人は、まず家族にいとまごいをさせてほしいと願うが、イエスは許しませんでした。なぜなら、畑で鋤を持つ人が、よそ見をしていれば畝が曲がってしまうように、イエスに従う者も後ろを振り向くなら、心が揺れて決心が鈍るからです。私たちも信仰生活において何をまず優先すべきか、イエスに従う覚悟と姿勢が問われています。

 

 8月18日

「それを実行しなさい」  武 公子牧師

ルカによる福音書10章25~37節

 

 ある律法の専門家は、「では、わたしの隣人とはだれですか」とイエスに問いました。その質問は、「隣人」とは、愛の向かう対象がすでに始めから「ある」ということで、それ以外の人には関心を持たなくても良いということになります。しかし、「隣人」とは、助けを必要としている人の求めを知り、行動を起こすことによって、始めて隣人に「なる」のです。その人を見て、道の向こう側を通って行ってしまう人は多いのですが、何の報いも求めずに、自分の都合は脇において、他者の大事なことのために、喜んで助ける人は少ないのです。「隣人になる」ということは、他者の悩みを共に悩み、他者の重荷を共に担い、関わっていくことです。「あなたは、『隣人になる』ことができますか」と私たちはイエスさまから一人ひとり問われています。しかし、実はそれよりも先に、イエスさまは私たちの惨めな姿を見て、憐れに思い、近づいて、隣人になってくださいました。イエスさまの愛に迫られるなら、私たちも行動を起こす者となれるかもしれません。

 

 8月25日

「目を覚まして待て」  武 公子牧師

ルカによる福音書12章35~48節

 

 再臨されるキリストは、何の前触れもなく、突然やって来ます。泥棒が不意をついて侵入するように、キリストの再臨も不意をついて到来します。しかし、いつも目を覚まして、備えていれば、不意をつかれることはありません。私たちが生きている今は、深い眠りに誘われる夜です。キリストの再臨が遅れていると思えば、よけい眠くなってしまいます。イエスさまはそのような時だからこそ、「目を覚ましていなさい」と言われます。腰に帯を締め、いつでも主人を迎える用意をしていることです。婚宴はいつ終わるかわかりません。その日、その時はだれも知りません。しかし、主人が家に帰ってくることは確実なことです。主人が必ず帰って来るのを信じるなら、目を覚まして待つことができます。主人が帰ってきた時、僕たちは、大きな喜びに出会うことになります。主人は僕たちを食事の席に着かせて、そばに来て給仕してくださいます。私たち信仰者は、キリストが再びおいでになる日を不安そうに恐れて待つのではありません。神の国の食卓に着く日は主と出会う大きな喜びの時、救いの成就の時です。私たちも目を覚まして主を待つ者としてください。

 

2019年7月

 7月7日

「ひとりを大切にされる神」  武 公子牧師

ルカによる福音書15章1~10節

 

 競争社会の中で取り残されたり、落ち込んだりして「どうせ私なんかいなくてもいいんだ」と思ってはなりません。神の前から見失われたひとりの魂を神は捜し求めておられます。迷子になった一匹の羊を羊飼いは必死に捜します。持ち主にとってそれはもはや数や計算ではなく、かけがえのない大切な一匹だからです。失なわれた者を救うために来られたイエスさまは、その魂を見い出すまで捜し求めておられます。神さまの一番お喜びになることは、私たちが悔い改めて神さまのもとに立ち帰ることです。「悔い改める」とは、神から遠く離れている自分に気づかされて、この私を捜し求めている神の愛を知らされることです。私たちは神さまにとってかけがえのない「ひとり」なのです。なぜなら私たちは神さまのものだからです。競争社会が求めるナンバーワンでなくても、神さまにとってあなたはオンリーワンなのです。「ひとり」の見失われた魂が神さまのもとに立ち帰るとき、教会の兄弟姉妹たちの間にも大きな喜びがあります。

 

 7月14日

「ほかの9人はどこにいるのか」  武 公子牧師

ルカによる福音書17章11~19節

 

 イエスさまに重い皮膚病を清めてもらったのは10人でした。彼らは一目散に家族のもとへ走り去って行きました。しかし、その内の一人だけがイエスさまのところへ戻ってきてひれ伏して感謝しました。この一人は、いやされた病いの向こうに神さまの憐れみを見る信仰の目を与えられて信仰を告白しました。イエスさまは「ほかの9人はどこにいるのか」と言われました。勿論イエスさまはお礼を言ってほしいわけでも、非難しているわけでもありません。この一人のサマリア人のように病をいやされて、神を賛美し信仰を告白する機会が与えられたにもかかわらず、彼らはそれを無駄にしてしまったのです。イエスさまは病いをいやされて救いの入り口に立ったに過ぎないこの9人も、真の救いに招き入れることをお望みだったからです。イエスさまは他のなにものもごらんにならないで、ただその信仰だけをごらんになります。そしてこの外国人に「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。そうであるならば、私たちも信仰という目を与えられ、信仰ひとすじに歩んでまいりたいと思います。

 

 7月21日

「イエスを通して働く神」  武 公子牧師

ルカによる福音書7章11~17節

 

 イエス・キリストが来られるならばもう泣かなくてもよいのです。私たちの神は、人の不幸を見過ごしにできない、憐れに思って、「泣くな」と語りかけ、近づいてくださる神です。私たちの悲しみに無関心ではいられない、腹わたを突き動かされる神なのです。一人息子を失ったやもめは泣くことしかできません。彼女を救えるのはもはや主イエスの「憐れみ」だけです。息子は生き返りイエスはその若者を母親に返しました。イエスの憐れみが若者の蘇生という出来事を起こしました。しかし、彼はいつかまた死なねばなりません。では、死はすべての終りでしょうか。いいえ、イエス・キリストこそ、死に打ち勝ち、復活されたただ一人のお方であり、永遠の命へと道を開いてくださったお方です。終わりの日には、キリストに結ばれて死んだ人たちの復活が実現する日です。信仰者は死者の復活という途方もない希望に生きることができるのです。私たちは死を超える新たな命を信じて、互いに励ましあう生き方へと向けられたいと思います。

 

 7月28日

「愛の大きさで分かる」  武 公子牧師

ルカによる福音書7章36~50節

 

罪深い女性が、涙でイエスの足をぬらし、接吻し、香油を塗ったのは「多く赦されたから多く愛した」のであり、シモンは「少なく赦されたから少なく愛した」のです。イエスが、この女とシモンを比較されたのは、シモンを非難するためではなく、この教えを確認するためでした。

 シモンは、自分も確かに罪はあるかもしれないが、この女の人ほど自分は悪くはないと思っていました。「罪」というものは数量的には量れないので、その人の自覚に頼らなければならない面があります。しかし、すべての人は、神の前に罪人であります。私は50デナリ、あの人は500デナリと思うのでなく、私たちは皆、500デナリの借金を帳消しにしていただいた者です。シモンのように自分は少ししか罪がないと思えば、少ししか赦される必要がないので少ししか愛さないでしょう。しかし、この罪深い女のように、多くの罪を赦されたと思う者は、多く愛するのです。私たちが多くの罪を赦されたことは、イエスに示した愛の大きさでわかります。罪を赦され、救われた喜びは、いっそう神と人を愛して生きる者へと変えられます。

2019年6月

 6月2日

「天に上げられたイエス」  武 公子牧師

マタイによる福音書28章16~20節

 

キリストが「天に上げられた」ことは何を表しているのでしょうか。「天」は、神ご自身を表す言葉であり、神のみ座を表す言葉ですから、ベツレヘムの馬小屋に「人」として生まれ、「人」として生きられたイエスが、今や、「神」となられたことを表しています。父なる神のみもとに帰られたことにより、キリストの十字架の死と復活の勝利が明確なものになりました。

イエスの地上における宣教の業は、弟子たちへと引き継がれて、「教会」という新しい時代を迎えます。イエスの「大宣教令」(19-20節)は、「教会」が果たすべき使命が語られています。それは「すべての民をわたしの弟子にしなさい」であり、具体的には「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けること」と「イエスが命じたことをすべて守ることを教えること」によって人々を弟子とします。「弟子」とは、イエスの語りかけをたえず受け、それに生かされる人のことです。

これまでイスラエルの民へと限定されていた宣教は、すべての民へと広がります。誕生のとき、「インマヌエル」と呼ばれたイエスは、復活してガリラヤの山から昇天されるとき、「わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」と宣言されました。

 

  6月9日

「求め、探せ、たたけ」  武 公子牧師

ルカによる福音書11章1~13節

 

「パンの求めに応じてくれない友人」の譬えをひいて、イエスは弟子たちに、執拗に、粘り強く祈り求めるなら、ついに祈りは応えられるという「祈りの真理」と「人間に対する神さまの態度」を教えられました。

わたしたちに必要なことは、慈しみ深い神に、「父よ」と呼びかけて執拗に、求め、探し、叩き続けることです。そうすれば、祈りに誠実に応えてくださる神は、必ず「聖霊」送ってくださり、これからも私たちに必要な助けを与えて下さるにちがいありません。

 不完全な人間の親でさえ自分の子には良い物を与えるのだから、完全な天の父は求める者に良い物をくださいます。良い物とは「聖霊」に他なりません。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死にわたされた方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」(ローマ832

 

 6月16日

「皆ひとつになって」  武 公子牧師

使徒言行録2章43~47節

 

 私たちはそれぞれ異なる賜物を与えられ、異なる個性を持つ者として創られました。そういう私たち人間が一致して共に生きることは難しいことです。しかし、父なる神と子なるキリストが一つであるように、信仰者はキリストを土台として一つになることができるのです。弟子たちが皆一つになって熱心に約束の聖霊を待ちながら祈っていると、突然、聖霊が降り、そこに教会が誕生しました。教会が大切にすることは、一同が集まり、そこでみ言葉を聞き、聖霊の働きを祈り、待ちつつ、求め続けることです。そして私たちは互いに分かち合い、助け合い、力に応じて働き、必要に応じて与えられるという「共に生きる生活」を生きる者とされます。最初の教会では、使徒たちを通して、多くの不思議な業としるしが行われていました。そこで人々の間に起こったのは、神への恐れでした。勿来教会においても、心を一つにして祈り、新会堂と牧師館建築において、すべての必要を満たされ完成を見ることができました。私たちは聖霊なる神の奇しきみ業に恐れを抱きます。

 

 6月23日

「小さな群れよ、恐れるな」  武 公子牧師

ルカによる福音書12章22~34節

 

 イエスは繰り返し「思い悩むな」と私たちに言われます。たとえ小さな群れであってもイエスの名によって集まるところにイエスが共にいてくださりそこに神の国が存在します。私たちを創造し、私たちを神の民として選んでくださった神は、私たちに必要なものはすべてご存じです。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神があなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」(一ペトロ57)。カラスや野の草花でさえ神は養い、装ってくださるのですから、わたしたち人間に対しては、なおさら神は必要を満たしてくださいます。

 勿来教会は新しい会堂と牧師館を必要としました。皆で心を合わせて祈ってまいりました。そしてついに私たちの祈りが聞き届けられました。本日6月23日私たちのために共に祈りを合わせてくださった諸教会の兄弟姉妹と共に献堂感謝礼拝を捧げることができました。主はわたしたちのうちに生きておられます。小さな群れは、恐れることなく、主の恵みの只中へと漕ぎ出してまいります。

 

 6月30日

「救われるべき名」  武 公子牧師

使徒言行録4章5~12節

 

 

 エルサレム神殿が建てられたとき、城壁にはめこむことのできない大きな石は何の役にも立たないと建築家によって捨てられました。しかし、建築後に家の四隅を支える親石となりました。イエス・キリストは主でありながら、ユダヤの指導者たちに、エルサレム神殿の外に捨てられ、ゴルゴタで十字架につけられました。このイエスこそ、復活して民を担う隅の親石となったのです。ペトロは聖霊に満たされて大胆に福音を宣べ伝えました。「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」わたしたちが救われるべき名は、人々が捨てて十字架につけたのに、神が復活させられた「イエス・キリスト」という名です。「救い」は神がすべてを整えてくださる神のみ業です。では私たちは何もしなくても良いのでしょうか。いいえ。ペトロは言いました。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。」わたしたちはこの名によって救いに与るのです。

 

2019年5月

 5月5日

「まさしくわたしだ」  武 公子牧師

イザヤ書51章1~6節

ルカによる福音書24章36~43節

 イエスの復活の顕現に、弟子たちは喜びのあまりまだ信じられないでいると、イエスは焼いた魚をみんなの前で食べられました。ふつう霊的な存在は、食事などしないと考えられていました。イエスは亡霊でも幽霊でもありません。霊的な「体」をもって、復活されたのです。恐れおののく弟子たちに、イエスは手と足をお見せになりました。復活されたイエスはまさしく、私たちの罪のために十字架にくぎ付けられて、死んだイエスでした。

 

イエスの復活顕現には、もう一つの意味があります。イエスが弟子たちと食事をされたのは親しい交わりを表します。イエスは十字架によって救いが成し遂げられたことを証し、神との交わりを喜び楽しむ祝宴へと私たちを招いてくださいます。主の「死」を忘れないように、私たちの弱さへの配慮からイエス・キリストは、主の晩餐(聖餐式)を教会に残してくださいました。私たちは、今その恵みの座へと招かれています。主の復活はただ死が打ち破られただけでなく、私たちがさらに神の喜びの祝宴へと招かれることです。

 

 

 5月12日

「天からのパン」  武 公子牧師

出エジプト記16章4~16節

ヨハネによる福音書6章34~40節

 

  先祖が荒れ野でマンナを食べたように、群衆は、「主よ、そのパンをわたしたちにください」と言いました。彼らはイエスをパンの供給者として求めました。パンの問題は、人間にとって日々の生活そのものであり、体を持つ人間にとってパンは必要不可欠である。だからこそイエスは「主の祈り」において「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈ることを教えられた。しかし、パンさえあればそれで充分なのでしょうか。マザーテレサは「パンよりも愛と理解に飢えている人の方が多い」と言います。荒れ野で天からのパンを食べた先祖たちはやがては死んでいきました。しかし、父なる神の御心は、イエスをキリストと信じる者が、一人も失われずに、終わりの日に復活して救われることです。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」。イエス御自身が天から降ってきた「命のパン」そのものなのです。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きるのです。それは先祖が食べた天からのパンをはるかに超えるものです。

 

 5月19日

「ひかりかがやくイエスさま」 

            疋田 充伝道師(磐城教会)

マタイによる福音書17章1~13節

 

イエス様は、山の上でご自分の光り輝くお姿を弟子たちに見せてあげました。ペトロや弟子たちは、イエス様の救いを間違えて考えていました。強い王様のように、教えに従わない人々を倒して天国へ連れて行って下さる、と考えていました。しかし、イエス様は、イエス様の教えに従わない人たちによって、十字架に架けられて殺されてしまいます。

天国は神様の御心で満たされた所です。少しでも悪い心がある人は入れません。そこでイエス様が、すべての人の悪い心をご自分のものとされ、十字架に御架かりになり、死なれ、3日目に復活されました。これこそが、神様の救いのご計画でした。この十字架と復活のイエス様を「私の救い主です」と信じる時、私たちも天国で生きる復活の体を頂けます。

光り輝くイエス様は、モーセとエリヤとお話をしています。この二人は、イエス様の生まれる前に、イスラエルの人々を神様の方へ導くために活躍した人です。しかし、イエス様と同じように、教えに従わない人たちに何度も殺されそうになりました。それでも、神様の教えに従ったモーセとエリヤに、神様はイエス様と同じ光り輝くご復活の体をプレゼントされたのでした。

 

 その時、神様の声が聞こえてきました。「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け」。どんなことがあっても、「イエス様の教えを大切にして生きていこう」と歩む人たちは、この光り輝く体を頂けるのです。

 

 

 5月26日

「実現するイエスの言葉」  武 公子牧師

 ルカによる福音書7章1~10節

 

カファルナウムの町での出来事は、奇跡物語でも癒しの物語でもありません。むしろ信頼の物語です。今日、言葉には力があるということを多くの人は信じないでしょう。それは、人間同士の信頼関係が希薄になっているからではないでしょうか。

百人隊長は自分の軍隊の経験から、権威の下にある言葉には力があることを知っていました。部下に命令すればその言葉どおりに行動します。しかし、軍隊といえども、信頼関係がなければ命令どおりにはいかないでしょう。

 この百人隊長は死にそうな部下の病いをイエスに助けてもらおうとユダヤ人の長老たちに執り成しを頼みます。彼自身は決してイエスの前に出ようとはしません。イエスが彼の家へと赴くと今度は友達を使いにやって言わせました。「主よ、御足労には及びません。ひと言おっしゃってください」。イエスは彼の信仰をほめました。なぜでしょうか。彼は「権威の下にある言葉には力がある」と知っていたからです。人間の権威の下でさえ言葉には力がある。まして神の権威の下にあるイエスの言葉は確実に成し遂げる力があるはずだ。イエスの言葉は、行動に勝る力を持っていると信じていたからです。

 

2019年4月

 4月7日

「十字架の勝利」  武 公子牧師

哀歌1章1~14節

ルカによる福音書20章9~19節

 

 ぶどう園とは、神が創造された世界のことであり、その世界を神は人間の手に委ねられた。ぶどう園は本来神のものですが、いつしか人間はそれを認めようとはしなくなった。そこで神は「僕」をこの世へと送ったが、彼らは僕を殴って追い返した。それでも次々と僕を送り続けたのは、悔い改めを待っておられる神の忍耐でした。ついに、この子なら敬ってくれるだろうと神の最愛の子を遣わしますが、農夫たちは跡取りの息子を殺してぶどう園の外へ投げ捨てた。もはや神は忍耐をもって応じてはくださいません。神から離れた私たち人間は神を崇めようともせず、罪を犯さざるを得ない罪人です。神との交わりを断たれて死ぬほかない存在です。しかし、人間の目には愚かであるが、神の深淵なるご計画がイエス・キリストの十字架によって実現したのです。役に立たないと捨てられた石が、家の四隅を固める最も重要な親石となったのです。その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれます。隅の親石であるキリストを拒否して、敵対するならその人はついに滅びに至るのです。キリストはそのような私たち罪人に代わって十字架の上で神の裁きを受けてくださいました。神はイエスを死から復活させ、世界のすべての人の救い主とされました。「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」(Ⅰコリント1557

 

 4月14日

「わたしの願いではなく」  武 公子牧師

イザヤ書56章1~8節

ルカによる福音書22章39~53節

 

 

 ゲッセマネでイエスは「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」と祈りました。「この杯」とは、神の「裁き」であり、「呪い」、「怒り」でした。イエスは人間の罪に対する自ら負うべき苦難と裁きとを悟り、そのような苦い杯はできれば取りのけてほしいと願いました。しかし、イエスが試練や誘惑を受けられたことこそ、「全き人」となられて生きたことの表れでした。イエスの恐れは、神との関係を引き裂かれることであり、罪ゆえにもたらされる神との断絶でした。「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」。イエスはご自分の願いの成ることを求めず、神の御心と一致することを求めた。救いの御業が成ることを悟り、イエスは死に至るまで神に対して「従順」であった。しかし、十字架の死を前にしたイエスは、何の恐れも葛藤もない超人ではありません。ゲッセマネの園で流されたイエスの血は、地面に吸い込まれ、私たちの生きている地上と一続きになっている。イエスの苦しみは、私たちの苦しみとどこかちがった外にあるのではない。だからこそイエスの「ゲッセマの祈り」は、私たちに苦しみと悲しみを覚えさせますが、同時にまた深い慰めも与えてくれるのです。

 

 4月21日

「わたしは主を見ました」  武 公子牧師

エレミヤ書31章1~6節

ヨハネによる福音書20章1~18節

 

マグダラのマリアは一人でイエスの墓の前で泣いていた。イエスの死を悲しみ、あきらめきれないのです。そこに死んだイエスの体がなくなっていることにこだわり、考え続け、そこから一歩も前に進めなくなっていました。

 二人の天使に呼びかけられても、復活したイエス・キリストがマリアに近づき、声をかけられてもイエスとは気づきません。過去のイエスの思い出に生き、死んだイエスにこだわるマリアには、復活して生きておられる主イエスがわかりません。しかし、イエスが「マリア」と名前を呼ぶとすぐにイエスだとわかったのです。「ラボニ」(私の先生)とマリアは応答しました。ナザレの村で幾度となく呼び交わしたことでしょう。すがりつこうとするマリアをイエスは制止されました。なぜなら、復活とは、なつかしい過去によみがえることでも、親しい過去の関係に戻ることでもありません。未来に向けた新しい生命の始まりなのです。ですから一度は、古いものと断絶しなければなりません。キリストと共に古い自分に死んで、キリストと共に新しい自分によみがえるのです。それが「洗礼」であり、新しい生命の始まり「復活」です。

 

 4月28日

「トマスを包むイエスさま」  武 公子牧師

ヨハネによる福音書20章24~29節

復活されたイエスさまが二度目に現れたのは、トマスのためでした。イエスさまは言われました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」と。トマスが疑って言った言葉を、イエスさまはきちんと受けとめてくださり、その言葉に応えてくださいました。トマスはイエスさまの愛と赦しの中に包まれました。そして今、イエスさまの十字架の意味がはっきりわかりました。イエスさまは、このわたしの罪の赦しのためにこそ、十字架の上で死んでくださったのだ。もう手で触って確認する必要はなくなりました。目の前にいるのは、間違いなく主イエスでした。トマスは「わたしの主、わたしの神よ」とひれ伏しました。イエスさまは「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と言われました。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ1017)とあるように、信仰は見ることよりも、聞くことによります。信仰は目に見える世界を超えて、高いところ、深いところから響いてくる神の言葉に対して耳を開くことから始まります。

2019年3月

 3月3日

「与え続ける力」  武 公子牧師

イザヤ書41章8~16節

ルカによる福音書9章10~17節

 

 「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません」。これが弟子たちの現実でした。今、空腹な群衆は、男の人だけで5000人ほどいました。しかし、イエスさまは「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われます。自分たちの力だけに頼るならそこには絶望しかありません。しかし、小さな力であっても、少ししかなくても、ゼロではありません。その現実をありのままイエスさまの手に委ねます。「すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。」イエスさまがパンを裂いて、繰り返し弟子たちに渡しておられるのです。そして弟子たちは人々に与え続けます。いったん人間の貧しい現実をイエスさまの手に委ねてから、再び受けるなら、すべての人が満腹してなお有り余るほどの豊かさとなります。イエス・キリストは与え続ける力をお持ちです。イエスさまと出会った多くの人々は、イエスさまのなさる業において「奇跡」を見ました。それは今もなお、私たちの中でも起こることであります。

 

 3月10日

「荒れ野を生きるために」  武 公子牧師

申命記6章10~19節

ルカによる福音書4章1~13節  

 

荒れ野の40日間、悪魔はイエスを誘惑しましたが、イエスはその「誘惑」を神の「試練」に変えました。イエスは申命記の言葉をもって悪魔に反論し、黙らせました。一時、離れた悪魔は再び戻ってきてイスカリオテのユダに入りました。その時から、最後の誘惑、すなわち十字架の苦難がイエスに襲いかかります。荒れ野で悪魔から「神の子なら・・・」と誘惑されましたが、今十字架の上でも「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」(マタイ2740)と人々からののしられます。イエスは荒れ野で石をパンに変えなかったように、十字架から降りようとはしませんでした。十字架から降りないから神の子なのです。そしてイエス・キリストは「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」(ヘブライ218)。私たちがこの世の荒れ野を生き抜いて救いに入るために、イエスは悪魔を退け、その誘惑の空しいことを示してくださいました。

 

 3月17日

「悪霊を追い出すキリスト」  武 公子牧師

 創世記6章11~22節

 ルカによる福音書11章14~26節

 

イエスさまが口の利けない人から悪霊を追い出すと、その人はものを言い始めました。神の霊の働きを見ながら、なお悪霊の力によるものだとイエスさまに敵対する者がいました。「神の指」すなわち「聖霊」が働いているところは、すでに神の国が始まっているしるしなのです。

私たちは悪魔の支配から解放されたと喜んでいるだけでは足りません。悪霊たちは再び戻って来て、もっと悪い悪霊を連れて来て、私たちの内に入り込んで、住み着こうとします。私たちがしっかり立つためには、聖霊で満たしていただき、イエス・キリストのものとならない限り悪魔の勢力に打ち勝つことはできません。イエスさまと一緒に集めない人は、自分勝手な考えや自家製の愛でやろうとしますから、羊たちを集めるつもりが、かえって散らすことになってしまいます。

勿来教会が神の国の到来を告げるしるしとなりますように。そのためには「神の指」の働きを祈り求めていかなければなりません。今まで以上にいっそう「聖霊よ、おいでください」と祈ってまいりましょう

 

 3月24日

「真理とはなにか」  武 公子牧師

ルカによる福音書18章33~38節

 

 真理とは、真に人間を人間たらしめるもの、すべての人間が本当に幸せになる永遠の命に至らせる道、それが「真理」ではないでしょうか。イエスさまは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない」(ヨハネ146)と言われました。いまだかつて「神」を見た者はだれもいません。父なる神のもとから世に来られたイエスさまだけが、神はどのようなお方であるかを証しすることがおできになり、イエスさまのご生涯を通して、私たちは神を知ることができるのです。世は、イエスさまを十字架の死に引き渡すほどに、神に背を向けました。そのような私たちの罪を負い、イエスさまは神の裁きをお受けになりました。しかし、主イエスの十字架の勝利によって、私たちは神と和解することができました。「真理に属する人は、皆わたしの声を聞く」とイエスさまは言われましたが、世の権力者ピラトにとって、真理などは何の役にも立たないどうでもいいことでした。彼はイエスさまに何の罪も見出せなかったが、わが身を守るためについにイエスさまを十字架に引き渡します。「真理」とは、神ご自身であり、神の言葉であり、そしてイエス・キリストそのお方にほかなりません。

 

 3月31日

「日々、十字架を負い我に従え」  武 公子牧師

イザヤ書63章7~14節

ルカによる福音書9章18~27節

 

 ペトロは、イエスを「神からのメシア」と答えました。イエスは、確かにメシアです。しかし、十字架へと向かうメシアなのです。神の救いのご計画は、復活だけではありません。メシアは多くの苦しみを受け、捨てられて、殺されるということも含まれます。十字架の死を通っての復活ですから、神は、イエスを苦しみの中から助け出すわけにはいかないのです。御子の苦しみは、神ご自身の苦しみです。そのようにわたしたちもまた十字架を背負うことは、キリストと共に苦しむことを意味します。神とイエスの交わりが苦難を抜きにしては考えられないように、イエスと私たちの交わりも苦難を抜きにしてはあり得ないのです。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とイエスは言われます。十字架とは「神の思い」であり、自分を捨てるのは、神の思いを背負うためです。その時、「命」が与えられます。神のことを思う人が、自分を捨てて十字架を背負うとき、命への道が、日々、開かれて行きます。 

 

2019年2月

 2月3日

「新しいぶどう酒」  武 公子牧師

エレミヤ書13章1~11節

ルカによる福音書5章33~39節

 

人々はイエスの弟子たちが断食しないで、飲んだり食べたりしているのを見て不思議に思いました。イエスさまはおよそ人々が考えているような宗教的な人間ではありませんでした。人々と共に飲み食いされました。イエスさまは人々の疑問にお答えになります。

イエスさまは花婿で、イエスと共にある人たちは、皆、婚礼に招かれた客なのです。婚礼の席で決定的なことは、花婿がそこにいるということです。それが婚礼の喜びの源泉です。婚礼はすでに開始されました。キリストと共に食すること、それが私たちにとっての救いなのです。「しかし、花婿が奪い取られる時が来る」。これはキリストの十字架の死を指し示す言葉です。その時、私たちは悲しんで断食をします。しかし、キリストが共におられる限り、私たちは断食よりも主と共に食することを重んじます。

 花婿は世界から奪い取られたままではありません。罪と死の力に打ち勝ち、復活されました。そして聖霊降臨において、主は私たちと共に生きておられることを実現されました。このイエス・キリストと共に生きる中にこそ、真の新しさがあります。

 

 2月10日

「安息日の主」  武 公子牧師

   出エジプト記20章8~11節

 ルカによる福音書6章1~11節

 

 ふつう人は六日の間働いて、日曜日に疲れをとるため休むと考えます。しかし、聖書では逆です。初めに安息ありきなのです。「第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった」(創世記22)。神の御業の完成の日、すなわち安息日が終わったとき、地上の人間の歴史が始まりました。神の創造の本来の目的はこの安息日が到達点でした。もちろん、神はお疲れになって休まれたわけではありません。休むことは、働くための手段ではなく、働くことの目標であり、その到達点でした。私たちもこの神の安息に与るように招かれています。神の安息に与るということは、礼拝を守るということです。安息日は仕事を休んで何もしない日ではなく、礼拝を守る日なのです。まず神の安息に与って休み、その第二日目からそれぞれ神に委ねられた地上の働きを始めます。イエスさまは安息日の本来の意味を取り戻すためにファリサイ派の人々と戦われました。安息日の律法は、とくに社会的弱者に対して人道的な配慮と愛の精神で貫かれています。神の独り子イエス・キリストこそ、天地創造の業を終えて安息された神と等しい方であるゆえに、イエスと共にいるところにすでに真の安息があります。

 

 

 2月17日

「聞く耳のある者は」  武 公子牧師

箴言3章1~8節

ルカによる福音書8章4~15節

 

私たちは4つの土地について、私はどの土地か、あの人はどの土地かとつい詮策したくなります。しかし、その時から裁きが始まってしまいます。同じ人間の中にもいろいろな土地の状態がありますから、私はダメな土地だと考えるのでなく、神さまが良い土地になるよう耕してくださるという信仰を持ちたいと思います。

 この「種を蒔く人」のたとえを宣教の視点から考えるならば、とうてい芽が出そうもない道端や石地や茨の中にまで種が蒔かれて行き、神のみ業が起こされるという大きな可能性が秘められています。そして何よりここでは「神の国の秘密」が語られています。弟子たちにもわかりませんでした。それはイエス・キリストの十字架と復活の秘儀だからです。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ1224)。神の国は、必ず十字架を通って復活に達します。信仰はそのように苦難や障害を乗り越えて行く戦いです。良い土地に落ちた種とは、神の恵みにのみより頼む人です。悪魔の誘惑にもかかわらずついに勝利します。主イエスは、たとえを話されてから大声で言われました。「聞く耳のある者は聞きなさい」と。

 

 2月24日

「友なるイエスさま」  武 公子牧師

ヨハネによる福音書15章11~17節

 

本来なら天と地ほどの差がある私たち罪人を、イエスさまは「友」と呼んでくださいます。僕は主人のしていることを知らないで従うだけですが、イエスさまは父なる神さまから聞いたことをすべて私たちに伝えてくださったから、もはや僕ではなく、イエスさまは私たちにとって、主であるとともに友でもあるのです。イエスさまがすべて伝えたこととは、神の御子イエスさまが、私たちの罪のために十字架にかけられて死ぬということです。「友のために自分の命を捨てること、これ以上大きな愛はない」。友となってくださったイエスさまはこう言われます。私たちが友ために命を捨てることではありません。そんなことは人間にできないことは、イエスさまはよくわかっておられます。

 

 イエスさまの友であるためには、一つだけご命令があります。それは「互いに愛し合う」ことです。私たちにはできないかもしれません。しかし、「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」(ヨハネの手紙一416)。友なるイエスさまにとどまるなら、私たちもまた互いに友なのです。

 

2019年1月

 1月6日  

「わたしの心に適う者」

イザヤ書40章1~5、9~11節

  ルカによる福音書3章15~16、21~22節

 

 民衆が洗礼を受けたとき、イエスもその仲間に加わりました。罪とは無縁の御子イエスが、なぜ洗礼を受ける必要があったのでしょうか。イザヤ書の「苦難の僕」には、こう記されています。「彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった。」(5312)。イエスは、「罪人の一人に数えられる」生涯の第一歩をここから踏み出そうとしています。それは十字架の苦難と死へ続く道でもあります。主イエスは民衆と一つになって、救いの道を共に歩もうとされます。イエスが洗礼を受けた時、3つの出来事がありました。まず「天が開け」て、天と地が一つに結ばれました。そして「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」のです。ペンテコステに先立つ聖霊降臨でした。そして天から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞えたのは、十字架に上るイエスが、世に対する救いのしるしとなるからです。そして今日でも洗礼を受ける者には、天から同じ声が響くのです。

 

 1月13日  

「しかし、お言葉ですから」 武 公子牧師

イザヤ書6章1~8節

  ルカによる福音書5章1~11節

 

 シモンとその仲間たちは、夜通し漁をしたのに何もとれませんでした。イエスは彼らに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と命じました。漁に関しては誰よりも熟知している漁師たちにとって、イエスの言葉はいぶかしく思われたことでしょう。しかし、シモンだけは「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言いました。彼の決断は漁師としての経験や知恵に基づいたものではなく、イエスの言葉の上に基づいたものでした。その結果、網が破れそうになるほどの大漁でした。この常識を超える出来事を体験したシモンはイエスにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と告白しました。しかし、それはどうしてでしょうか。なぜなら、彼は大漁という圧倒的な出来事の中に、神の恵みを見て取ったからでした。それまでは体面に捕らわれて、自分の罪を告白しないで隠していました。しかし今や、圧倒的な神の恵みに出会って、もはや罪を隠す必要はなくなりました。私たちは常識を超える神の圧倒的な出来事に遭遇したとき、自分の罪深さを知らされます。同時に、神の恵みの豊かさをも知らされます。そのとき、み言葉の信頼のうちに生き始めます。

 

 1月20日

「恵み深い言葉に驚き」  武 公子牧師

民数記9章15~23節

ルカによる福音書4章20~30節

 

安息日に会堂で行ったイエスの説教に、ナザレの人々はイエスの口から出る恵み深い言葉に驚きました。しかし、イエスを「ヨセフの子ではないか」と見る故郷の人々は、イエスを通して働く神を見ないで、地縁や身内意識に目を向けます。ある者はイエスを英雄視し、自分たちは特別な恵みを受けられると思い違いをします。しかし、イエスは、神の恵みはユダヤ人だけではなく、異邦人にも注がれることを聖書を通して明らかにすると皆、憤慨しました。最初はイエスを称賛した人々ですが、次第に怒りに満たされ、ついに崖から突き落とそうとしました。すでに故郷という狭い枠の中で、イエスの十字架が暗示されています。自分たちとは異質な者と見た故郷の人々はイエスを排除しようとしました。しかし、イエスは彼らの真ん中を通り抜けて立ち去りました。

 神の言葉と恵みは、それを拒否した人間の間を通り抜けて異邦人に向かって出ていきます。わたしたちが自分の狭い枠を取り払い、イエスの後を追って、神の言葉という新しい世界へと出ていくなら、恵みに満たされます。

 

 1月27日

「この人のするままに」  武 公子牧師

ヨハネによる福音書12章1~8節

 

マリアはイエスさまのために高価なナルドの香油を惜しげもなく注ぎ、自分の髪でイエスさまの足をぬぐいました。イスカリオテのユダは、なぜ、こんな無駄遣いをするのか、これを売って貧しい人々を救わないのかととがめます。ユダの言葉に多くの批判の目がマリアに向けられたことでしょう。するとイエスさまは「この人のするままにさせておきなさい」と言われました。マリアの愛と信頼の心をイエスさまは見て取って、彼女の行為に大いなる意味をお与えになりました。救い主イエスは、私たちの罪のため十字架について死んで墓に葬られます。マリアの香油注ぎは、イエスさまの葬りの日のための備えとなりました。

一方、ユダの正論の陰に隠されている心をイエスさまは見抜かれました。彼は貧しい人々のことを思ったわけではなく、自分の罪を隠すためでした。

 

 私たちもマリアのようにイエスさまに仕えるために行動を起こすとき、そこに大いなる意味を与えられます。主の復活された日曜日に、こうして礼拝に集い来る私たちは、大きい者も小さい者も共にこの地にキリストのからだを造り上げるのです。