2019年2月

 2月3日

「新しいぶどう酒」  武 公子牧師

エレミヤ書13章1~11節

ルカによる福音書5章33~39節

 

人々はイエスの弟子たちが断食しないで、飲んだり食べたりしているのを見て不思議に思いました。イエスさまはおよそ人々が考えているような宗教的な人間ではありませんでした。人々と共に飲み食いされました。イエスさまは人々の疑問にお答えになります。

イエスさまは花婿で、イエスと共にある人たちは、皆、婚礼に招かれた客なのです。婚礼の席で決定的なことは、花婿がそこにいるということです。それが婚礼の喜びの源泉です。婚礼はすでに開始されました。キリストと共に食すること、それが私たちにとっての救いなのです。「しかし、花婿が奪い取られる時が来る」。これはキリストの十字架の死を指し示す言葉です。その時、私たちは悲しんで断食をします。しかし、キリストが共におられる限り、私たちは断食よりも主と共に食することを重んじます。

 花婿は世界から奪い取られたままではありません。罪と死の力に打ち勝ち、復活されました。そして聖霊降臨において、主は私たちと共に生きておられることを実現されました。このイエス・キリストと共に生きる中にこそ、真の新しさがあります。

 

 2月10日

「安息日の主」  武 公子牧師

   出エジプト記20章8~11節

 ルカによる福音書6章1~11節

 

 ふつう人は六日の間働いて、日曜日に疲れをとるため休むと考えます。しかし、聖書では逆です。初めに安息ありきなのです。「第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった」(創世記22)。神の御業の完成の日、すなわち安息日が終わったとき、地上の人間の歴史が始まりました。神の創造の本来の目的はこの安息日が到達点でした。もちろん、神はお疲れになって休まれたわけではありません。休むことは、働くための手段ではなく、働くことの目標であり、その到達点でした。私たちもこの神の安息に与るように招かれています。神の安息に与るということは、礼拝を守るということです。安息日は仕事を休んで何もしない日ではなく、礼拝を守る日なのです。まず神の安息に与って休み、その第二日目からそれぞれ神に委ねられた地上の働きを始めます。イエスさまは安息日の本来の意味を取り戻すためにファリサイ派の人々と戦われました。安息日の律法は、とくに社会的弱者に対して人道的な配慮と愛の精神で貫かれています。神の独り子イエス・キリストこそ、天地創造の業を終えて安息された神と等しい方であるゆえに、イエスと共にいるところにすでに真の安息があります。

 

2019年1月

 1月6日  

「わたしの心に適う者」

イザヤ書40章1~5、9~11節

  ルカによる福音書3章15~16、21~22節

 

 民衆が洗礼を受けたとき、イエスもその仲間に加わりました。罪とは無縁の御子イエスが、なぜ洗礼を受ける必要があったのでしょうか。イザヤ書の「苦難の僕」には、こう記されています。「彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった。」(5312)。イエスは、「罪人の一人に数えられる」生涯の第一歩をここから踏み出そうとしています。それは十字架の苦難と死へ続く道でもあります。主イエスは民衆と一つになって、救いの道を共に歩もうとされます。イエスが洗礼を受けた時、3つの出来事がありました。まず「天が開け」て、天と地が一つに結ばれました。そして「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」のです。ペンテコステに先立つ聖霊降臨でした。そして天から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞えたのは、十字架に上るイエスが、世に対する救いのしるしとなるからです。そして今日でも洗礼を受ける者には、天から同じ声が響くのです。

 

 1月13日  

「しかし、お言葉ですから」 武 公子牧師

イザヤ書6章1~8節

  ルカによる福音書5章1~11節

 

 シモンとその仲間たちは、夜通し漁をしたのに何もとれませんでした。イエスは彼らに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と命じました。漁に関しては誰よりも熟知している漁師たちにとって、イエスの言葉はいぶかしく思われたことでしょう。しかし、シモンだけは「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言いました。彼の決断は漁師としての経験や知恵に基づいたものではなく、イエスの言葉の上に基づいたものでした。その結果、網が破れそうになるほどの大漁でした。この常識を超える出来事を体験したシモンはイエスにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と告白しました。しかし、それはどうしてでしょうか。なぜなら、彼は大漁という圧倒的な出来事の中に、神の恵みを見て取ったからでした。それまでは体面に捕らわれて、自分の罪を告白しないで隠していました。しかし今や、圧倒的な神の恵みに出会って、もはや罪を隠す必要はなくなりました。私たちは常識を超える神の圧倒的な出来事に遭遇したとき、自分の罪深さを知らされます。同時に、神の恵みの豊かさをも知らされます。そのとき、み言葉の信頼のうちに生き始めます。

 

 1月20日

「恵み深い言葉に驚き」  武 公子牧師

民数記9章15~23節

ルカによる福音書4章20~30節

 

安息日に会堂で行ったイエスの説教に、ナザレの人々はイエスの口から出る恵み深い言葉に驚きました。しかし、イエスを「ヨセフの子ではないか」と見る故郷の人々は、イエスを通して働く神を見ないで、地縁や身内意識に目を向けます。ある者はイエスを英雄視し、自分たちは特別な恵みを受けられると思い違いをします。しかし、イエスは、神の恵みはユダヤ人だけではなく、異邦人にも注がれることを聖書を通して明らかにすると皆、憤慨しました。最初はイエスを称賛した人々ですが、次第に怒りに満たされ、ついに崖から突き落とそうとしました。すでに故郷という狭い枠の中で、イエスの十字架が暗示されています。自分たちとは異質な者と見た故郷の人々はイエスを排除しようとしました。しかし、イエスは彼らの真ん中を通り抜けて立ち去りました。

 神の言葉と恵みは、それを拒否した人間の間を通り抜けて異邦人に向かって出ていきます。わたしたちが自分の狭い枠を取り払い、イエスの後を追って、神の言葉という新しい世界へと出ていくなら、恵みに満たされます。

 

 1月27日

「この人のするままに」  武 公子牧師

ヨハネによる福音書12章1~8節

 

マリアはイエスさまのために高価なナルドの香油を惜しげもなく注ぎ、自分の髪でイエスさまの足をぬぐいました。イスカリオテのユダは、なぜ、こんな無駄遣いをするのか、これを売って貧しい人々を救わないのかととがめます。ユダの言葉に多くの批判の目がマリアに向けられたことでしょう。するとイエスさまは「この人のするままにさせておきなさい」と言われました。マリアの愛と信頼の心をイエスさまは見て取って、彼女の行為に大いなる意味をお与えになりました。救い主イエスは、私たちの罪のため十字架について死んで墓に葬られます。マリアの香油注ぎは、イエスさまの葬りの日のための備えとなりました。

一方、ユダの正論の陰に隠されている心をイエスさまは見抜かれました。彼は貧しい人々のことを思ったわけではなく、自分の罪を隠すためでした。

 

 私たちもマリアのようにイエスさまに仕えるために行動を起こすとき、そこに大いなる意味を与えられます。主の復活された日曜日に、こうして礼拝に集い来る私たちは、大きい者も小さい者も共にこの地にキリストのからだを造り上げるのです。