2018年7月

 7月1日

「愛を通して働く信仰」  武 公子牧師

エレミヤ書23章23~32節

ガラテヤの信徒への手紙5章2~11節

 

ガラテヤの諸教会をパウロが立ち去ったのち、ユダヤ人キリスト者たちが異邦人キリスト者たちに「割礼」を強要していた。キリストの十字架の贖いだけでは不十分かのように、割礼を受けなければ完全な救いはないと惑わしていたのだ。それは半分キリストを信じて、半分はキリスト以外のものを信じてそれに依り頼むことである。もしそうであるなら、それはもはやキリストの福音とは呼べない、曲げられたほかの福音である。そのときキリストは何の役にも立たない方になり、彼らはキリストとは縁もゆかりもない者とされ、恵みも失うことになるのです。

 信仰によって私たちに与えられた最大の恵みは、「愛」である。キリストに結ばれていれば「割礼」はもはや問題ではありません。愛の背後に信仰があるなら、信仰は愛を通して働きます。私たちが神への愛に応答する行為は、礼拝をささげること、御言葉に聞き従うこと、全幅の信頼を寄せること、そして祈ることです。隣人に対しては、神への愛の証しとして、助けや交わりを必要としている者に具体的な助けと関わりをします。信仰はこのように、愛を通して働き、生み出し、影響を与えていきます。

 

 7月8日

「生ける神の教会」  武 公子牧師

列王記上10章1~13節

テモテへの手紙一3章14~16節

 

 

 神の家とは、キリストを柱とし、土台とした神の教会です。教会はキリストの体です。神によって召し集められた信仰共同体として形づくられた教会は、体にたとえられます。キリストを頭として集められた者たちが、生命的なつながりをもっている体であり、各自がそれぞれに与えられた務めをして、全体として神の目的に仕えるのです。教会を治めるのは、教会の頭であるイエス・キリストです。教会は生きた神の家です。しかし、大切なのは組織でもなく、制度でもなく、奉仕でもありません。それらをお用いになる生きた神さまの御業です。勿来教会の会堂建築のコンセプトの一つに「我が家に帰った安堵感」というのがある。家とは人が帰るところ、憩うところ、そんな自分を包む家族がいるところです。家庭や家がもっているぬくもりを感じたり、それによって元気を取り戻したり、支え合える場所、だれもが寄り添い安らげる場所でありたい。神は独り子イエスさまを私たちにお与えになったほどに世を愛されました。私たちの救いのために苦しみを通して十字架にかかって死ぬほどに私たちを愛してくださいました。勿来教会も神さまの愛と慈しみとが満ち満ちたところであるようにと祈ってやみません。

 

2018年6月

 6月3日

「聖霊の力にあふれ」  武 公子牧師

歴代誌下15章1~8節

使徒言行録4章23~31節

 

 「決してイエスの名によって話したり、教えたりしないように」とペトロとヨハネはユダヤの権力者たちに命じられた。釈放された二人から報告を聞いた信者たちは、心を一つにし、神に向かって声をあげて祈りました。脅されて苦難の中で祈った信者たちの祈りは、まず十字架を見上げたことでした。十字架の後には必ず復活の勝利が続くからです。次に神のご計画に対する信頼です。神のご計画は愛のない運命ではなく、神の愛の決断だからです。最後に、敵に対して攻撃しません。敵のことは神にお任せします。祈りには、お任せするものと求めるものとがあります。「あなたの僕たちが思い切って大胆に御言葉を語れるようにしてください」と積極的に求めました。脅しても使徒たちを従わせることはできません。ますます御言葉を大胆に語りました。イエスはかつて弟子たちに「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ」(マルコによる福音書13:11)と教えました。ペトロとヨハネは議会の真ん中に立ち、大胆にイエス・キリストの名を宣べ伝えました。

 

 6月10日

「悪霊追放」  武 公子牧師

サムエル記上16章14~23節

使徒言行録16章16~24節

 

 この世には、目に見えない様々な種類の霊がばっこしています。聖書は「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい」(ヨハネの手紙一4:1)と警告します。使徒パウロはフィリピの町で占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会いました。彼女は運勢を占って主人に金儲けをさせていました。真の神を知らないフィリピの人々はギリシヤの神々を拝んでいました。彼女はパウロたちの後を「この人たちは皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」と叫びながらついて来ました。悪霊の力で神の名を宣伝することにたまりかねたパウロは、イエスの名によってこの女から悪霊を追放しました。すると即座に、霊が彼女から出て行きました。この女と悪霊とが分離されたのです。悪霊さえいなければ彼女は立派に生きていけます。この世には、たたりや呪術宗教や占いの霊があります。また人間から出てくる敵意、争い、ねたみ、恨みという悪しき霊もうごめいています。もし神から出た霊かどうかを確かめるとしたら、この世の霊は自分を大きくし、神からの霊は、イエスはキリストであると告白させて神を大きくします。

 

 6月17日

「幼子のように」  武 公子牧師

ルカによる福音書18章15~17節

 

 弟子たちは神の国に入るには、もっと立派になって大きくならなければいけないと考えていたのでしょう。けれども本当に神の国に入るには、ただ一つのこと、それは子どもたちが素直に神の国を受け入れるように、ただ素直に信じて受け入れれば良いのです。神の国とはイエスさまがおられるところですが、そこには子どもたちや、小さくされた人々、心の低い人たちが集まっているところです。ですから子どもたちを追い払ってしまうことは、すなわち神の国を追い払ってしまうことになります。子どもをじゃまもの扱いにしているなら、それはイエスさまを締め出していることです。「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」とイエスさまは言われました。大人は疑ったりもっと偉くなろうとして、神の国を自分で閉ざしてしまいます。神の国に入るには幼な子のように神さまがくださる恵みを、「はい」と言って素直に受け入れさえすれば良いのです。

 

 6月24日

「神を畏れる人びと」  武 公子牧師

エステル記4章10節~5章8節

使徒言行録13章13~25節

 

 

 私たちはだれでも人生のなかばで、「この時のためにこそ」ふさわしい言葉を語り、取るべき態度を取らなければならない時があります。まわりや自分を見ていてはできないことも、ただ神の計画に気づいている時だけできることです。エステルがペルシアの王妃になったことに、神の深い計画があることを見抜いたモルデカイはふさわしい行動を取りました。神の下では沈黙する時もありますが、黙っていてはいけない時もあります。「私は王のもとに参ります。このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。」エステルは命がけで、自分の取るべき態度を選び取ります。人間の常識を超えた神の計画に基づく世界、それが見えている者は、神への畏れを抱きます。神の救いの計画と約束は、人間の不可能や絶望を超えて進みます。神を畏れることは、知恵の初めだけでなく、信仰の始まりです。もし私たちがふさわしい言葉を語り、取るべき態度を取れるとしたら、それは神の計画に気づいている時ではないでしょうか。

 

2018年5月

 5月6日

「悲しみが喜びに変わる」  武 公子牧師

創世記18章23~33節

ヨハネによる福音書16章12~24節

 

 喜びと悲しみが交互にやってくるのが人生です。多くの人はそれはただ自分との関わりの中で考えます。しかし信仰者においては、悲しみも喜びもつねに神につながっていますから、神を仰ぎ祈ります。そこに力の源泉があります。弟子たちはイエスが去って行かれるので悲しみでいっぱいですが、「どこへ行かれるのか」尋ねようとしません。イエスの言葉を聞くことに耐えられないのです。だからこそ、真理の霊が来ることによって十字架の真理を悟らせてくれるのです。地上でイエスが弟子たちになされたことを、聖霊が代わってしてくださいます。弟子たちはこれから起こる十字架の死や迫害を知らされて悲嘆に暮れています。「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」。女性が出産するとき苦しむものだが、子が産まれるとその喜びで苦しみは消えてしまう。そのように弟子たちの今の悲しみも、イエスの復活の喜びを味わうとき消えてしまい、その喜びはもうもとにはもどりません。十字架と復活はつながっています。すでに世に打ち勝たれたキリストの勝利は、決してもとにもどることはありません。

 

 5月13日

「神の家族」  武 公子牧師

ルカによる福音書8章19~21節

 

 イエスさまは30歳を過ぎると家を出て神の子イエスさまの本当のお仕事を始めます。母マリアとその兄弟たちは、イエスさまを最も親しい身内として、狭い、狭い自分たちの家に閉じ込めておこうとします。イエスさまを迎えに行きましたが、群衆といっしょに御言葉を聞こうとしないで外に立っていました。イエスさまは全世界の人々の兄弟となって、ご自分が十字架を負うことによって、神の愛を現すために来られたのです。「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」と言われたイエスさまは、血のつながりや、身内だけの人間関係ではなく、神を中心とした新しい人間関係を考えておられました。決して冷たくあしらったわけではありません。十字架の上でイエスさまは、母マリアに弟子のヨハネをさして「あなたの子です」と言い、また弟子ヨハネには母マリアをさして「あなたの母です」と言って息を引き取られました。その時から弟子ヨハネは、イエスの母マリアを自分の家に引き取り世話をしました。イエスさまに結ばれる人はみな霊的な兄弟姉妹です。教会は神を中心にした神の家族です。神の家族は全世界に広がります。

 

 

 5月20日

「神のいぶき、聖霊」  武 公子牧師

ヨシュア記1章1~9節

使徒言行録2章1~11節

 

 聖書の神は、静止した鎮座まします神ではなく、その働きにおいて、行動においてその存在を示されます。そして私たちの内側から働く神さまご自身です。ペンテコステの日、聖霊は弟子たち一人一人の中に入って来られ、その心を燃やし、その口を開かせ、神の偉大な業を語りました。彼らはだれにでも通じる「舌」を与えられたのです。ペンテコステは「言葉」の奇跡の物語です。一方、バベルの塔の物語は、人間は神の座にまで届こうとします。人間の欲望と傲慢な思いが神への信頼と交わりを壊し、その結果人間同士も対立し、憎み合い、利用し合う関係となって行きました。今日、さまざまな残酷な事件や悲惨な出来事や混乱と暴力の世界の出現は、その根底に互いに言葉が通じ合わないところに、隠れた原因があるのかもしれません。それを打ち破る道は言葉の回復ではないでしょうか。ペンテコステの出来事は、まさに言葉の奇跡の出来事です。多くの違った言葉を通しても、互いに通じ合う世界が出現しました。新しい共同体の成立です。ペンテコステは教会の誕生日であるとともに、聖霊が、私たちの中にまで来てくださり、自分中心が砕かれて相手の言葉で語り始める私たちの新しい出発の日でもあります。

 

 

 5月27日

「神の霊に導かれる者」  武 公子牧師

申命記6章4~9節

ローマの信徒への手紙8章12~17節

 

 私たちが神のものとされたことを保証するものとして、神は私たちに聖霊を与えてくださいました。しかし、私は聖霊を受けた特別な経験はないし、聖霊を受けているという確信もないと言われるかもしれません。パウロは「キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません」(8:9)と述べています。これを逆に言うなら「キリストに属する者は、キリストの霊を持つ者です」となります。洗礼によってキリストに結ばれた私たちの心に聖霊はすでに与えられているのです。その霊に導かれて、私たちは今日まで信仰生活を支えられ、まがりなりにもキリスト者として生きて来ました。自分の力で信仰生活を送って来たのではなく、私たちに注がれる聖霊が、弱い信仰を支えてくださり、これからも守り導いてくださいます。ですから聖霊の体験がないから、また自分の信仰が足りないからと言って嘆く必要はありません。聖霊が私たちの心に注がれて、神さまに向かって「父なる神さま」と呼びかけて祈る者とされました。このことがなによりも、私たちが「神の子」とされている確かなしるしです。神の霊に守られ、導かれて今週も歩んでまいりましょう。

 

2018年4月

 4月1日

「主は死に勝たれた。ハレルヤ」  武 公子牧師

出エジプト記14章15~22節

マルコによる福音書16章1~8節

 

 死は、すべての人に例外なくやってまいります。死は人生の終りであって、その先はありません。しかし、このような私たちの常識や固定観念を破るように、驚くべき出来事が天の使いによって告げられました。「あの方は復活なさって、ここにはおられない」。イエス・キリストは死に勝利して、復活されました。主イエスにとって死は終わりでなく、新しい命の始まりです。「球根の中には 花が秘められ、さなぎの中から いのちはばたく」(讃美歌21-575番)ように、私たちもキリストにあるならば、命の終りは 命の始まりなのです。天の使いの言葉は、婦人たちにとってあまりにも衝撃的でした。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(マルコ16:8)。そこで突然終わっています。しかし、彼女たちの沈黙の深さは、むしろ主の復活の真実を物語っています。やがて婦人たちの沈黙が破られる時が来るでしょう。そのとき彼女たちは主の復活を取り次ぐ者とされます。イースターは単なる奇跡物語ではなく、終わりが、新しい始まりを示す出来事なのです

  

 4月8日

「見ないで信ずる人は幸い」  武 公子牧師

民数記13章1、2、25~33節

ヨハネによる福音書20章19~31節

 

 「わたしたちは主を見た」と他の弟子たちが言ったとき、トマスは信じなかった。「わたしは自分の目で見、自分の手で触れなければ絶対信じない。」そのトマスに復活の主は現れて、ご自身の手の釘跡やわき腹の傷を示された。復活の主を見たトマスは「わたしの主よ、わたしの神よ」とひれ伏した。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と主は言われた。トマスは懐疑主義者とか実証主義者とか言われる。しかし彼だけが特に疑い深かったのだろうか。マグダラのマリアにしても他の弟子たちにしても、復活の主を見て目撃者となり証人とされたのである。2000年前、地上を歩まれたイエスを、私たちが目撃することは有り得ない。するとトマスに言われた主の言葉は、同時に私たちにも語られているのである。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」(ペトロの手紙一1:8)。私たちはただ目撃証人の証言によって「見ないのに信じる者」とされています。時空を超えてそのような不思議なことが、私たちの身に起こっていることはなんと幸いなことでしょう。

 

 4月15

「復活されたイエスさま」  武 公子牧師

ルカによる福音書24章34~43節

 

人間は死んだらどこへ行くのでしょか。それとも灰になってこの私はすっかり消えてなくなってしまうのでしょうか。聖書は言います。「塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る」(コヘレトの言葉12:7)。土の塵で形づくられた人は、その

 

鼻に命の息を吹き込まれて、生きる者となりました。神の息は霊であり、命であり、魂のことです。魂とは考えたり、喜んだり、悲しんだり、愛したりするこの私全部です。イエスさまは「むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイによる福音書10:28)と言われました。しかし、人間を創られた神は、誰の死をも喜ばれません。正義と愛の神は私たちを救うために御子をこの世に遣わしてくださいました。死は罪の結果ですが、イエスさまの死は私たちの罪の身代わりとなられた死です。イエスさまは何一つ罪がないゆえに、復活することができたのです。神はイエス・キリストの贖いのゆえに、私たちを罪のない神の子としてくださいました。復活されたイエスを、私の救い主と信じる者は、キリストに結ばれて決して死ぬことはありません。死んでも、生きるのです。

 

 4月22日

「愛の掟」  武 公子牧師

レビ記19章9~18節

ヨハネによる福音書13章31~35節

 

 

 イエスが地上に残される弟子たちに与えた「互いに愛し合いなさい」という「新しい掟」は決して新しい掟ではありません。モーセの律法にも隣人愛や相互愛の掟はあります。しかし、今までとは、全くちがった新しい意味があります。では何が新しいのでしょうか。イエスは「互いに愛し合いなさい」そして「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と続けて言われました。最後の晩餐の席で、イエスは弟子たちの足を一人ずつ洗い「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように」と言われました。それは、互いに重荷を負い合いなさい、互いに仕え合いなさいということを、身をもって模範を示されたのでした。ですからイエスの「新しい掟」は、キリストにある新しさ、質的に新しい掟です。「互いに愛し合いなさい」との理由が、「わたしがあなたがたを愛したように」とイエス・キリストを根拠としていることです。「新しい掟」の権威の根拠は、実にイエス・キリストにあります。わたしたちのために十字架の上に命を捨ててくださったほどに、わたしたちを愛された方に根拠を持つ新しさです。愛という言葉の新しさではなく、愛の事実、出来事の新しさです。

 

 4月29日

「豊かに実を結ぶ人」  武 公子牧師

出エジプト記19章1~6節

ヨハネによる福音書15章1~11節

 

 

 IT技術の盛んな今日、簡単に見知らぬ仮想の人とつながることのできる時代です。それだけに不幸な事件にまきこまれることも少なくありません。人はだれでも魂のやすらぎを得るところ、自分の本来のあり方を見いだすところにとどまろうとします。それが「つながる」ということです。イエスさまは「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」と言われます。ぶどうの木と枝は、一つのものであり、切り離すことのできない関係です。イエスはキリスト者の中に生きて、キリスト者はイエスの中に生きるという一つに結ばれた生命の関係です。そうであるならキリスト者の祈りは、その人の内に住んでおられる主イエスの祈りと一つということになります。したがってその祈りは、望むものは何でもかなえられて当然なはずです。「教会」は「キリストのからだ」と言われ、信者はその「肢体」とされています。イエスさまは「わたしはまことのぶどうの木、わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」とすべての人にご自身をさしだしておられます。魂のやすらぎを求め、本来の自分のあり方を見い出そうとしている人たちが、主イエスとつながることができるよう祈ります。

 

2018年3月

 3月4日

「神の思いと人間の思い」  武 公子牧師

イザヤ書48章1~8節

マルコによる福音書8章27~33節

 

 サタンは十字架の道を遮断することで、神の国は実現しないことをよく知っています。イエスさまの前に立ちはだかって、十字架の道を阻止しようとするペトロを、イエスさまは「サタン」と呼んで叱りつけます。ペトロが期待していたメシアは、地上の勝利者でした。神の思いではなく、人間の思いを優先させるペトロは、「サタン」に過ぎません。私たちはイエスの前に立つのでなく、後に従って十字架の道を歩むべきです。ですからイエスさまは、「サタン、引き下がれ」と言われたのです。それは「サタン、私の後ろに回れ。私の前に立って、私の行くべき道を妨げてはならない」ということです。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(8:34)とイエスさまは言われました。十字架とは人間の思いとかけ離れた「神の思い」のことです。イエスさまは、神の思いに従って十字架を負いました。私たちの教会も十字架を負ってイエスさまの後に従います。

 

 3月11日

「恐れと喜び」  武 公子牧師

出エジプト記24章12~18節

マルコによる福音書9章2~10節

 

 山上でイエスさまのみ姿が変わり、この世のものとは思えない輝きを放ちました。旧約聖書を代表するモーセとエリヤが現れてイエスさまと語り合っています。ペトロはいつまでもこのすばらしい栄光を留めておきたくて仮小屋を建てることを提案します。しかし、地上に神の栄光を固定して留めておくことはできません。ペトロの提案は退けられました。山上は恐れに支配されていました。私たちの礼拝にも畏れがあります。しかし、それ以上に大きな喜びがあります。イエスさまの輝くみ姿は、やがて私たちの上に現される栄光の姿です。さて、山上ではモーセもエリヤもいなくなり、天上の輝きも消えました。ただイエスさまだけがおられました。それで十分です。輝く白い服も着ておられません。弟子たちはイエスさまと共に山を下りて行きます。私たちも栄光の礼拝が終わり、この世へと出かけて行きます。イエスさまは私たちと共にいてくださいます。

 

 3月18日

「救い主であるイエスさま」  武 公子牧師

マタイによる福音書26章36~46節

 

 イエスさまは、ゲツセマネの園でうつ伏せになって「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈りました。この「杯」とは、神から遠く離れて生きようとする私たち人間の罪に対する「神の怒り」です。その罪の重さゆえにイエスさまは死ぬばかりに悲しいのです。「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」(ルカによる福音書22:44)。イエスさまが祈っている間、三人の弟子たちは眠りこんでいました。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」と決心して、立ち上がりました。そこへ裏切る者が手引きして、敵が大勢やって来ます。イエスさまは逃げようとすれば逃げられます。そして十字架から降りようとすれば降りられます。しかし、そうなさいませんでした。イエスさまが逃げたり、十字架から降りたりしたら、神の救いのご計画は実現されませんでした。十字架の死に至るまで、御心のままに従ったイエスさまは、ついに十字架で勝利してくださいました。

 

 3月25日

「わが神、わが神」  武 公子牧師

ゼカリヤ9章9~10節

マルコによる福音書15章25~41節

 

 昼の12時になると全地は暗くなりました。光として世に来られた主イエスを、世は受け入れませんでした。まことの光を締め出した世界は、まさに真昼の暗黒です。自然の光も一時隠されました。黒一色の世界、十字架の前にすべての人間は、例外なく罪人として立たされます。暗闇は神の裁きの象徴です。あれほど信頼していた神が、今、遠く離れて沈黙しておられる。イエスは神に全く捨てられたのです。しかし、ここでは逆さまなことが起こっているのです。全く罪のない神の子が、神の裁きを受けて、神に捨てられた者となりました。そして捨てられて当然の私たち罪人が、罪のない者とされたのです。この逆さまなことが起こったのが十字架の出来事です。イエスが息を引き取られたとき、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けました。沈黙されていた神が応答されたのです。イエスの死によって、神と人とを隔てていた至聖所の幕が取り去られ、私たちは直接神に近づく生きた道が開かれたのです。

 

2018年2月

 2月4日

「父の家で」  武 公子牧師

列王記下4章30~37節

マルコによる福音書2章1~12節

 

 イエスさまが「あなたの罪は赦される」と言うのと、中風の人に「起きて、床を担いで歩け」と言うのと、どちらが易しいとあなたは思いますか。もし「罪の赦し」と思うなら、あなたは「罪」を手軽に考えているのです。イエスさまにとっては、目に見える「体の癒し」の方がずっと易しいのです。なぜなら、イエスさまは血の代価を支払って、私たちを罪と死の奴隷から買い戻して下さいました。全存在をあげて、主は私たちを救ってくださったのですから、私たちもまた全存在をかけて主の言葉を聞きとらなければなりません。御子を十字架につけるという難しい奇跡をなさる神が、どうして易しいほうの奇跡をなさらないはずがあるでしょうか。私たちは主によって罪から解放されたのです。地上でいっさいの権威を授けられているイエスに、私たちのすべてを委ねるなら、そのお方が大丈夫と言ってくださいます。目の前の体の癒しだけに囚われて、それだけがすべてと思っているうちは、このお方を忘れているのです。イエスさまは「十字架の主」を知らせるために、そして地上で「罪を赦す」権威を与えられている「しるし」として、皆が難しいと思っているほうの奇跡を行いました。私たちは、今こそ神を見上げます。

 

 

 2月11日

「風や湖さえも従う方」  武 公子牧師

ヨナ書1章1節~2章1節

マルコによる福音書4章35~41節

 

 教会はよく舟にたとえられます。この舟にはいろいろな課題を抱えて生きている私たちが乗っています。そしてすべての解決者である主イエスも乗っておられます。イエスさまのご意志で出発した舟だから、決して波も風も立たないということではありません。人生において計画通りいかないことがあります。しかしそのことが、私たちにとって必要なことがあります。穏やかで順調な時は、イエスさまが共におられることを忘れます。順風満帆のときはイエスさまは必要ないとさえ考えます。その時激しい突風が起こり、弟子たちは慌てふためきました。しかし、イエスの一声でたちまち嵐は静まりました。嵐によって、信仰が揺さぶられ、不信仰が露わにされたのです。そのとき、もう一つの畏れが支配し始めます。「いったい、この方はどなたなのだろう」。そこに立っておられるイエスこそ、救い主キリストであることを悟ります。突風や苦難が良いわけではありませんが、不信仰な私たちに必要なことでした。罪をゆるす権威を持つ方は、自然の力に対しても主権者なのです。私たちはイエスさまと共に、突風を突き抜けながら守られています。嵐に対する恐怖の叫びは、ついに嵐を静める方への賛美となりました。

 

 

  2月18日

「助け手であるイエスさま」  武 公子牧師

マルコによる福音書5章21~24、35~43節

 

 今イエスさまの前に、なりふりかまわず身を投げ出して、死にそうな娘を助けてくださいと必死に訴えている人がいます。会堂長のヤイロです。大切なものを失うことに怯えている人の姿です。イエスさまはヤイロと共に出かけますが、途中で娘の死の知らせを受けます。絶望のふちに立つヤイロに向かって、イエスさまは言われました。「恐れることはない。ただ信じなさい」。主にあっては、死は決して最後ではありません。イエスさまが世に来られたのは、私たちを罪と死から救うためでした。罪の結果が死でありますから、本来、私たちが受けるべき神の裁きをイエスさまが代わって受けてくださいました。イエスさまの十字架の死によって、完全に死は滅ぼされたのです。イエスさまは死に勝利されました。それは私たちが新しい命を受けていつまでも生きるためです。イエスさまが来られたとき、死はその力を失って、眠りとなりました。イエスさまが少女の手をとって「タリタ、クム(少女よ、起きなさい)」と言わると、少女はイエスさまのやさしい声を聞いて起きあがり、歩き出しました。私たちのイエスさまはどんなときでも、死からさえも私たちを助け出すことがおできになります。

 

 

 2月25日

「悪霊と聖霊」  武 公子牧師

エレミヤ書2章1~13節

マルコによる福音書3章20~30節

 

 イエスさまが悪霊を追い出していると、律法学者たちが「あの男はベルゼブルに取りつかれている」とか「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と悪口を言いました。イエスさまは「神の霊」(マタイによる福音書12:28)で悪霊を追い出したのです。イエスさまは悪魔の力を滅ぼすために世に来られました。そして悪魔の誘惑に勝利して下さいました。もし人間が悪魔に狙われて誘惑されたらいちころです。それほど悪魔の力は強いのです。悪魔の誘惑に勝つためには、第一にしっかりとイエスさまを信じていることです。次に御言葉をたくさん覚えることです。それを使って悪魔を撃退します。最後にたえず祈ることです。悪魔はお祈りしている人に弱いのです。私たちが犯すどんな罪も赦されますが、聖霊の悪口を言う者は永遠に赦されません。なぜなら、聖霊を否定してしまえば、イエスさまがだれなのかわからないからです。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」(コリントの信徒への手紙一12章3節)。イエスさまがもっとよく分かるように聖霊をくださいと祈りましょう。

 

2018年1月

 1月7日

「父の家で」  武 公子牧師

ゼカリヤ書8章1~8節

ルカによる福音書2章41~52節

 

イエスが12歳になったとき、両親はイエスを連れてエルサレムに上りました。過越祭が終わって、イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づきませんでした。帰りの道で両親はイエスがいないことに気づきました。巡礼団一行の中にイエスがいると思い込んでいたのです。イエスを捜すために、両親はすぐにエルサレムに引き返しました。

私たちもイエスがいつも共におられると思い込んでいますが、ある日ふとイエスがいなくなっている生活に気づきます。自分中心の生活が、いつの間にかイエスを締め出していたのです。イエスのいない生活に気づいたら、どこにイエスを捜しに行ったらよいでしょうか。マリアとヨセフが、すぐにエルサレムに引き返したように、私たちもすぐに主イエスのおられるところに引き返しましょう。私たちがイエスを捜すために引き返すところは、御言葉の中にです。あるいは礼拝の中にです。あるいは主にある兄弟姉妹の交わりの中にです。「主はこう言われる。わたしは再びシオンに来て エルサレムの真ん中に住まう。エルサレムは信頼に値する都と呼ばれ 万軍の主の山は聖なる山と呼ばれる」(ゼカリヤ8章3節)。そこに主イエスはおられます。ぜひ私たちの教会に来て見てください 

 

 

 1月14日

「あなたはわたしの愛する子」  武 公子牧師

出エジプト記14章15~22節

マルコによる福音書1章9~11節

 

なぜイエスさまは、バプテスマのヨハネから罪のゆるしを得させる洗礼を受けられたのでしょう。神の子ならそんなことをなさらなくてもよいはずです。なぜなら、イエスさまは、誕生の初めから私たち人間とまったく同じ道を歩もうとされました。そして罪人の一人に数えられました。そのご生涯は、十字架にはりつけにされ、強盗たちといっしょにされたのです。それは最後まで私たちの罪を背負ってくださった神さまの深い愛の御心の現れでした。イエスさまが宣教の初めに、ヨルダン川に身を沈められたのは、私たちを救うためにご自分に死ぬためでした。イエスさまが水から上がると、天が裂けて、聖霊が降りました。そして天からの御声がありました。

神の介入による、最終的な啓示が始まったのです。悪が支配する世が終わり、神の支配が隅々にまで行く新しい世界が到来したのです。最終的な決定的な始まりです。イエスさまは洗礼をお受けになったときから、父なる神の御意志に従う決意をもってその生涯を始められました。洗礼は私たちにとっても、イエスさまに従う信仰生活のスタートラインです。終わりの日に、私たちが天に迎えられたとき、父なる神さまから「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」とのお言葉をいただくそのときが、私たちキリスト者のゴールです。

 

 

 1月21日

「神の子であるイエスさま」  武 公子牧師

ヨハネによる福音書3章16節

 

 私たち人間の罪のために、神さまとの間に生じてしまった深いみぞを埋めるために、父なる神さまは独り子を世にお遣わしになりました。神の子であるイエスさまは、私たち人間とまったく同じものになられました。私たちの身代わりとなって、その身を十字架につけて神の呪いと裁きを受けてくださいました。御子の流された血によって、私たちは神さまと仲直りをすることができました。イエスさまは十字架につく前にゲッセマネの園でこう祈りました。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコによる福音書14章36節)。全能の父なる神はついに独り子を十字架から降ろすことはしませんでした。イエスさまは、十字架の死にいたるまで、父なる神のご意志に従いました。これによって神の救いのみ業が完成され、父なる神によってキリストの名は高く上げられました。私たちキリスト者は、ただ神さまの恵みによって洗礼に与かり、イエスさまに結ばれて「神の子」となりました。

 

 

 1月28日

「耳ある者は聞きなさい」  武 公子牧師

箴言2章1~9節

マルコによる福音書4章1~9節

 

 

 「神はすべての人の心に宗教の種を蒔いてくださった」と言います。しかし、そうであれば、すべての人が宗教を信じるようになってもよいはずですが、そうはなりません。なぜなら蒔かれた種がすべて芽を出すとは限らないからです。「種を蒔く人」のたとえには、4つの土地が出てきます。私たちが御言葉を聞く態度です。「種を蒔く人」とはイエスさまで、「種」は御言葉です。「道端」に落ちた種は、すぐに鳥が来て食べてしまった。芽が出る前にサタンに持っていかれてしまいます。理解しようとしないからです。「石だらけ」の土地に落ちた種は、根がないために枯れてしまった。御言葉を喜んで受け入れるが、困難や迫害が起こるとすぐにつまずいてしまいます。「茨の中」に落ちた種は、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑やいろいろな欲望のため御言葉をふさいでしまいます。「良い土地」に蒔かれた種は、芽生え、育ち、豊かな実を結びます。御言葉を聞いて受け入れる人たちです。「良い土地」とは、石も茨も余計なものは何もない、ただ土だけの土地です。素直に耳を開き、御言葉を聞き、イエスさまを受け入れる者は、豊かな実を結びます。聞く耳を持っている者は、いよいよ豊かになり、聞く耳を持っていない者は、取り上げられるのです。イエスさまは私たちを一つの決断に立たせてくださいます。