2018年2月

 2月4日

「父の家で」  武 公子牧師

列王記下4章30~37節

マルコによる福音書2章1~12節

 

 イエスさまが「あなたの罪は赦される」と言うのと、中風の人に「起きて、床を担いで歩け」と言うのと、どちらが易しいとあなたは思いますか。もし「罪の赦し」と思うなら、あなたは「罪」を手軽に考えているのです。イエスさまにとっては、目に見える「体の癒し」の方がずっと易しいのです。なぜなら、イエスさまは血の代価を支払って、私たちを罪と死の奴隷から買い戻して下さいました。全存在をあげて、主は私たちを救ってくださったのですから、私たちもまた全存在をかけて主の言葉を聞きとらなければなりません。御子を十字架につけるという難しい奇跡をなさる神が、どうして易しいほうの奇跡をなさらないはずがあるでしょうか。私たちは主によって罪から解放されたのです。地上でいっさいの権威を授けられているイエスに、私たちのすべてを委ねるなら、そのお方が大丈夫と言ってくださいます。目の前の体の癒しだけに囚われて、それだけがすべてと思っているうちは、このお方を忘れているのです。イエスさまは「十字架の主」を知らせるために、そして地上で「罪を赦す」権威を与えられている「しるし」として、皆が難しいと思っているほうの奇跡を行いました。私たちは、今こそ神を見上げます。

 

 

 2月11日

「風や湖さえも従う方」  武 公子牧師

ヨナ書1章1節~2章1節

マルコによる福音書4章35~41節

 

 教会はよく舟にたとえられます。この舟にはいろいろな課題を抱えて生きている私たちが乗っています。そしてすべての解決者である主イエスも乗っておられます。イエスさまのご意志で出発した舟だから、決して波も風も立たないということではありません。人生において計画通りいかないことがあります。しかしそのことが、私たちにとって必要なことがあります。穏やかで順調な時は、イエスさまが共におられることを忘れます。順風満帆のときはイエスさまは必要ないとさえ考えます。その時激しい突風が起こり、弟子たちは慌てふためきました。しかし、イエスの一声でたちまち嵐は静まりました。嵐によって、信仰が揺さぶられ、不信仰が露わにされたのです。そのとき、もう一つの畏れが支配し始めます。「いったい、この方はどなたなのだろう」。そこに立っておられるイエスこそ、救い主キリストであることを悟ります。突風や苦難が良いわけではありませんが、不信仰な私たちに必要なことでした。罪をゆるす権威を持つ方は、自然の力に対しても主権者なのです。私たちはイエスさまと共に、突風を突き抜けながら守られています。嵐に対する恐怖の叫びは、ついに嵐を静める方への賛美となりました。

 

2018年1月

 1月7日

「父の家で」  武 公子牧師

ゼカリヤ書8章1~8節

ルカによる福音書2章41~52節

 

イエスが12歳になったとき、両親はイエスを連れてエルサレムに上りました。過越祭が終わって、イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づきませんでした。帰りの道で両親はイエスがいないことに気づきました。巡礼団一行の中にイエスがいると思い込んでいたのです。イエスを捜すために、両親はすぐにエルサレムに引き返しました。

私たちもイエスがいつも共におられると思い込んでいますが、ある日ふとイエスがいなくなっている生活に気づきます。自分中心の生活が、いつの間にかイエスを締め出していたのです。イエスのいない生活に気づいたら、どこにイエスを捜しに行ったらよいでしょうか。マリアとヨセフが、すぐにエルサレムに引き返したように、私たちもすぐに主イエスのおられるところに引き返しましょう。私たちがイエスを捜すために引き返すところは、御言葉の中にです。あるいは礼拝の中にです。あるいは主にある兄弟姉妹の交わりの中にです。「主はこう言われる。わたしは再びシオンに来て エルサレムの真ん中に住まう。エルサレムは信頼に値する都と呼ばれ 万軍の主の山は聖なる山と呼ばれる」(ゼカリヤ8章3節)。そこに主イエスはおられます。ぜひ私たちの教会に来て見てください 

 

 

 1月14日

「あなたはわたしの愛する子」  武 公子牧師

出エジプト記14章15~22節

マルコによる福音書1章9~11節

 

なぜイエスさまは、バプテスマのヨハネから罪のゆるしを得させる洗礼を受けられたのでしょう。神の子ならそんなことをなさらなくてもよいはずです。なぜなら、イエスさまは、誕生の初めから私たち人間とまったく同じ道を歩もうとされました。そして罪人の一人に数えられました。そのご生涯は、十字架にはりつけにされ、強盗たちといっしょにされたのです。それは最後まで私たちの罪を背負ってくださった神さまの深い愛の御心の現れでした。イエスさまが宣教の初めに、ヨルダン川に身を沈められたのは、私たちを救うためにご自分に死ぬためでした。イエスさまが水から上がると、天が裂けて、聖霊が降りました。そして天からの御声がありました。

神の介入による、最終的な啓示が始まったのです。悪が支配する世が終わり、神の支配が隅々にまで行く新しい世界が到来したのです。最終的な決定的な始まりです。イエスさまは洗礼をお受けになったときから、父なる神の御意志に従う決意をもってその生涯を始められました。洗礼は私たちにとっても、イエスさまに従う信仰生活のスタートラインです。終わりの日に、私たちが天に迎えられたとき、父なる神さまから「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」とのお言葉をいただくそのときが、私たちキリスト者のゴールです。

 

 

 1月21日

「神の子であるイエスさま」  武 公子牧師

ヨハネによる福音書3章16節

 

 私たち人間の罪のために、神さまとの間に生じてしまった深いみぞを埋めるために、父なる神さまは独り子を世にお遣わしになりました。神の子であるイエスさまは、私たち人間とまったく同じものになられました。私たちの身代わりとなって、その身を十字架につけて神の呪いと裁きを受けてくださいました。御子の流された血によって、私たちは神さまと仲直りをすることができました。イエスさまは十字架につく前にゲッセマネの園でこう祈りました。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコによる福音書14章36節)。全能の父なる神はついに独り子を十字架から降ろすことはしませんでした。イエスさまは、十字架の死にいたるまで、父なる神のご意志に従いました。これによって神の救いのみ業が完成され、父なる神によってキリストの名は高く上げられました。私たちキリスト者は、ただ神さまの恵みによって洗礼に与かり、イエスさまに結ばれて「神の子」となりました。

 

 

 1月28日

「耳ある者は聞きなさい」  武 公子牧師

箴言2章1~9節

マルコによる福音書4章1~9節

 

 

 「神はすべての人の心に宗教の種を蒔いてくださった」と言います。しかし、そうであれば、すべての人が宗教を信じるようになってもよいはずですが、そうはなりません。なぜなら蒔かれた種がすべて芽を出すとは限らないからです。「種を蒔く人」のたとえには、4つの土地が出てきます。私たちが御言葉を聞く態度です。「種を蒔く人」とはイエスさまで、「種」は御言葉です。「道端」に落ちた種は、すぐに鳥が来て食べてしまった。芽が出る前にサタンに持っていかれてしまいます。理解しようとしないからです。「石だらけ」の土地に落ちた種は、根がないために枯れてしまった。御言葉を喜んで受け入れるが、困難や迫害が起こるとすぐにつまずいてしまいます。「茨の中」に落ちた種は、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑やいろいろな欲望のため御言葉をふさいでしまいます。「良い土地」に蒔かれた種は、芽生え、育ち、豊かな実を結びます。御言葉を聞いて受け入れる人たちです。「良い土地」とは、石も茨も余計なものは何もない、ただ土だけの土地です。素直に耳を開き、御言葉を聞き、イエスさまを受け入れる者は、豊かな実を結びます。聞く耳を持っている者は、いよいよ豊かになり、聞く耳を持っていない者は、取り上げられるのです。イエスさまは私たちを一つの決断に立たせてくださいます。