2018年4月

 4月1日

「主は死に勝たれた。ハレルヤ」  武 公子牧師

出エジプト記14章15~22節

マルコによる福音書16章1~8節

 

 死は、すべての人に例外なくやってまいります。死は人生の終りであって、その先はありません。しかし、このような私たちの常識や固定観念を破るように、驚くべき出来事が天の使いによって告げられました。「あの方は復活なさって、ここにはおられない」。イエス・キリストは死に勝利して、復活されました。主イエスにとって死は終わりでなく、新しい命の始まりです。「球根の中には 花が秘められ、さなぎの中から いのちはばたく」(讃美歌21-575番)ように、私たちもキリストにあるならば、命の終りは 命の始まりなのです。天の使いの言葉は、婦人たちにとってあまりにも衝撃的でした。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(マルコ16:8)。そこで突然終わっています。しかし、彼女たちの沈黙の深さは、むしろ主の復活の真実を物語っています。やがて婦人たちの沈黙が破られる時が来るでしょう。そのとき彼女たちは主の復活を取り次ぐ者とされます。イースターは単なる奇跡物語ではなく、終わりが、新しい始まりを示す出来事なのです

 

 

 4月8日

「見ないで信ずる人は幸い」  武 公子牧師

民数記13章1、2、25~33節

ヨハネによる福音書20章19~31節

 

 「わたしたちは主を見た」と他の弟子たちが言ったとき、トマスは信じなかった。「わたしは自分の目で見、自分の手で触れなければ絶対信じない。」そのトマスに復活の主は現れて、ご自身の手の釘跡やわき腹の傷を示された。復活の主を見たトマスは「わたしの主よ、わたしの神よ」とひれ伏した。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と主は言われた。トマスは懐疑主義者とか実証主義者とか言われる。しかし彼だけが特に疑い深かったのだろうか。マグダラのマリアにしても他の弟子たちにしても、復活の主を見て目撃者となり証人とされたのである。2000年前、地上を歩まれたイエスを、私たちが目撃することは有り得ない。するとトマスに言われた主の言葉は、同時に私たちにも語られているのである。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」(ペトロの手紙一1:8)。私たちはただ目撃証人の証言によって「見ないのに信じる者」とされています。時空を超えてそのような不思議なことが、私たちの身に起こっていることはなんと幸いなことでしょう。

 

 

 4月15

「復活されたイエスさま」  武 公子牧師

ルカによる福音書24章34~43節

 

人間は死んだらどこへ行くのでしょか。それとも灰になってこの私はすっかり消えてなくなってしまうのでしょうか。聖書は言います。「塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る」(コヘレトの言葉12:7)。土の塵で形づくられた人は、その

 

鼻に命の息を吹き込まれて、生きる者となりました。神の息は霊であり、命であり、魂のことです。魂とは考えたり、喜んだり、悲しんだり、愛したりするこの私全部です。イエスさまは「むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイによる福音書10:28)と言われました。しかし、人間を創られた神は、誰の死をも喜ばれません。正義と愛の神は私たちを救うために御子をこの世に遣わしてくださいました。死は罪の結果ですが、イエスさまの死は私たちの罪の身代わりとなられた死です。イエスさまは何一つ罪がないゆえに、復活することができたのです。神はイエス・キリストの贖いのゆえに、私たちを罪のない神の子としてくださいました。復活されたイエスを、私の救い主と信じる者は、キリストに結ばれて決して死ぬことはありません。死んでも、生きるのです。

 

2018年3月

 3月4日

「神の思いと人間の思い」  武 公子牧師

イザヤ書48章1~8節

マルコによる福音書8章27~33節

 

 サタンは十字架の道を遮断することで、神の国は実現しないことをよく知っています。イエスさまの前に立ちはだかって、十字架の道を阻止しようとするペトロを、イエスさまは「サタン」と呼んで叱りつけます。ペトロが期待していたメシアは、地上の勝利者でした。神の思いではなく、人間の思いを優先させるペトロは、「サタン」に過ぎません。私たちはイエスの前に立つのでなく、後に従って十字架の道を歩むべきです。ですからイエスさまは、「サタン、引き下がれ」と言われたのです。それは「サタン、私の後ろに回れ。私の前に立って、私の行くべき道を妨げてはならない」ということです。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(8:34)とイエスさまは言われました。十字架とは人間の思いとかけ離れた「神の思い」のことです。イエスさまは、神の思いに従って十字架を負いました。私たちの教会も十字架を負ってイエスさまの後に従います。

 

 3月11日

「恐れと喜び」  武 公子牧師

出エジプト記24章12~18節

マルコによる福音書9章2~10節

 

 山上でイエスさまのみ姿が変わり、この世のものとは思えない輝きを放ちました。旧約聖書を代表するモーセとエリヤが現れてイエスさまと語り合っています。ペトロはいつまでもこのすばらしい栄光を留めておきたくて仮小屋を建てることを提案します。しかし、地上に神の栄光を固定して留めておくことはできません。ペトロの提案は退けられました。山上は恐れに支配されていました。私たちの礼拝にも畏れがあります。しかし、それ以上に大きな喜びがあります。イエスさまの輝くみ姿は、やがて私たちの上に現される栄光の姿です。さて、山上ではモーセもエリヤもいなくなり、天上の輝きも消えました。ただイエスさまだけがおられました。それで十分です。輝く白い服も着ておられません。弟子たちはイエスさまと共に山を下りて行きます。私たちも栄光の礼拝が終わり、この世へと出かけて行きます。イエスさまは私たちと共にいてくださいます。

 

 3月18日

「救い主であるイエスさま」  武 公子牧師

マタイによる福音書26章36~46節

 

 イエスさまは、ゲツセマネの園でうつ伏せになって「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈りました。この「杯」とは、神から遠く離れて生きようとする私たち人間の罪に対する「神の怒り」です。その罪の重さゆえにイエスさまは死ぬばかりに悲しいのです。「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」(ルカによる福音書22:44)。イエスさまが祈っている間、三人の弟子たちは眠りこんでいました。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」と決心して、立ち上がりました。そこへ裏切る者が手引きして、敵が大勢やって来ます。イエスさまは逃げようとすれば逃げられます。そして十字架から降りようとすれば降りられます。しかし、そうなさいませんでした。イエスさまが逃げたり、十字架から降りたりしたら、神の救いのご計画は実現されませんでした。十字架の死に至るまで、御心のままに従ったイエスさまは、ついに十字架で勝利してくださいました。

 

 3月25日

「わが神、わが神」  武 公子牧師

ゼカリヤ9章9~10節

マルコによる福音書15章25~41節

 

 昼の12時になると全地は暗くなりました。光として世に来られた主イエスを、世は受け入れませんでした。まことの光を締め出した世界は、まさに真昼の暗黒です。自然の光も一時隠されました。黒一色の世界、十字架の前にすべての人間は、例外なく罪人として立たされます。暗闇は神の裁きの象徴です。あれほど信頼していた神が、今、遠く離れて沈黙しておられる。イエスは神に全く捨てられたのです。しかし、ここでは逆さまなことが起こっているのです。全く罪のない神の子が、神の裁きを受けて、神に捨てられた者となりました。そして捨てられて当然の私たち罪人が、罪のない者とされたのです。この逆さまなことが起こったのが十字架の出来事です。イエスが息を引き取られたとき、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けました。沈黙されていた神が応答されたのです。イエスの死によって、神と人とを隔てていた至聖所の幕が取り去られ、私たちは直接神に近づく生きた道が開かれたのです。

 

2018年2月

 2月4日

「父の家で」  武 公子牧師

列王記下4章30~37節

マルコによる福音書2章1~12節

 

 イエスさまが「あなたの罪は赦される」と言うのと、中風の人に「起きて、床を担いで歩け」と言うのと、どちらが易しいとあなたは思いますか。もし「罪の赦し」と思うなら、あなたは「罪」を手軽に考えているのです。イエスさまにとっては、目に見える「体の癒し」の方がずっと易しいのです。なぜなら、イエスさまは血の代価を支払って、私たちを罪と死の奴隷から買い戻して下さいました。全存在をあげて、主は私たちを救ってくださったのですから、私たちもまた全存在をかけて主の言葉を聞きとらなければなりません。御子を十字架につけるという難しい奇跡をなさる神が、どうして易しいほうの奇跡をなさらないはずがあるでしょうか。私たちは主によって罪から解放されたのです。地上でいっさいの権威を授けられているイエスに、私たちのすべてを委ねるなら、そのお方が大丈夫と言ってくださいます。目の前の体の癒しだけに囚われて、それだけがすべてと思っているうちは、このお方を忘れているのです。イエスさまは「十字架の主」を知らせるために、そして地上で「罪を赦す」権威を与えられている「しるし」として、皆が難しいと思っているほうの奇跡を行いました。私たちは、今こそ神を見上げます。

 

 

 2月11日

「風や湖さえも従う方」  武 公子牧師

ヨナ書1章1節~2章1節

マルコによる福音書4章35~41節

 

 教会はよく舟にたとえられます。この舟にはいろいろな課題を抱えて生きている私たちが乗っています。そしてすべての解決者である主イエスも乗っておられます。イエスさまのご意志で出発した舟だから、決して波も風も立たないということではありません。人生において計画通りいかないことがあります。しかしそのことが、私たちにとって必要なことがあります。穏やかで順調な時は、イエスさまが共におられることを忘れます。順風満帆のときはイエスさまは必要ないとさえ考えます。その時激しい突風が起こり、弟子たちは慌てふためきました。しかし、イエスの一声でたちまち嵐は静まりました。嵐によって、信仰が揺さぶられ、不信仰が露わにされたのです。そのとき、もう一つの畏れが支配し始めます。「いったい、この方はどなたなのだろう」。そこに立っておられるイエスこそ、救い主キリストであることを悟ります。突風や苦難が良いわけではありませんが、不信仰な私たちに必要なことでした。罪をゆるす権威を持つ方は、自然の力に対しても主権者なのです。私たちはイエスさまと共に、突風を突き抜けながら守られています。嵐に対する恐怖の叫びは、ついに嵐を静める方への賛美となりました。

 

 

  2月18日

「助け手であるイエスさま」  武 公子牧師

マルコによる福音書5章21~24、35~43節

 

 今イエスさまの前に、なりふりかまわず身を投げ出して、死にそうな娘を助けてくださいと必死に訴えている人がいます。会堂長のヤイロです。大切なものを失うことに怯えている人の姿です。イエスさまはヤイロと共に出かけますが、途中で娘の死の知らせを受けます。絶望のふちに立つヤイロに向かって、イエスさまは言われました。「恐れることはない。ただ信じなさい」。主にあっては、死は決して最後ではありません。イエスさまが世に来られたのは、私たちを罪と死から救うためでした。罪の結果が死でありますから、本来、私たちが受けるべき神の裁きをイエスさまが代わって受けてくださいました。イエスさまの十字架の死によって、完全に死は滅ぼされたのです。イエスさまは死に勝利されました。それは私たちが新しい命を受けていつまでも生きるためです。イエスさまが来られたとき、死はその力を失って、眠りとなりました。イエスさまが少女の手をとって「タリタ、クム(少女よ、起きなさい)」と言わると、少女はイエスさまのやさしい声を聞いて起きあがり、歩き出しました。私たちのイエスさまはどんなときでも、死からさえも私たちを助け出すことがおできになります。

 

 

 2月25日

「悪霊と聖霊」  武 公子牧師

エレミヤ書2章1~13節

マルコによる福音書3章20~30節

 

 イエスさまが悪霊を追い出していると、律法学者たちが「あの男はベルゼブルに取りつかれている」とか「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と悪口を言いました。イエスさまは「神の霊」(マタイによる福音書12:28)で悪霊を追い出したのです。イエスさまは悪魔の力を滅ぼすために世に来られました。そして悪魔の誘惑に勝利して下さいました。もし人間が悪魔に狙われて誘惑されたらいちころです。それほど悪魔の力は強いのです。悪魔の誘惑に勝つためには、第一にしっかりとイエスさまを信じていることです。次に御言葉をたくさん覚えることです。それを使って悪魔を撃退します。最後にたえず祈ることです。悪魔はお祈りしている人に弱いのです。私たちが犯すどんな罪も赦されますが、聖霊の悪口を言う者は永遠に赦されません。なぜなら、聖霊を否定してしまえば、イエスさまがだれなのかわからないからです。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」(コリントの信徒への手紙一12章3節)。イエスさまがもっとよく分かるように聖霊をくださいと祈りましょう。

 

2018年1月

 1月7日

「父の家で」  武 公子牧師

ゼカリヤ書8章1~8節

ルカによる福音書2章41~52節

 

イエスが12歳になったとき、両親はイエスを連れてエルサレムに上りました。過越祭が終わって、イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づきませんでした。帰りの道で両親はイエスがいないことに気づきました。巡礼団一行の中にイエスがいると思い込んでいたのです。イエスを捜すために、両親はすぐにエルサレムに引き返しました。

私たちもイエスがいつも共におられると思い込んでいますが、ある日ふとイエスがいなくなっている生活に気づきます。自分中心の生活が、いつの間にかイエスを締め出していたのです。イエスのいない生活に気づいたら、どこにイエスを捜しに行ったらよいでしょうか。マリアとヨセフが、すぐにエルサレムに引き返したように、私たちもすぐに主イエスのおられるところに引き返しましょう。私たちがイエスを捜すために引き返すところは、御言葉の中にです。あるいは礼拝の中にです。あるいは主にある兄弟姉妹の交わりの中にです。「主はこう言われる。わたしは再びシオンに来て エルサレムの真ん中に住まう。エルサレムは信頼に値する都と呼ばれ 万軍の主の山は聖なる山と呼ばれる」(ゼカリヤ8章3節)。そこに主イエスはおられます。ぜひ私たちの教会に来て見てください 

 

 

 1月14日

「あなたはわたしの愛する子」  武 公子牧師

出エジプト記14章15~22節

マルコによる福音書1章9~11節

 

なぜイエスさまは、バプテスマのヨハネから罪のゆるしを得させる洗礼を受けられたのでしょう。神の子ならそんなことをなさらなくてもよいはずです。なぜなら、イエスさまは、誕生の初めから私たち人間とまったく同じ道を歩もうとされました。そして罪人の一人に数えられました。そのご生涯は、十字架にはりつけにされ、強盗たちといっしょにされたのです。それは最後まで私たちの罪を背負ってくださった神さまの深い愛の御心の現れでした。イエスさまが宣教の初めに、ヨルダン川に身を沈められたのは、私たちを救うためにご自分に死ぬためでした。イエスさまが水から上がると、天が裂けて、聖霊が降りました。そして天からの御声がありました。

神の介入による、最終的な啓示が始まったのです。悪が支配する世が終わり、神の支配が隅々にまで行く新しい世界が到来したのです。最終的な決定的な始まりです。イエスさまは洗礼をお受けになったときから、父なる神の御意志に従う決意をもってその生涯を始められました。洗礼は私たちにとっても、イエスさまに従う信仰生活のスタートラインです。終わりの日に、私たちが天に迎えられたとき、父なる神さまから「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」とのお言葉をいただくそのときが、私たちキリスト者のゴールです。

 

 

 1月21日

「神の子であるイエスさま」  武 公子牧師

ヨハネによる福音書3章16節

 

 私たち人間の罪のために、神さまとの間に生じてしまった深いみぞを埋めるために、父なる神さまは独り子を世にお遣わしになりました。神の子であるイエスさまは、私たち人間とまったく同じものになられました。私たちの身代わりとなって、その身を十字架につけて神の呪いと裁きを受けてくださいました。御子の流された血によって、私たちは神さまと仲直りをすることができました。イエスさまは十字架につく前にゲッセマネの園でこう祈りました。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコによる福音書14章36節)。全能の父なる神はついに独り子を十字架から降ろすことはしませんでした。イエスさまは、十字架の死にいたるまで、父なる神のご意志に従いました。これによって神の救いのみ業が完成され、父なる神によってキリストの名は高く上げられました。私たちキリスト者は、ただ神さまの恵みによって洗礼に与かり、イエスさまに結ばれて「神の子」となりました。

 

 

 1月28日

「耳ある者は聞きなさい」  武 公子牧師

箴言2章1~9節

マルコによる福音書4章1~9節

 

 

 「神はすべての人の心に宗教の種を蒔いてくださった」と言います。しかし、そうであれば、すべての人が宗教を信じるようになってもよいはずですが、そうはなりません。なぜなら蒔かれた種がすべて芽を出すとは限らないからです。「種を蒔く人」のたとえには、4つの土地が出てきます。私たちが御言葉を聞く態度です。「種を蒔く人」とはイエスさまで、「種」は御言葉です。「道端」に落ちた種は、すぐに鳥が来て食べてしまった。芽が出る前にサタンに持っていかれてしまいます。理解しようとしないからです。「石だらけ」の土地に落ちた種は、根がないために枯れてしまった。御言葉を喜んで受け入れるが、困難や迫害が起こるとすぐにつまずいてしまいます。「茨の中」に落ちた種は、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑やいろいろな欲望のため御言葉をふさいでしまいます。「良い土地」に蒔かれた種は、芽生え、育ち、豊かな実を結びます。御言葉を聞いて受け入れる人たちです。「良い土地」とは、石も茨も余計なものは何もない、ただ土だけの土地です。素直に耳を開き、御言葉を聞き、イエスさまを受け入れる者は、豊かな実を結びます。聞く耳を持っている者は、いよいよ豊かになり、聞く耳を持っていない者は、取り上げられるのです。イエスさまは私たちを一つの決断に立たせてくださいます。