2017年4月

 4月2日

「十字架の勝利」  武 公子牧師

創世記25章29~34節

マタイによる福音書20章20~28節

 

 イエスの三度目の「受難と復活」の告知の後で、ヤコブとヨハネの母は、王座に着いたとき、二人の息子をあなたの右と左に座らせてほしいと願い出ました。イエスは「あなたがたは、自分が何を願っているか、わかっていない」と言われました。彼らは「十字架なしの栄光」を求めたからです。イエスは王となって皆に仕えられるためではなく、僕となって皆に仕えるために、そして多くの人の罪のため、自分のいのちを献げるために世に来られました。そして地上ではいつも貧しい人たち、病気や悪霊に苦しむ人たち、罪人と呼ばれる人たちと共におられました。ですから、イエスの右と左に座るということは、イエスの十字架の右と左に着いたあの強盗たちのようになるということではないでしょうか。キリストの十字架の死によって、わたしたちの罪を贖うために、ついに神の救いの御業は成し遂げられました。父なる神は、十字架の死に至るまで従順であられたイエスを三日目に死人のうちよりよみがえらせ給いました。イエス・キリストの復活によって、十字架は勝利に輝いています。

 

 

 4月9日

「十字架への道」  武 公子牧師

哀歌5章15~22節

マタイによる福音書27章32~56節

 

 人々はイエスに「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」とののしりました。彼らにとって、十字架から降りられないのは、神の子でない証拠なのです。しかし、イエスは降りられないのではなく、降りないのです。十字架から降りないから神の子なのです。釘付けにされたまま、神に放置されたままのイエスは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫び、息を引き取られました。本来なら罪人のわたしたちが叫ぶべき、神から断絶された恐怖の叫びです。父なる神はついにイエスを十字架から降ろしませんでした。しかし、神に投げかけられたイエスの「なぜ」は、神の沈黙の背後に、まだ見えない神の隠された計画が必ずあると信じたからです。神に背き、滅びて当然のわたしたちを見捨てることが出来ず、神は独り子を十字架につけるという仕方でわたしたちに対する無限の神の愛を示してくださいました。十字架の「愚かさ」(Ⅰコリント118)は、救いの御業が完全に成就した「愛」の勝利の宣言なのです。

 

 

 4月16日

「キリストの復活」  武 公子牧師

エゼキエル書36章25~28節

マタイによる福音書28章1~10節

 

 お墓は人生の終着駅であるとか、死んだら灰になるだけだなどと言われます。そのように地上の命がすべてであると考えるところでは、「明日はどうせ死ぬ身ではないか。食べたり飲んだりしようではないか」と享楽的になるか、あるいは「あくせく働くだけなら、生きていることにどれほどの価値があるだろうか」と虚無的にならないでしょうか。そこでは「命」が「死」に飲み込まれてしまいますが、キリスト者の場合は違います。「命」が「死」を飲み込んでしまうのです。「洗礼」によってキリストに結ばれた者は、すでに「永遠の命」を生きています。そして終わりの日の「復活」の希望を与えられて、「眠り」につきます。ですからキリスト者は「死」で終わりません。「死」はキリストの復活によって打ち破られたのです。わたしの死を死んでくださったキリストの愛は、ついに「墓」を越えて「復活」にまで達しました。キリストは本当に復活されました。そして眠りについた人たちの「初穂」となられました。信仰とはキリストに起こったことは、このわたしの上にも起こるということを信じることなのです。

 

2017年3月

 3月5日

「荒れ野の誘惑」  武 公子牧師

申命記30章15~20節

マタイによる福音書4章1~11節

 

イエスは悪魔から誘惑を受けるために神の霊に導かれて荒れ野に行きました。40日の断食の後、悪魔の誘惑を受けます。最初の試みは、パンの問題です。人間が生きるためにパンは必要ですが、「霊の食べ物」も必要です。イエスは神の力を自分のために利用しません。次に悪魔は「神の子なら」と言って、イエスを試みます。神の栄光を現すのは、人々をあっと言わせることでなく、神の思いに従う十字架の道です。最後に悪魔は、世の繁栄を見せて、もしひれ伏して自分を拝むならすべてを与えようと誘います。イエスはみ言葉をもって悪魔を撃退します。すると天使たちが来てイエスに仕えました。「誘惑」も「試練」も同じ苦しみの中で生じます。「誘惑」は、私たちを神から切り離すために働く力です。「試練」は、私たちをさらに高い所へと引き上げるために働く力です。では「誘惑」を「試練」に変えるには、どうしたら良いのでしょうか。イエスは三度の誘惑に対して、旧約聖書のみ言葉をもって悪魔の誘惑に打ち勝ちました。神の言葉に徹した服従こそ、誘惑を試練に変える勝利の道です。 

 

 

 3月12日

「悪と戦うキリスト」  武 公子牧師

イザヤ書35章1~10節

マタイによる福音書12章22~32節

 

イエスさまが悪霊に取りつかれて目が見えず、口の利けない人をいやされると人々はみな驚きました。しかし、ファリサイ派の人々は認めようとはしません。イエスは悪霊の頭ベルゼブルの力で、悪霊を追い出しているのだと言います。しかし、悪霊同士で戦えばどんな町でも家でも内輪もめになります。イエスさまは、神の霊すなわち「聖霊」によってサタンを追い出されます。まず、その家に入って、「強い人」すなわちサタンを縛り上げて、「家財道具」すなわちサタンに捕えられていた人々を取り戻されます。イエスさまの行う悪霊追放は、「神の国」の到来のしるしです。私たちはこの事実から出発しましょう。イエスさまに言い逆らうことも、神を汚す言葉も、あるいは赦されるでしょう。しかし、「聖霊」を、悪く言う者は赦されません。なぜなら、「聖霊によらなければ、だれも『イエは主である』とは言えないのです」(コリントⅠ12章3節)。私たちもイエスさまのことがよくわかるように「聖霊」をお与えくださいと祈りましょう。

 

 

 3月19日

「受難の予告」  武 公子牧師

ヨブ記1章1~12節

マタイによる福音書16章13~28

 

ペトロが信仰を言い表したとき、イエスは祝福して「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と宣言されました。そして天の国の「鍵」をペトロに授け、神の国に関する「全権」お委ねになりました。しかし、ペトロはイエスから「受難の予告」を打ち明けられると、「とんでもない」と言って、イエスをいさめました。するとイエスは「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と叱りました。サタンとは、神の道を行かせないように邪魔する力です。ペトロはイエスの十字架への道をはばむ存在となりました。ペトロにイエスが命じた「サタン、引き下がれ」とは、「わたしの後に立て」です。キリスト者はいつでもイエスの後に立つべき存在です。人間的な善意が、神にとって必ずしも善いことなのではありません。「自分を捨て、自分の十字架を背負う」とは、自分の思いを否定して、神の思いを背負って、イエスの後に従うことです。そのとき、神への「いのちの道」が開かれます。

 

 

  3月26日

「主の変容」  武 公子牧師

出エジプト記24章3~11節

マタイによる福音書17章1~13節  

 

 イエスから「受難と復活」の予告を打ち明けられたとき、ペトロは栄光の主が殺されるはずはないとイエスを理解できませんでした。そのペトロと内輪の弟子たちだけを連れて、イエスは山に登られました。すると彼らの目の前で、イエスの姿が変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなりました。復活のイエスの栄光の姿、さらにモーセとエリヤが現れてイエスと語り合っているではありませんか。ペトロはもう夢中になって、これらを地上に留めておこうと仮小屋を建てることを提案します。しかし、それは取り上げられず、彼らは雲に覆われてしまいます。「主の変容」の出来事は、弟子たちが苦難を直視し、十字架を負うことによって、救い主の栄光へと通じることを、具体的にイエスはお教えになったのです。苦難だけが大写しになると、復活の輝きを忘れてしまいます。また暗い面しか見ようとしないことも、明るい面しか見ようとしないことも、どちらもイエスの本当の姿を見ようとしない不信仰から来ます。わたしたちが生きて、信じて、約束を与えられているのはこの地上です。キリスト者は、地上を直視しつつ、天からの声に聞き従う、この二つに生きる者です。

 

 

2017年2月

 2月5日

「たとえで語るキリスト」  武 公子牧師

  イザヤ書6章8~12節

  マタイによる福音書13章10~17節

 

 イエスさまは、しばしば「たとえ」でお語りになりました。「たとえ」で語る目的は、だれでもよくわかるためですが、もう一つは「天の国の秘密」を悟らせないためです。イエスさまは弟子たちに、「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである」と言われました。み言葉を受け入れるかどうか、み言葉に心が開かれているかどうか、ただその違いは、わたしたちの側の態度にかかっています。しかし、神の言葉を悟ることが許されないのは、神さまに聞こうとしないかたくななイスラエルの民に下された罰でもあったのです。同じようにイエスさまに対して心をかたくなに閉ざすユダヤの人々の上に、イザヤの言葉は実現しました。イエスさまの「たとえ」を聞いても、彼らは悟ることができません。むしろ「なぞ」として残ります。一方、弟子たちは「たとえ」を悟って、ますますイエスさまに結ばれて行きます。それは弟子たちの側の努力によるのではなく、ただ神さまの恵みによるのです。したがって、私たちも救いの言葉を聞く時には、「神さま、聖霊によって私たちの心を開いて下さい。」と聖霊の照らしを祈り求めます。

 

 

  2月12日

「教えるキリスト」  武 公子牧師

イザヤ書30章18~21節

マタイによる福音書5章17~20

 

新しいことを行う人は、破壊者に見られます。イエスさまが安息日に病気の人を癒されると、これを見たファリサイ派の人々は、「律法で許されているのですか」と問います。律法を本当の意味で完成したお方が、これまでの伝統や慣習や秩序にこだわる人々にとって、破壊者と映ったのは当然でしょう。しかし、律法主義から出て来るのは、良い行いの「誇り」と他人に対する「裁き」です。イエスさまは弟子たちに「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」と言われました。彼らにまさる義(神の前における正しさ)とは何でしょうか。それは人に見せる義ではなく、ただ見えないお方だけを信じて、隠れておられる神にだけ見られる義です。イエスさまが来られて、根本的に変わったのは、「良い行い」の意味です。イエス・キリストの福音によって、「良い行い」は、天の国に入るための条件、救われるための前提ではなくなりました。良い行いは自分を飾ったり、誇ったりします。良い行いからさえも罪が生じます。キリストの「十字架の愛」だけが良い行いの源なのです。そこから信仰によってキリストに結ばれた人は、感謝と喜びの実りが生まれてきます。

 

 

 2月19日

「いやすキリスト」  武 公子牧師

列王記下5章1~14節

マタイによる福音書15章21~31節

 

わたしたちは祈りが聞かれないとすぐにあきらめてしまわないでしょうか。主イエスは、私たちの祈りを聞いていないかのようにみえる時も、じっと聞いておられ、私たちの信仰を見ておられます。今、娘が悪霊にとりつかれ苦しんでいる母親がいます。彼女はどうしてあげることもできずに、ただ主の憐れみを信じて、体当たりでぶつかっていきます。そして主イエスの足もとにひれ伏したのです。しかし、イエスさまは外国の女の人までかまっていられないと言わんばかりに突き放されます。それは主ご自身が使命として何を先にしなくてはならないのか、このことが中心だからでした。しかし、そのように突き放されても、彼女は主イエスに近づきます。さらに拒絶されてもあきらめません。「主よ、ごもっともです。しかし・・・」と食い下がります。これほど拒絶されながら、イエスさまに繰り返し近づく人がいるでしょうか。なんと大きな信仰でしょう。彼女はイエスさまに大きな恵みを期待しました。その時、イエスさまはこの女の人の信仰をおほめになりました。大きな信仰とは、神を大きくする信仰です。頭の中だけに存在する神は、神を小さくする小さな信仰です。生きてダイナミックに行動される神に、私たちはもっと大きく期待して良いのではないでしょうか。

 

 

  2月26日

「奇跡を行うキリスト」  武 公子牧師

イザヤ書30章8~17節

マタイによる福音書14章22~36節

 

「奇跡」とは、単なる魔術や不思議な出来事ではありません。もはや自分で自分を助けることが出来ない者のところに、向こう側から来る助けです。人間のギリギリのところで、生ける神に出会う出来事です。嵐の海で、漕ぎ悩む弟子たちは行き場を失います。今、その舟に向かって、湖の上を歩いて来られる方がいます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。一体、世の中にそのように言ってくれる人がいるでしょうか。方法や知恵を教えてくれる人はいるでしょう。しかし、人格をもって、存在をあげて、「わたしだ」と言って現臨される方は他にいるでしょうか。イエス・キリストの「わたしだ」は、神の顕現を告げる言葉です。この生ける神に出会うことなしには、「信仰」とは何でしょうか。この神なしには単なる思想や観念にすぎないのではないでしょうか。ペトロは舟から出て、イエスの方に進みます。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みそうになります。半信半疑はいつも神と人間の間を行ったり来たりします。ペトロは沈むでしょう。私たちも沈むでしょう。しかし、イエス・キリストは沈みません。「主よ、助けてください」との祈りをもって、主に近づく者は、主の御手にしっかりと捕まえられます。

 

 

2017年1月

  1月1日

「エジプト逃避」  武 公子牧師

  エレミヤ書31章15~17節

  マタイによる福音書2章13~23節

 

 ヘロデ王は、新しい王の誕生を知って不安を抱きました。東方の占星術の学者たちは幼子の居場所を見つけましたが、ヘロデのもとに戻りませんでした。夢でお告げがあったからです。ヘロデは騙されたと知って怒りました。そして二歳以下の男の子を皆殺しにします。では幼子イエスのために、多くの子どもたちが犠牲になることは、神のご計画だったのでしょうか。そうではありません。人間は自分の立場を守るためには、このような残虐な行為をしかねないということです。主の天使は夢でヨセフに、子どもとその母親を連れて、エジプトに逃げるように告げます。ヨセフはすぐに従います。エジプトに逃避した聖家族、その中心は幼子イエスです。ヘロデが死ぬと、主の天使が再びヨセフに現れて、イスラエルの地に行くように告げます。ヨセフはすぐに従います。恐るべき人間の罪の只中でさえ、神のみ言葉が行われ、聖書のみ言葉が実現していきます。救い主イエスは、こうしてガリラヤの「ナザレの人」と呼ばれることになります。聖書の言葉は単に文字が並んでいるだけではありません。それが実現すると出来事となって私たちに生きた言葉となって語りかけます。新約聖書の時代に生きるわたしたちは、終わりの日の神の国の完成に向かって歩みます。天使の言葉に黙々と従って歩んだヨセフのように、わたしたちもみ言葉がどんなけわしい道も導かないはずはないと信じて進みます。 

 

 

 1月8日

「イエスの洗礼」  武 公子牧師

  サムエル記上16章1~13a節

  マタイによる福音書3章13~17節

 

 罪とは全く無縁の神の子イエスが、なぜ「罪のゆるし」のしるしである洗礼を受けなければならなかったのでしょうか。イエスは自発的にガリラヤから洗礼を受けるために、ヨルダン川のバプテスマのヨハネのもとにやって来ました。ヨハネは水で洗礼を授けますが、「聖霊と火」で洗礼を授ける「メシア」の到来を予告していました。ですからイエスがヨハネの前に現れた時、彼は強く断りました。「わたくしこそ、あなたから、洗礼を受けるべきです。」しかし、イエスはヨハネに「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」と言われました。「我々」とは、イエスとヨハネの二人が、「人々に対して」正しいことの模範を示すとも言えるでしょう。しかし、人となられた神の子は、今、罪人となって、わたしたちと一つになって洗礼を求めます。ですから「我々」とは、「すべての人」をさします。すべての人が、「神に対して」果たすべき正しいこと、それが洗礼なのです。イエスが洗礼を受けた時、天が開いて聖霊が降り、「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」という父なる神の声がありました。そのとき、世に遣わした「愛する子」に、父なる神の全権が委ねられました。すべての人を救うために父の計画に御子が従うから「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」なのです。イエスが十字架に上り、死に赴くに先立って、洗礼をうけることを、神が望まれるからです。罪の赦しを与える「洗礼」は、わたしたちすべての人間が、神に対して果たすべき正しいことなのです。

 

 

 1月15日

「最初の弟子たち」  武 公子牧師

  エゼキエル書2章1節~3章4節

  マタイによる福音書4章18~25節

 

 イエスさまの最初の弟子たちは4人の漁師たちでした。イエスさまは日常の生活の中で彼らを御覧になって、「わたしについて来なさい」と言われました。彼らは、網と舟と父を捨てて、すぐに従いました。「召命」とは、神に見られて、呼ばれることです。まず神からの働きかけが先にあります。私たちが決断してイエスさまに従って行くのではありません。イエスさまは御覧になって、「関わりを持つために」弟子たちをお選びになります。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」(ヨハネ1516)。私たちがキリスト者として召されたのは、偶然ではなく、神さまの永遠のご計画に根ざしています。ですからこの世のどんなことにもゆるぎません。そして神さまに根拠があるのですから、だれも誇れません。キリストに従うとは、同時に自分の一番大切なものを捨てることを意味します。キリストに従うために捨てなくてはならない最大のものは、「自分」です。イエスさまは「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ1624)と言われました。イエスさまはある意味で、わたしたちのすべてを求めておられます。神の思いに生きるために、人間の思いを捨て、イエスの後に従うのです。すべてを捨てさせた神は、すべてをお与えになることができる神です。信仰には、見積書も計算書もありません。私たちがイエスさまの後について行くのは、ただイエスさまに見られ、呼ばれてしまったからです。

 

 

  1月22日

「宣教の開始」  武 公子牧師

  イザヤ書8章23節b~9章3節

  マタイによる福音書4章12~17節

 

 「イエスは、ヨハネが捕えられたと聞き、ガリラヤに退かれた。」正しい人が捕まる暗い時代です。洗礼者ヨハネの時代が終わりを告げ、イエスは、公に活動する時が来たことを知り、「異邦人のガリラヤ」と呼ばれる辺境の地から宣教を開始しました。それは預言者イザヤの言葉が実現するためでした。イザヤの時代に起きたシリア・エフライム戦争で、人間の王に全く失望したイザヤは、神の遣わす王に期待して語ったのが、「メシア預言」です。イエスは、まさに「暗闇に住む民」の「大きな光」であり、「死の陰の地に住む者」に射し込んだ「光」でした。光は行くべき道を照らしますが、反対に世の闇や汚れを明るみにだします。ですから光の明るさに耐えられずに、闇の中に安住していたい人たちは光を憎みました。しかし、最も低い所に下った光は、世の貧しい者、弱い者、苦しみを受け虐げられている人、無力な人、希望もなく神なき者、そのような人たちにとってこそ、イエスはキリスト(メシア)となられました。「悔い改めよ。天の国は近づいた」。イエスの宣教の開始です。今、近づいて来られる神に向かって、私たちの現実の中に来られる生ける神に向かって変わるのです。私たちはあまりにも周辺のことにとらわれたり、余計なことを気にしすぎていないでしょうか。「悔い改め」とは、私たちの中心におられるお方に帰り、この中心に目が開かれることです。

 

 

 1月29日

「新しい神殿」  武 公子牧師

  創世記28章10節~22節

  マタイによる福音書21章12~16節

 

 イエスさまはエルサレム神殿の境内で、売り買いしている人々をご覧になり、「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている」と叱り、両替人の台や鳩を売る人の台を倒されました。むしろ幼子や乳飲み子の口によって神さまは真に賛美されます。「神殿」は、人間の罪の贖いのために、動物をいけにえとして献げる場所でした。すべての祭司たちは、繰り返し動物犠牲による祭儀を行ってきました。しかし「神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」(マルコ27)。まことの神であり、まことの人であるお方だけが、罪を赦す力をお持ちになります。イエス・キリストはただ一度、十字架の上で血を流して、神への完全な贖いの供えものとなられました。「神殿よりも偉大なものがここにある」(マタイ126)。主イエスの「神殿きよめ」は、あらかじめこのことを示すための象徴的な行為でした。十字架につけられたキリストは、三日目によみがえり、新しい主の神殿の基礎となりました。主の体である教会です。私たちの弱い体、年老いた体、罪に汚れた体をも、主イエスは血をもって買い取り、さらに「聖霊の宿る神殿」としてくださいました。なんという喜び、なんという高価な恵みでしょうか。