2017年8月

 8月6日

「憐れみの福音」  武 公子牧師

ホセア書6章1~6節

コリントの信徒への手紙Ⅱ5章14節~6章2節

 

 「和解する」とは「交換する」という意味ですが、神は私たちの罪と死をキリストの上に、キリストの義といのちを私たちの上に交換されました。人間に罪の責任を問うことなく、御子の上にすべての罪を負わせられたのです。こうして人間と神との関係は修復され、創造の秩序が回復されました。これが新しい創造です。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」(17節)。「今後だれをも肉に従って知ろうとはしません」とパウロは新しい出発の決意を語ります。「肉に従って」とは、自己中心の、自分にとらわれた見方です。この世の姿に関心を抱き、注目することです。戦争もまた肉に従って行動する、罪の力に覆われた人間の業です。肉を基準にしているうちは、人間の間に、優劣があり、上下があり、争いがあります。しかし、和解はキリストにおける神の業です。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました」(21節)。御子イエスが罪とされることを通して、それと交換に罪ある私たちがその罪を赦され、義とされ、神との和解を受ける道が開かれました。キリスト者は神の協力者として、和解の福音を宣べ伝えるよう招かれています。

 

 

 8月13日

「宣教の派遣」  武 公子牧師

ヨナ書3章1~5節

使徒言行録9章26~31節

 

サウロにとってダマスコは迫害の地でしたが、復活の主に出会い回心の地となり、さらに福音宣教の地へと変えられました。イエスこそ救い主であると宣べ伝えるサウロの変化に人々は驚きます。しかし弁解はしません。ただキリストを伝えて行くことだけが、誤解を乗り越えさせ、ますます力を得てゆく道だからです。自分のような者さえも、神はキリストの弟子として救ってくださったのだから、神の救いの御業はすべての罪人に及ぶはずです。そして人間がなしうることは、一方的な神の恵みをただ感謝して受け取ることだけであると悟りました。サウロはエルサレムに戻り、弟子の仲間に加わろうとしましたが、皆、サウロを恐れました。そこへバルナバが現れました。彼は聖霊と信仰に満ちた人で、「慰めの子」と呼ばれていました。人を偏りみず、思いやりをもって他者と関われる人でした。彼は皆から疑われているサウロを使徒たちに紹介して、導く暖かい人でした。こういう人が教会には必要でした。このようにいろいろな人々が助け合って、主の教会が形成されて行きました。 

 

2017年7月

 7月2日

「生涯のささげもの」  武 公子牧師

申命記26章1~11節

コリントの信徒への手紙Ⅱ8章1~15節

 

 マケドニアにある教会は、迫害を受けて極度の貧しさの中にありながらも、それ以上に飢饉のために苦しんでいるエルサレム教会を助けたいと願い出ました。苦しみを経験した者は、苦しみの中にある者を思いやることが出来るのです。貧しい者が思いがけないほど多くの献金を献げることがあります。無いから献げられないのではなく、信仰がないからです。彼らは神と隣人に自分自身を献げました。イエス・キリストは、私たちの罪のために、「あがないの供え物」となってくださいました。このキリストの「救いの恵み」に応答する者として、キリスト者は自分のからだを、すなわち全生活をキリストのために献げます。献げる行為を、パウロは「恵み」と呼びます。私たちが神からいただくものはすべて「恵み」ですが、キリストのために献げる行為もまた「恵み」です。彼らが「力以上に」献げたのは、人間の力を越えて神が働いたからです。信仰から来る喜びが、惜しまずに献げる豊さとなったのです。

 

 

  7月9日

「主の山に備えあり」  武 公子牧師

創世記22章6~14節

 

神はアブラハムに「あなたの独り息子、イサクを燔祭としてささげなさい」と命じた。神の約束によって与えられた最愛の息子である。神の理不尽な求めに、ついにアブラハムは神に聞き従った。息子は薪を背負い、アブラハムは火と刃物を持って、二人で黙って歩いて行った。「お父さん、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか」とイサクが問うと、アブラハムは「小羊はきっと神が備えてくださる」と答えた。神の命じた場所に着き、祭壇を築き、薪を並べ、イサクを縛ってその上に載せた。刃物を取り息子を屠ろうとした瞬間、御使いは言った。「アブラハム、アブラハム、その子に手を下すな。お前の信仰が、今、わかったからだ。自分の独り子すらわたしに献げることを惜しまなかった」。見ると木の茂みに一匹の雄羊が用意されていた。アブラハムは息子の代わりにその雄羊を燔祭の献げ物とした。人生には「なぜこのような苦しみが自分に起こるのか」という不条理なことが起こってくる。その時、それに打ち勝つ方法は、それが神から来た試練と受け入れることである。その時、神は試練と共に、必要な助けと救いの道をも備えていて下さるからだ。

 

 

 7月16日

「奇跡が示す神の国」  疋田 充伝道師(磐城教会)

詩編8編2~10節

ルカによる福音書11章14~20節

 

 イエス様は口の利けなくする悪霊を追い出しておられました。周りにいた群衆はその御業に驚きましたが、ファリサイ派や律法学者(マタイ・マルコの並行記事参照)は、その御業の権威を疑いました。イエス様の悪霊追い出しの御業を、悪霊の頭ベルゼブルからのものだ、と言うのです。実は彼らの仲間にも悪霊の追い出しを生業としている者たちがいました。彼らの仲間の業が、彼らの教えの権威にもなっていました。彼らは、イエス様の御業を批判し、自分たちの仲間の業の正当性を主張したのです。しかし、イエス様は、ベルゼブルを用いた彼らの批判の矛盾点を指摘し、あらためて、御自身の奇跡の業に神様のご支配・神様の国がある事を主張しました。これは、この業を果たされた方が、この後、完全な救いの業を成される方であるから、言える主張であります。完全な救いの業とは、「十字架」と「復活」であります。心の中に神様が居なかった口の利けない人は、完全な救いの業を成す「イエス様の指の業」によって、「神様との関係が回復」したのです。イエス様は神様との関係が壊されている一人ひとりを顧みておられます。奇跡によって、神様の御国・神様のご支配を示す事は、御自身の権威の正当性を示すことだけにとどまらず、私たちがこの世で神様に愛されて生きるよう、導くためのものなのです。神様との関係回復によって、愛され導かれるのです。私たちは教会を通して、この導きに身を委ねてまいりたいと思います。

 

 7月23日

「生活の刷新」  武 公子牧師

エレミヤ書7章1~7節

使徒言行録19章13~20節

 

 病気や災いは悪霊の仕業と信じられていた聖書の時代、悪霊追放の祈祷師たちが各地を巡り歩いていました。その中にユダヤの祭司長の息子たちもいました。彼らはイエスの名によって目覚ましい奇跡を行っているパウロの真似をしました。信仰なしに形式だけを真似しても空しいだけです。悪霊は追い出せません。本物と真似はどこがちがうのでしょう。パウロの力強い業は、深い祈りに裏付けられていました。一方、彼らはイエスの名を使っても実がありません。悪霊は彼らに言い返しました。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」悪霊に取りつかれている男は、彼らに飛びついてひどい目に遭わせました。反対するでもなく、信じるでもない中間的な祭司長の息子たちは、神の名を乱用して、イエスの名を利用して、自ら災いを招きました。しかし、神は悪霊さえ用いて益としてくださいました。その証拠に、まず第一に人々に神への畏れが生じました。次にイエス・キリストが崇められ、イエスの名が大きくされました。第三に人々は罪を告白して、魔術や占いの巻物をすべて焼き捨て、古い世界ときっぱりと決別しました。最後に魔術の盛んだったエフェソの町に福音が広まっていきました。

 

 7月30日

「異邦人の救い」  武 公子牧師

創世記21章9~21節

ローマの信徒への手紙9章19~28節

 

異邦人とは、神を知らずに偶像を拝んでいる人たちのことです。私たちが神の憐れみによって選ばれ神の子とされたのは、異邦人に神の救いのみ業を示して、神を知らせるためでした。かつてイスラエルは神の選びを特権として誇り、自分の立派さによって生きました。そして神の憐れみから遠く離れてかたくなにされました。「このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです」(9:18)。しかし、イスラエルがかたくなにされたことも、異邦人の救いのためとなり、そのことさえも神の救いの御業の外で起こったことではありませんでした。

 私たちは神の一方的な恵みによってキリスト者とされました。それにも関わらず神に背く罪深い者です。それでも滅ばされずにいるのは、神を知らない異邦人の救いのために生かされています。私たちが救われたのは、罪深かったからであり、罪深い私たちに栄光が輝くなら、だれもが神の存在に気づくでしょう。私たちは異邦人に神を示す主イエスの反射板となるよう召し出されています。

 

2017年6月

 6月4日 聖霊降臨日(ペンテコステ)

「聖霊の賜物」  武 公子牧師

ヨエル書2章23節~3章2節

使徒言行録2章1~11節

 

「聖霊」とはわたしたちの内側から働く神ご自身です。わたしたちはどうしたら聖霊を受けることができるでしょうか。聖霊降臨日に、最初に起こったのは「言葉」の奇跡でした。聖霊に満たされた弟子たちは、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で語る「舌」を与えられました。もはや自己中心的な言葉ではなく、相手の言葉で話し始めました。これを聞いた人々は「わたしたちの言葉で神の偉大な業を語っている」と驚きました。反対に、創世記の「バベルの塔」では、自分たちの名前を作ろうとするところに、言葉の乱れと分裂した世界が現れます。神に対する人間の傲慢の結果です。わたしたちの生きる世界には、様々な分裂と言葉の乱れがあります。しかし、ペンテコステの出来事は、神の前に皆が心を低くしたときに、皆が聖霊の一つの言葉を聞いたのです。すべての人を結び合わせる新しい言葉です。“霊”に包まれた一致の可能性を信じることが、すべての始まりとなります。聖霊を受けるためには、慰め主、力の主をすべての先にすることです。そしてわたしたちの古きを捨てて空になる時、聖霊をいただきます。

 

 

 6月11日

「神さまにゆだねる」  武 公子牧師

マタイによる福音書6章25~34節

             

イエスは、「空の鳥を見なさい。野の花を見なさい」と言われます。鳥は種を蒔くことも、刈ることも、倉に納めることもできませんが、神は養っていてくださいます。野の花は置かれた場所で、太陽の光と恵みの雨を受けて命いっぱい輝いて咲いています。そんな小さなものたちにさえ、神は心にかけていてくださるのですから、私たちにはなおさらです。御子をさえ惜しむことなく、私たちにお与えになった神がどうして、私たちの命と体に必要なものをお与えにならないでしょうか。何よりもまず、第一に求めるべきものは、神ご自身なのです。第一のものを第一にするとき、第二のもの、第三のものも加えて与えられます。自分の力だけで生きようとするとき、また生きられると思う時、思い悩みがやってきます。まだ起ってもいない明日のことを、あれこれ頭の中で考えて、心がバラバラになります。思い悩みは今日という日をおろそかにします。神に身を委ねて、私たちが今日の命を精一杯、神に信頼して生きることを神さまはお望みです。「思い煩いは、何もかも、神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」(ペトロⅠ 57)。

 

 

 6月18日

「悔い改めの使信」  武 公子牧師

エゼキエル書18章25~32節

使徒言行録17章22~34節

 

 パウロはアテネの町のいたるところに多くの偶像があるのを見ました。それでもまだ足りないと言わんばかりに「知られざる神」にという祭壇までありました。知らない神のたたりを恐れたからです。パウロはアテネの人々に「あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしよう」と言いました。人間を中心にしていくなら、人間の都合のよい神々がいくらでも出来てしまいます。自分が主体となって知識で神を観察する側に立っている限り、神は遠くにいる存在でしかありません。しかし、今、自分が神に知られている存在なのだということを知るとき、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。自分の知識を絶対化する限り、悔い改めは起こらないでしょう。悔い改めとは、「神を知っている」から、「神に知られている」自分に立ち帰ることです。わたしが主ではなく、イエスが主であることを信じ、そのように生きることです。そして、さまよっている自分に気づき、神に立ち帰る道は、洗礼へと導き、さらにその罪がゆるされ、聖霊を受けるという恵みに招き入れられるのです。

 

 

  6月25日

「世の光としての使命」  武 公子牧師

イザヤ書60章19~22節

フィリピの信徒への手紙2章12~18節

 

 教会の柱と頼んでいたパウロがいなくなり、フィリピの信徒たちは不安と動揺の中にいます。しかし、教会の中心はいつもイエス・キリストであります。獄中からパウロは手紙を送り、私の不在の今こそ従順でいて、恐れおののきつつ、自分の救いを達成するように努めなさいと勧めます。そして「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(213)と。神の前にいる私たちは、自分の足で立たなくてはなりません。夢中で神の救い、すなわち福音をつかみとり、戦いとり、毎日努力しなければ取り逃がしてしまうでしょう。そのようにして、私たちは一歩一歩神のもとに近づいているのです。神がなさるということは、自立を妨げるのでなく、反対に人間や世の知恵や力に頼まないことになりますから、神にのみ依り頼むことは、私たちの自立を助けます。苦難の連続であったパウロの人生が、決して無駄ではなく、誇ることができるのは、それが永遠のものに向かっているからです。イエス・キリストが血を流して勝ちとってくださった人生は、無駄になることはありません。

 

2017年5月

 5月7日

「イエスは復活また命」  武 公子牧師

ネヘミヤ記2章11~18節

ヨハネによる福音書11章17~27節

 

 主の愛する者も病気にかかります。しかし、イエスはラザロの病気を聞いてもすぐにはかけつけてくれませんでした。それが神の愛であり、栄光の始まりであると誰が信じたでしょうか。主に早く来て欲しいと願う時、神の助けが遅いと思われる時があります。しかし、神には、神の時があり、神のご計画があります。主イエスは最も実りある時に来られます。それは私たちに都合のよい時ではないかもしれません。イエスが来られたときには、すでにラザロは死んで墓に葬られていました。マルタは弟の死の現実を前にして、イエスに不満をぶつけます。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。それでもなお彼女はイエスに対する信頼と希望を失うことはありませんでした。そのときイエスは、「あなたの兄弟は復活する」と言われました。ラザロの病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためでした。祈りが聞かれない、遅いと思われる時にも、決して私たちは失望してはなりません。その時こそ、神は最善をお与えになるのです。

 

 

 5月14日

「心を注ぎ出して」  武 公子牧師

サムエル記上1章12~18節

 

 ハンナには子どもがいませんでした。そのことで悪く言う人がハンナを悩ませ苦しめていました。夫のエルカナはハンナを慰めましたが、ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣きました。そして神殿で神に誓いを立てて、男の子を授けくださるなら、その子の一生を主におささげすると言いました。いつまでも祈っているハンナを見て、祭司は酔っていると勘違いしました。そうではなくハンナは神さまに訴えたいこと、苦しいことがたくさんあるので、心を注ぎ出して、真剣な「祈り求め」をしていたのです。祭司から祝福を受けて家に帰ったハンナはもう前のようではありませんでした。あれがほしい、こうなってほしいと願うことは、「祈り求め」ではありません。真の祈り求めは、「求めなさい。そうすれば与えられる」という神の約束を確信して、出来事を起こされる神に絶対信頼していることです。もし私たちの人生に悩みや苦しみがなかったなら、私たちは神さまへの「求め」を、神中心に考えないで、神さまを何でも与えてくれる便利な道具のようにしてしまわないでしょうか。ハンナは男の子を授かり、サムエルと名付けました。そして神に誓ったとおり息子サムエルを神にささげました。 

 

 

 5月21日

「イエスの祈り」  武 公子牧師

列王記上18章20~29節

マタイによる福音書6章9~15節

 

 イエスは「主の祈り」に先立ち、二つの祈りの危険性についてふれました。一つは、心にもないことを祈ったり、見せかけの祈りをすることです。もう一つは、くどくどと祈ることです。言葉数が多ければ、聞き届けられるのではありません。神はわたしたちが願うより先にわたしたちに必要なものをご存じです。イエスがわたしたちの兄弟となられたゆえに、わたしたちは、天の神を「父よ」と呼ぶことを許されています。わたしたちはまず「御名」と「御国」と「御心」のために祈るべきです。神が必要とされるからではなく、わたしたちにとって必要なことだからです。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ633)。その後、人間に関する祈りが続きます。わたしたちが「主の祈り」を祈る時、イエスご自身がわたしたちの祈りの中においでくださいます。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ1820)。とかく機械的になりがちな「主の祈り」ですが、一つ一つ心をこめて、わたしは本当にあの人を赦しただろうかと確認しながら祈る時、イエスが執り成してくださいます。

 

 

  5月28日

「キリストの昇天」  武 公子牧師

エレミヤ書10章1~5節

ルカによる福音書24章44~53節

 

「キリストの昇天」は私たちにとってどのような意味があったのでしょうか。イエスは私たちを見捨てて、天に帰られたのではありません。「天」とは、空の彼方にあるような空間ではなく、神のおられるところが「天」であります。使徒信条に、「天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまえり」とあるように、キリストは天と地の一切の権能を授けられ、神と等しい存在となられました。「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」(ヨハネ167)と主イエスは弟子たちに約束されました。「教会」は地の果てまで「福音」を宣べ伝える宣教の使命を与えられました。聖霊こそ宣教を成し遂げさせる神からの力です。キリストは天から、約束の聖霊を私たちに遣わし、天にあって私たちのために執り成しておられます。「キリストの昇天」は、主イエスとの悲しい別れではなく、私たちがいっそう強くキリストに結ばれて、宣教の使命を果たすためでした。

 

2017年4月

 4月2日

「十字架の勝利」  武 公子牧師

創世記25章29~34節

マタイによる福音書20章20~28節

 

 イエスの三度目の「受難と復活」の告知の後で、ヤコブとヨハネの母は、王座に着いたとき、二人の息子をあなたの右と左に座らせてほしいと願い出ました。イエスは「あなたがたは、自分が何を願っているか、わかっていない」と言われました。彼らは「十字架なしの栄光」を求めたからです。イエスは王となって皆に仕えられるためではなく、僕となって皆に仕えるために、そして多くの人の罪のため、自分のいのちを献げるために世に来られました。そして地上ではいつも貧しい人たち、病気や悪霊に苦しむ人たち、罪人と呼ばれる人たちと共におられました。ですから、イエスの右と左に座るということは、イエスの十字架の右と左に着いたあの強盗たちのようになるということではないでしょうか。キリストの十字架の死によって、わたしたちの罪を贖うために、ついに神の救いの御業は成し遂げられました。父なる神は、十字架の死に至るまで従順であられたイエスを三日目に死人のうちよりよみがえらせ給いました。イエス・キリストの復活によって、十字架は勝利に輝いています。

 

 

 4月9日

「十字架への道」  武 公子牧師

哀歌5章15~22節

マタイによる福音書27章32~56節

 

 人々はイエスに「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」とののしりました。彼らにとって、十字架から降りられないのは、神の子でない証拠なのです。しかし、イエスは降りられないのではなく、降りないのです。十字架から降りないから神の子なのです。釘付けにされたまま、神に放置されたままのイエスは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫び、息を引き取られました。本来なら罪人のわたしたちが叫ぶべき、神から断絶された恐怖の叫びです。父なる神はついにイエスを十字架から降ろしませんでした。しかし、神に投げかけられたイエスの「なぜ」は、神の沈黙の背後に、まだ見えない神の隠された計画が必ずあると信じたからです。神に背き、滅びて当然のわたしたちを見捨てることが出来ず、神は独り子を十字架につけるという仕方でわたしたちに対する無限の神の愛を示してくださいました。十字架の「愚かさ」(Ⅰコリント118)は、救いの御業が完全に成就した「愛」の勝利の宣言なのです。

 

 

 4月16日

「キリストの復活」  武 公子牧師

エゼキエル書36章25~28節

マタイによる福音書28章1~10節

 

 お墓は人生の終着駅であるとか、死んだら灰になるだけだなどと言われます。そのように地上の命がすべてであると考えるところでは、「明日はどうせ死ぬ身ではないか。食べたり飲んだりしようではないか」と享楽的になるか、あるいは「あくせく働くだけなら、生きていることにどれほどの価値があるだろうか」と虚無的にならないでしょうか。そこでは「命」が「死」に飲み込まれてしまいますが、キリスト者の場合は違います。「命」が「死」を飲み込んでしまうのです。「洗礼」によってキリストに結ばれた者は、すでに「永遠の命」を生きています。そして終わりの日の「復活」の希望を与えられて、「眠り」につきます。ですからキリスト者は「死」で終わりません。「死」はキリストの復活によって打ち破られたのです。わたしの死を死んでくださったキリストの愛は、ついに「墓」を越えて「復活」にまで達しました。キリストは本当に復活されました。そして眠りについた人たちの「初穂」となられました。信仰とはキリストに起こったことは、このわたしの上にも起こるということを信じることなのです。

 

 

 4月23日

「復活顕現」  武 公子牧師

イザヤ書65章17~25節

マタイによる福音書28章11~15節

 

 この世は、真の光として来られたイエス・キリストを墓に閉じ込めて封印をし、さらに番兵を置きます。しかし、復活されたイエスを人間は墓に閉じ込めることは出来ません。「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」と告げる主の天使に遭遇したのは、婦人たちの他に墓の前にいた番兵たちでした。彼女たちは、恐れながらも大いに喜び、弟子たちに知らせるために走って行きました。一方、番兵たちは恐ろしさのあまり震え上り、死人のようになり、祭司長たちにすべてを報告しました。すると、ユダヤの指導者たちは多額の金を与えて、「弟子たちが夜中にやって来てイエスの死体を盗んだ」と言うよう番兵たちを買収しました。彼らはでっちあげを流す役目を引き受けました。イエスの復活が否定され続ける中を、復活の証言は歴史を貫き、2000年の時を経て私たちのところまで伝えられました。復活の主は、新しい天と新しい地の完成に向かって、歴史を導いておられます。不正と虚偽に満ちた暗い時代ですが、私たちもイエスの復活の使信を畏れながらも、大いに喜び伝えてまいります。

 

 

 4月30日

「新しい命」  武 公子牧師

列王記上17章17~24節

マタイによる福音書12章38~42節

 

 「ヨナのしるし」とは何でしょうか。神はヨナにニネベの町へ行って神の言葉を伝えるように召されます。ところが彼はタルシシュ行きの船に乗って神から逃走しました。船は嵐にあい、彼は海に放り込まれます。そして大魚に呑まれて「三日三晩」魚の腹に閉じ込められます。人間は神から逃げることができるのでしょうか。私たちを創り私たちの根拠となるお方を否定することですから、逃げてうまくいくはずがありません。ヨナは自己崩壊寸前に主に必死で祈り、魚の腹から吐き出されました。「ヨナのしるし」とは、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえられたイエス・キリストのことです。「ここにヨナにまさるものがある。」主イエスは、神から逃走する人間の罪を見ないで、我が身に負われます。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」このイエスの十字架の叫びは、神から逃走して死に直面したヨナの祈りを、主は祈られたのです。ヨナは再び生きて神の召しに応えます。イエス・キリストが私たちの救い主であるという根拠は、十字架と復活です。「十字架」を信ずる者には、「復活のしるし」が伴いますが、信じない者には、復活の主は現れないでしょう。「しるし」は、み言葉を聞いて信ずる者に伴います。

 

 

2017年3月

 3月5日

「荒れ野の誘惑」  武 公子牧師

申命記30章15~20節

マタイによる福音書4章1~11節

 

イエスは悪魔から誘惑を受けるために神の霊に導かれて荒れ野に行きました。40日の断食の後、悪魔の誘惑を受けます。最初の試みは、パンの問題です。人間が生きるためにパンは必要ですが、「霊の食べ物」も必要です。イエスは神の力を自分のために利用しません。次に悪魔は「神の子なら」と言って、イエスを試みます。神の栄光を現すのは、人々をあっと言わせることでなく、神の思いに従う十字架の道です。最後に悪魔は、世の繁栄を見せて、もしひれ伏して自分を拝むならすべてを与えようと誘います。イエスはみ言葉をもって悪魔を撃退します。すると天使たちが来てイエスに仕えました。「誘惑」も「試練」も同じ苦しみの中で生じます。「誘惑」は、私たちを神から切り離すために働く力です。「試練」は、私たちをさらに高い所へと引き上げるために働く力です。では「誘惑」を「試練」に変えるには、どうしたら良いのでしょうか。イエスは三度の誘惑に対して、旧約聖書のみ言葉をもって悪魔の誘惑に打ち勝ちました。神の言葉に徹した服従こそ、誘惑を試練に変える勝利の道です。 

 

 

 3月12日

「悪と戦うキリスト」  武 公子牧師

イザヤ書35章1~10節

マタイによる福音書12章22~32節

 

イエスさまが悪霊に取りつかれて目が見えず、口の利けない人をいやされると人々はみな驚きました。しかし、ファリサイ派の人々は認めようとはしません。イエスは悪霊の頭ベルゼブルの力で、悪霊を追い出しているのだと言います。しかし、悪霊同士で戦えばどんな町でも家でも内輪もめになります。イエスさまは、神の霊すなわち「聖霊」によってサタンを追い出されます。まず、その家に入って、「強い人」すなわちサタンを縛り上げて、「家財道具」すなわちサタンに捕えられていた人々を取り戻されます。イエスさまの行う悪霊追放は、「神の国」の到来のしるしです。私たちはこの事実から出発しましょう。イエスさまに言い逆らうことも、神を汚す言葉も、あるいは赦されるでしょう。しかし、「聖霊」を、悪く言う者は赦されません。なぜなら、「聖霊によらなければ、だれも『イエは主である』とは言えないのです」(コリントⅠ12章3節)。私たちもイエスさまのことがよくわかるように「聖霊」をお与えくださいと祈りましょう。

 

 

 3月19日

「受難の予告」  武 公子牧師

ヨブ記1章1~12節

マタイによる福音書16章13~28

 

ペトロが信仰を言い表したとき、イエスは祝福して「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と宣言されました。そして天の国の「鍵」をペトロに授け、神の国に関する「全権」お委ねになりました。しかし、ペトロはイエスから「受難の予告」を打ち明けられると、「とんでもない」と言って、イエスをいさめました。するとイエスは「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と叱りました。サタンとは、神の道を行かせないように邪魔する力です。ペトロはイエスの十字架への道をはばむ存在となりました。ペトロにイエスが命じた「サタン、引き下がれ」とは、「わたしの後に立て」です。キリスト者はいつでもイエスの後に立つべき存在です。人間的な善意が、神にとって必ずしも善いことなのではありません。「自分を捨て、自分の十字架を背負う」とは、自分の思いを否定して、神の思いを背負って、イエスの後に従うことです。そのとき、神への「いのちの道」が開かれます。

 

 

  3月26日

「主の変容」  武 公子牧師

出エジプト記24章3~11節

マタイによる福音書17章1~13節  

 

 イエスから「受難と復活」の予告を打ち明けられたとき、ペトロは栄光の主が殺されるはずはないとイエスを理解できませんでした。そのペトロと内輪の弟子たちだけを連れて、イエスは山に登られました。すると彼らの目の前で、イエスの姿が変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなりました。復活のイエスの栄光の姿、さらにモーセとエリヤが現れてイエスと語り合っているではありませんか。ペトロはもう夢中になって、これらを地上に留めておこうと仮小屋を建てることを提案します。しかし、それは取り上げられず、彼らは雲に覆われてしまいます。「主の変容」の出来事は、弟子たちが苦難を直視し、十字架を負うことによって、救い主の栄光へと通じることを、具体的にイエスはお教えになったのです。苦難だけが大写しになると、復活の輝きを忘れてしまいます。また暗い面しか見ようとしないことも、明るい面しか見ようとしないことも、どちらもイエスの本当の姿を見ようとしない不信仰から来ます。わたしたちが生きて、信じて、約束を与えられているのはこの地上です。キリスト者は、地上を直視しつつ、天からの声に聞き従う、この二つに生きる者です。

 

 

2017年2月

 2月5日

「たとえで語るキリスト」  武 公子牧師

  イザヤ書6章8~12節

  マタイによる福音書13章10~17節

 

 イエスさまは、しばしば「たとえ」でお語りになりました。「たとえ」で語る目的は、だれでもよくわかるためですが、もう一つは「天の国の秘密」を悟らせないためです。イエスさまは弟子たちに、「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである」と言われました。み言葉を受け入れるかどうか、み言葉に心が開かれているかどうか、ただその違いは、わたしたちの側の態度にかかっています。しかし、神の言葉を悟ることが許されないのは、神さまに聞こうとしないかたくななイスラエルの民に下された罰でもあったのです。同じようにイエスさまに対して心をかたくなに閉ざすユダヤの人々の上に、イザヤの言葉は実現しました。イエスさまの「たとえ」を聞いても、彼らは悟ることができません。むしろ「なぞ」として残ります。一方、弟子たちは「たとえ」を悟って、ますますイエスさまに結ばれて行きます。それは弟子たちの側の努力によるのではなく、ただ神さまの恵みによるのです。したがって、私たちも救いの言葉を聞く時には、「神さま、聖霊によって私たちの心を開いて下さい。」と聖霊の照らしを祈り求めます。

 

 

  2月12日

「教えるキリスト」  武 公子牧師

イザヤ書30章18~21節

マタイによる福音書5章17~20

 

新しいことを行う人は、破壊者に見られます。イエスさまが安息日に病気の人を癒されると、これを見たファリサイ派の人々は、「律法で許されているのですか」と問います。律法を本当の意味で完成したお方が、これまでの伝統や慣習や秩序にこだわる人々にとって、破壊者と映ったのは当然でしょう。しかし、律法主義から出て来るのは、良い行いの「誇り」と他人に対する「裁き」です。イエスさまは弟子たちに「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」と言われました。彼らにまさる義(神の前における正しさ)とは何でしょうか。それは人に見せる義ではなく、ただ見えないお方だけを信じて、隠れておられる神にだけ見られる義です。イエスさまが来られて、根本的に変わったのは、「良い行い」の意味です。イエス・キリストの福音によって、「良い行い」は、天の国に入るための条件、救われるための前提ではなくなりました。良い行いは自分を飾ったり、誇ったりします。良い行いからさえも罪が生じます。キリストの「十字架の愛」だけが良い行いの源なのです。そこから信仰によってキリストに結ばれた人は、感謝と喜びの実りが生まれてきます。

 

 

 2月19日

「いやすキリスト」  武 公子牧師

列王記下5章1~14節

マタイによる福音書15章21~31節

 

わたしたちは祈りが聞かれないとすぐにあきらめてしまわないでしょうか。主イエスは、私たちの祈りを聞いていないかのようにみえる時も、じっと聞いておられ、私たちの信仰を見ておられます。今、娘が悪霊にとりつかれ苦しんでいる母親がいます。彼女はどうしてあげることもできずに、ただ主の憐れみを信じて、体当たりでぶつかっていきます。そして主イエスの足もとにひれ伏したのです。しかし、イエスさまは外国の女の人までかまっていられないと言わんばかりに突き放されます。それは主ご自身が使命として何を先にしなくてはならないのか、このことが中心だからでした。しかし、そのように突き放されても、彼女は主イエスに近づきます。さらに拒絶されてもあきらめません。「主よ、ごもっともです。しかし・・・」と食い下がります。これほど拒絶されながら、イエスさまに繰り返し近づく人がいるでしょうか。なんと大きな信仰でしょう。彼女はイエスさまに大きな恵みを期待しました。その時、イエスさまはこの女の人の信仰をおほめになりました。大きな信仰とは、神を大きくする信仰です。頭の中だけに存在する神は、神を小さくする小さな信仰です。生きてダイナミックに行動される神に、私たちはもっと大きく期待して良いのではないでしょうか。

 

 

  2月26日

「奇跡を行うキリスト」  武 公子牧師

イザヤ書30章8~17節

マタイによる福音書14章22~36節

 

「奇跡」とは、単なる魔術や不思議な出来事ではありません。もはや自分で自分を助けることが出来ない者のところに、向こう側から来る助けです。人間のギリギリのところで、生ける神に出会う出来事です。嵐の海で、漕ぎ悩む弟子たちは行き場を失います。今、その舟に向かって、湖の上を歩いて来られる方がいます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。一体、世の中にそのように言ってくれる人がいるでしょうか。方法や知恵を教えてくれる人はいるでしょう。しかし、人格をもって、存在をあげて、「わたしだ」と言って現臨される方は他にいるでしょうか。イエス・キリストの「わたしだ」は、神の顕現を告げる言葉です。この生ける神に出会うことなしには、「信仰」とは何でしょうか。この神なしには単なる思想や観念にすぎないのではないでしょうか。ペトロは舟から出て、イエスの方に進みます。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みそうになります。半信半疑はいつも神と人間の間を行ったり来たりします。ペトロは沈むでしょう。私たちも沈むでしょう。しかし、イエス・キリストは沈みません。「主よ、助けてください」との祈りをもって、主に近づく者は、主の御手にしっかりと捕まえられます。

 

 

2017年1月

  1月1日

「エジプト逃避」  武 公子牧師

  エレミヤ書31章15~17節

  マタイによる福音書2章13~23節

 

 ヘロデ王は、新しい王の誕生を知って不安を抱きました。東方の占星術の学者たちは幼子の居場所を見つけましたが、ヘロデのもとに戻りませんでした。夢でお告げがあったからです。ヘロデは騙されたと知って怒りました。そして二歳以下の男の子を皆殺しにします。では幼子イエスのために、多くの子どもたちが犠牲になることは、神のご計画だったのでしょうか。そうではありません。人間は自分の立場を守るためには、このような残虐な行為をしかねないということです。主の天使は夢でヨセフに、子どもとその母親を連れて、エジプトに逃げるように告げます。ヨセフはすぐに従います。エジプトに逃避した聖家族、その中心は幼子イエスです。ヘロデが死ぬと、主の天使が再びヨセフに現れて、イスラエルの地に行くように告げます。ヨセフはすぐに従います。恐るべき人間の罪の只中でさえ、神のみ言葉が行われ、聖書のみ言葉が実現していきます。救い主イエスは、こうしてガリラヤの「ナザレの人」と呼ばれることになります。聖書の言葉は単に文字が並んでいるだけではありません。それが実現すると出来事となって私たちに生きた言葉となって語りかけます。新約聖書の時代に生きるわたしたちは、終わりの日の神の国の完成に向かって歩みます。天使の言葉に黙々と従って歩んだヨセフのように、わたしたちもみ言葉がどんなけわしい道も導かないはずはないと信じて進みます。 

 

 

 1月8日

「イエスの洗礼」  武 公子牧師

  サムエル記上16章1~13a節

  マタイによる福音書3章13~17節

 

 罪とは全く無縁の神の子イエスが、なぜ「罪のゆるし」のしるしである洗礼を受けなければならなかったのでしょうか。イエスは自発的にガリラヤから洗礼を受けるために、ヨルダン川のバプテスマのヨハネのもとにやって来ました。ヨハネは水で洗礼を授けますが、「聖霊と火」で洗礼を授ける「メシア」の到来を予告していました。ですからイエスがヨハネの前に現れた時、彼は強く断りました。「わたくしこそ、あなたから、洗礼を受けるべきです。」しかし、イエスはヨハネに「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」と言われました。「我々」とは、イエスとヨハネの二人が、「人々に対して」正しいことの模範を示すとも言えるでしょう。しかし、人となられた神の子は、今、罪人となって、わたしたちと一つになって洗礼を求めます。ですから「我々」とは、「すべての人」をさします。すべての人が、「神に対して」果たすべき正しいこと、それが洗礼なのです。イエスが洗礼を受けた時、天が開いて聖霊が降り、「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」という父なる神の声がありました。そのとき、世に遣わした「愛する子」に、父なる神の全権が委ねられました。すべての人を救うために父の計画に御子が従うから「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」なのです。イエスが十字架に上り、死に赴くに先立って、洗礼をうけることを、神が望まれるからです。罪の赦しを与える「洗礼」は、わたしたちすべての人間が、神に対して果たすべき正しいことなのです。

 

 

 1月15日

「最初の弟子たち」  武 公子牧師

  エゼキエル書2章1節~3章4節

  マタイによる福音書4章18~25節

 

 イエスさまの最初の弟子たちは4人の漁師たちでした。イエスさまは日常の生活の中で彼らを御覧になって、「わたしについて来なさい」と言われました。彼らは、網と舟と父を捨てて、すぐに従いました。「召命」とは、神に見られて、呼ばれることです。まず神からの働きかけが先にあります。私たちが決断してイエスさまに従って行くのではありません。イエスさまは御覧になって、「関わりを持つために」弟子たちをお選びになります。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」(ヨハネ1516)。私たちがキリスト者として召されたのは、偶然ではなく、神さまの永遠のご計画に根ざしています。ですからこの世のどんなことにもゆるぎません。そして神さまに根拠があるのですから、だれも誇れません。キリストに従うとは、同時に自分の一番大切なものを捨てることを意味します。キリストに従うために捨てなくてはならない最大のものは、「自分」です。イエスさまは「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ1624)と言われました。イエスさまはある意味で、わたしたちのすべてを求めておられます。神の思いに生きるために、人間の思いを捨て、イエスの後に従うのです。すべてを捨てさせた神は、すべてをお与えになることができる神です。信仰には、見積書も計算書もありません。私たちがイエスさまの後について行くのは、ただイエスさまに見られ、呼ばれてしまったからです。

 

 

  1月22日

「宣教の開始」  武 公子牧師

  イザヤ書8章23節b~9章3節

  マタイによる福音書4章12~17節

 

 「イエスは、ヨハネが捕えられたと聞き、ガリラヤに退かれた。」正しい人が捕まる暗い時代です。洗礼者ヨハネの時代が終わりを告げ、イエスは、公に活動する時が来たことを知り、「異邦人のガリラヤ」と呼ばれる辺境の地から宣教を開始しました。それは預言者イザヤの言葉が実現するためでした。イザヤの時代に起きたシリア・エフライム戦争で、人間の王に全く失望したイザヤは、神の遣わす王に期待して語ったのが、「メシア預言」です。イエスは、まさに「暗闇に住む民」の「大きな光」であり、「死の陰の地に住む者」に射し込んだ「光」でした。光は行くべき道を照らしますが、反対に世の闇や汚れを明るみにだします。ですから光の明るさに耐えられずに、闇の中に安住していたい人たちは光を憎みました。しかし、最も低い所に下った光は、世の貧しい者、弱い者、苦しみを受け虐げられている人、無力な人、希望もなく神なき者、そのような人たちにとってこそ、イエスはキリスト(メシア)となられました。「悔い改めよ。天の国は近づいた」。イエスの宣教の開始です。今、近づいて来られる神に向かって、私たちの現実の中に来られる生ける神に向かって変わるのです。私たちはあまりにも周辺のことにとらわれたり、余計なことを気にしすぎていないでしょうか。「悔い改め」とは、私たちの中心におられるお方に帰り、この中心に目が開かれることです。

 

 

 1月29日

「新しい神殿」  武 公子牧師

  創世記28章10節~22節

  マタイによる福音書21章12~16節

 

 イエスさまはエルサレム神殿の境内で、売り買いしている人々をご覧になり、「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている」と叱り、両替人の台や鳩を売る人の台を倒されました。むしろ幼子や乳飲み子の口によって神さまは真に賛美されます。「神殿」は、人間の罪の贖いのために、動物をいけにえとして献げる場所でした。すべての祭司たちは、繰り返し動物犠牲による祭儀を行ってきました。しかし「神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」(マルコ27)。まことの神であり、まことの人であるお方だけが、罪を赦す力をお持ちになります。イエス・キリストはただ一度、十字架の上で血を流して、神への完全な贖いの供えものとなられました。「神殿よりも偉大なものがここにある」(マタイ126)。主イエスの「神殿きよめ」は、あらかじめこのことを示すための象徴的な行為でした。十字架につけられたキリストは、三日目によみがえり、新しい主の神殿の基礎となりました。主の体である教会です。私たちの弱い体、年老いた体、罪に汚れた体をも、主イエスは血をもって買い取り、さらに「聖霊の宿る神殿」としてくださいました。なんという喜び、なんという高価な恵みでしょうか。