2016年12月

 12月4日

「旧約における神の言」  武 公子牧師

  イザヤ書59章12~20節

  マタイによる福音書13章53~58節

 

 バビロン捕囚から、故国エルサレムに帰還したイスラエルの民は、神殿を再建します。しかし神の救いは一向に現れません。むしろ飢饉が起こります。神に対する信頼が揺らぎ、人々は勝手に生き始めます。預言者イザヤは、エルサレムの滅亡も、バビロン捕囚も、神に背き、神から遠く離れた罪の結果起こった出来事であると理解しました。「救い」が実現しない原因は、神の側にあるのではなく、むしろ人間の悪が神の救いを妨げていると。主の手が短くて救えないのではない。神に従うより、人間の判断を優先させてきたところに失敗があります。神は正義が失われ、執り成す人がいないのを驚かれました。今、主ご自身が統治するため行動を起こされます。新しい創造です。神の「言」が人となり、神の使命を果たします。神の私たちに対する最大の恵みは、神の御子をこの世に賜ったことです。御子は低い姿でこの地上に生まれ、私たちのすべての罪を贖うために十字架につかれました。「旧約における神の言」は、実にイエス・キリストの到来において実現したのです。

 

 

 12月11日

「人生を変える祈り」  長谷川 与志充牧師

      (東京JCF&所沢ミレニアムチャーチ)

  使徒言行録22章6~10節

 

 今日の使徒22章にある使徒パウロの祈りは、彼の人生を変えただけではなく、私たちの人生も変える祈りです。

第一の祈りは、「主よ、あなたはどなたですか」(22:8)という祈りです。私たちにとってまず必要なことは、主が自分にとってどんなお方か知ることです。

第二の祈りは、「主よ、どうしたらよいでしょうか」(22:10)という祈りです。私たちにとって次に必要なことは、主が自分に何を願っておられるかを知ることです。主が私たちすべてに願っておられることは洗礼(22:16)と宣教(22:15)です。

第三の祈りは、「主よ」から始まる長い祈り(使徒22:19、20)です。これは自らの弱さをさらけ出す祈りですが、この祈りをささげる時主は私たちそれぞれがなすべき宣教の働きを示して下さいます。パウロにとってそれは異邦人伝道(22:21)でした。

私たちもこれらの「人生を変える祈り」を祈ってみようではありませんか。

 

  12月18日

「告 知」  武 公子牧師

  イザヤ書7章10~14節

  マタイによる福音書1章18~23節

 

 ダビデ家の血筋を引く南王国は、アラム(シリア)とエフライム(北王国)が同盟して、エルサレムを包囲したとき国中が動揺します。預言者イザヤは、「落ち着いて、静かにしていなさい」と王に進言しますが、この時すでにアハズは、神の力に頼るような危険なことはしないで、大国に頼んで国の安全を守ろうと考えました。イザヤは再び「あなたの神に、しるしを求めよ」と言います。神に従うことが正しいことを示すために、神は「しるし」を求めることをお許しになります。しかし、彼は「わたしは求めない。主を試すようなことはしない」と断ります。断られた神は、なおもあきらめきれずに、御自ら「しるし」を与えると言われます。それがイザヤ書7章14節の「インマヌエル預言」です。実にイエス・キリストの降誕によって、預言は成就しました。「正しい人」ヨセフは、主の天使のみ告げによって、聖霊によって身ごもっているマリアを迎え入れます。神に対するヨセフの従順によって、神の救いの計画が開始されました。神の求める「正しさ」とは、神が起こすことへの忠実さです。ヨセフが主の天使の言葉に従ったことにより、「神の救い」が世界に、そして私たちにもたらされました。

 

 

  12月25日

「キリストの降誕」  武 公子牧師

  イザヤ書9章1、5~6節

  ヨハネによる福音書1章1~14節

 

 「初めに言があった」とは、「言」なるキリストが天地創造の前にすでにおられて、ロゴス・キリストが「肉」となって、私たちの間に宿られたということです。「肉」とは、はかなく弱い「人間」のことですが、神は弱さ、はかなさの極みに至るまで私たちと一つになられました。これがクリスマスの出来事です。「言の内に命があった」とは、神の言葉には出来事を引き起こす力があります。何かを生み出す言葉、出来事となる言葉こそが「命」の言葉です。一方、世界が「言葉」を失うことが、世界の堕落となります。「力」による支配が行われるところでは、「言葉」が失われます。主イエスは様々な人々と対話をされました。真の生きた人間の関係は「対話」にあります。「言は神と共にあった」とは、神ご自身も「父と子」というように「対話」の姿で存在し、創造のみ業を行なわれます。クリスマスに、馬小屋に天の栄光が輝いたように、「言」が「肉」となって、私たちの間で生活し、住まわれたという事実こそ「栄光」と呼ばれるにふさわしい出来事でした。そこには恵みと真理が満ちています。

 

 

2016年11月

 11月6日

「神の民の選び」  武 公子牧師

  創世記13章1~18節

  マタイによる福音書3章7~12節

 

 「わたしが示す地に行きなさい」という神の呼びかけに従って、アブラムは旅立ちました。出発した時、彼は75歳でした。ここから「神の民」の歴史は始まります。「神の民の選び」の目的は、イスラエルだけでなく、すべての人類に祝福を運ぶためでした。しかし、その旅は必ずしも安泰で何の問題も起こらないとは限りません。物が不足しても、物が多すぎても問題が起こります。共に旅立った甥のロトもたくさんの家畜を飼っていたので、二人の財産が多すぎてしまい、一緒に住めなくなり、争いが起きました。そこで土地を分けて別れることにしました。アブラムはロトに優先権を渡します。ロトは肥沃な土地を選び移って行きました。アブラムに残されたのは劣った土地でした。神は再びアブラムに土地を与えることと大地の砂粒が数えきれないように、彼に「子孫」を与えることを約束します。しかしこれはあくまでも、まだ手にすることのできない「約束」にすぎませんが、アブラムは主を信頼してすぐに行動を開始します。信仰とは、「神の示す地」に向かう旅ですが、問題が起こって来る時にも、約束の希望が見えにくい時にも、なお主に信頼し身を任せて、「神の示す地」に向かって歩み続ける旅なのです。

 

 

 11月13日

「救いの約束」  武 公子牧師

  申命記18章15~22節

  マタイによる福音書5章38~48節

 

 モーセはヨルダン川を挟んで東岸に立ち、目の前に約束の地を見て、イスラエルの民に遺言を語ります。乳と蜜の流れる地は豊かさと同時に誘惑や危険が待ち受ける地でもあります。約束の地に入った時、どのように生きなければいけないのか。また偶像の神々を拝んだり、いとうべき異教の習慣や占い師や呪術師に頼らないように、モーセは守るべき「掟」を民に語り聞かせます。モーセの死後も、神はモーセのような預言者を立てる約束をします。預言者とは神の言葉を預かり伝える者のことです。偽の預言者は、人間の思いを、神の思いとして語りますが、真の預言者は「災い」を語りますから、神でないものを神として拝んでいるところでは、嫌われ、迫害されます。本当は私たちの聞きたくない言葉の中にこそ、神の言葉が鳴り響いているのかもしれません。私たちのかたくなな心が、真の預言者たちを苦しめます。救い主イエスは、父なる神の言葉を語り続けた真の預言者でもあります。御子イエスは地上に来られて、私たちと共に生きてくださったにも関わらず、憎まれ、殺害されてしまいました。しかし、ほむべきかな。イエス・キリストの十字架と復活によって、神さまは「救いの約束」を確かなものとしてくださいました。この恵みの福音を私たちは小さな預言者となって語り伝えます。

 

 

 11月20日

「王の職務」  武 公子牧師

  ミカ書18章12~13節

  マタイによる福音書25章31~46節

 

 預言者ミカは、農民たちがエルサレムの指導者たちに虐げられていることを批判しました。裁判官も祭司も預言者も堕落して、ユダの国は不正と腐敗に満ちていました。神はついに「バビロン捕囚」という災いを下しますが、それは神に立ち帰らせるためなのです。人間が傲慢になり思い上がる時、神はその高みから低きに突き落とします。しかし、決して見捨てたまいません。散らされてしまったイスラエルの「残りの者」を呼び集めて、羊のように導いて、一つにされます。捕囚の扉を打ち破り、救い出した神の民を、主がその先頭に立ち、故国エルサレムへと導きます。聖書では、「小さな者」に対する配慮は、捕囚の地で奴隷であった自分たちが、神に導かれた救いの業にその由来があります。十字架の上で裁かれたイエスは終わりの日に、栄光の座に着き「裁き」を行います。聖なる逆転の時です。十字架のイエスが「王」であることが誰の目にも明らかになります。主は苦しむ者をご自分と同一視するまでに低くなられました。それゆえ今、この最も小さい者の一人は、「小キリスト」なのです。キリストに仕えるとは、何か大きなことをすることではなく、かえって小さな隣人に仕えることなのです。

 

 

 11月27日

「主の来臨の希望」  武 公子牧師

  イザヤ書2章1~5節

  マタイによる福音書24章36~44節

 

 「終わりの日」に向って歩むキリスト者は、現在をどう生きるべきでしょうか。それは主の「来臨」の日であり、「裁き」の日です。私たちの主はいつ帰って来られるかわかりません。「ノアの洪水」のように、不意に訪れるかもしれません。その日、その時は、ただ父なる神だけがご存じです。しかし、その日は確実に来ます。これを信じる私たちは「目を覚まして」、「用意して」待つ姿勢をとります。「終わりの日」がいつ来るかを「知らない」ことがではなく、「知らない」ことを「わきまえて」いないことが、滅びへと向かわせます。ノアの洪水の時、神の目によって「救われる者」と「滅びる者」が分けられたように、「終わりの日」の時も同じです。人間の目には全く同じように見える二人であっても、神の目は鋭く違いを見極めて、別な運命を与えます。「救い」は人間がつくり出すものではなく、全く神の権威によるものです。ただ言えることは、「神を覚えて生きているかどうか」だと思います。主の神殿の山を、諸国の民が訪れるのは、主の教えに従って歩むためです。「もはや戦うことを学ばない」と教える「終わり日」に向かって、私たちは目を覚まして、わきまえて、用意して、主の来臨を待ち望みます。

 

 

2016年10月

 10月2日

「キリストにある生」  武 公子牧師

  ヨブ記42章1~6節

  フィリピの信徒への手紙1章12~30節

 

 パウロは投獄されてキリストのために苦しんでいます。しかし、自分の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったことを喜びます。御利益ばかりの宗教は、お金がもうかったり、病気が治ったりすると神さまを信じます。けれどもパウロの信仰は、苦難を受けたり、病気になったりしても、いっそう神さまに強く結びつきます。イエスを信じる信仰は、十字架にかかり、私たちのために死んでくださったイエスが、本当に復活して勝利されたことを確信することです。ですから、かえってキリスト者が十字架の苦しみを負うとき、そこでキリストが最もよく語って下さいます。キリストのために生きる時、キリストがその人の内に働くからです。その時も万事を益としたもう神が、福音を前進させて下さいます。パウロが監禁されている間も、兵営でもキリストを信じる者が起こされたり、また異邦人キリスト者たちも恐れることなく勇敢に御言葉を語るようになりました。キリストのために苦しむ一人の信仰者の証しが、多くの人々に信仰と勇気を与えることになりました。キリストのために苦しむことも、「恵み」として受け入れるためには、大きな信仰が必要です。私たちもそのような信仰を神さまから頂きたいと思います。

 

 

 10月9日

「犠牲」  武 公子牧師

  士師記11章29~40節

  ヘブライ人への手紙9章11~15節

 

 人は自分の罪を自力では償えないゆえに、旧約の時代に神は動物を犠牲にすることを求めました。「血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです。」(ヘブライ922b)。大祭司は年に一度、自分と民のために、動物の血をもって罪の贖いの祭儀を行いました。垂れ幕によって隔てられた至聖所は、神の臨在の幕屋として大祭司しか入れませんでした。しかし、神と人とを隔てた垂れ幕は、ついにイエス・キリストの十字架の死と復活の出来事を通して、切って落とされました(マタイ2751)。動物の血は毎年繰り返されねばなりませんが、キリストの血は「ただ一度」だけ流され、すべての罪を赦す「永遠の贖い」をもたらす完全なものでした。キリストが完全な「いけにえ」とされることによって、人の罪は完全に贖われたのです。「それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。・・・信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。」(ヘブライ101922b)。

 

 

 10月16日

「天国に市民権をもつ者」  武 公子牧師

  エレミヤ書29章1,4~14節

  フィリピの信徒への手紙3章7~21節

 

 使徒パウロは、復活の主イエスに出会うまでは「肉を誇る」律法主義者でした。「肉を誇る」とは、自分が大きくなって、自分は偉い、こんなに立派なことをやったとうぬぼれることです。家柄や才能など自慢することならパウロはたくさん持っていました。しかし、ダマスコ途上の出来事(使徒言行録91-19)以来、「肉を誇る」ことは、神の前では何の価値もないつまらないことだと目からうろこのようなものが落ちました。キリストの内にある者と認められることこそ、最も重要であると悟りました。人がキリストと共に十字架につけられる時、キリストがその人の内に生き始めます。今パウロは信仰生活をレースにたとえます。私たちキリスト者は、まだ途上にある者、不十分で、不完全な者です。神がお与えになる賞は、私たちの本国、天でいただきます。キリストは万物を支配下に置く力をお持ちですから、本来なら「死」へと向かうほかない私たちの卑しい体を、復活の新しい体に、栄光ある体に変えてくださると確信しています。私たちは地上にあって信仰のレースを、目標を目指してひたすら走ります。

 

 10月23日

「創 造」  武 公子牧師

  箴言8章1,22~31節

  マタイによる福音書10章28~33節

 

 イエスは迫害を前にしておののく弟子たちに「恐れるな」と命じます。恐れる必要のないことは第一に、悪魔のできることは「体」だけであって、「魂」にまで影響を及ぼすことはできません。本当に恐れるべき方を恐れるとき、恐れはなくなります。第二に、世は大きなものにしか目を向けませんが、神さまは小さなものに目を向けられます。神の許しなしには、一羽の雀さえ地上に落ちることはありません。そんな小さなものにさえ、神は配慮の手を休めません。ですから私たちにはなおさらです。第三に、人の前と神の前が同じだからです。イエスは「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」と言われました。イエスの仲間であると表明することは、信仰を告白することですから、常に危険が伴います。それは私たちの思いと神さまの思いとには大きなずれがあるからです。しかし、かの日の栄光は、この日の決断にかかっています。ですから、人々の前をどうして恐れる必要があるでしょう。

 

 

  10月30日

「堕 落」  武 公子牧師

  イザヤ書44章6~17節

  マタイによる福音書23章25~36節

 

 バビロンに捕囚されたイスラエルの民は、異教の地で三世代にわたる長い年月、不自由な生活を強いられてきました。もはや神は私たちを見捨てられたのではないだろうか。バビロンの祭りでは、目を見張るような立派な偶像に圧倒されます。バビロンの偶像の神々は所詮、木材に過ぎません。無力です。偶像を拝むことは、堕落への道につながります。“お前たちは、まだわたしがわからないのか。こんなにもお前たちのことを思っているのに“と神は嘆かれたにちがいありません。苦役の時は終わり、神はすでにバビロンからの解放の道を備えておられました。外国の王さえ神の道具として用い、神はイスラエルを救い出して贖われます。イスラエルを贖う万軍の主は、「あなたたちはわたしの証人ではないか。わたしをおいて神があろうか、岩があろうか。」と言われます。「贖う」とは、対価を払って買い戻すことですが、イスラエルではその責任は「親戚」の者にありました。私たちの神は、「親戚」として振る舞ってくださる神なのです。

 

2016年9月

 9月4日

「上に立つ人」  武 公子牧師

  エレミヤ書50章4~7節

  ペトロの手紙一 2章11~25節

 

 キリスト者の国籍は天にあります。したがって私たちは、この世にあっては、神の国を目指す旅人であります。けれど旅の恥はかき捨てではなく、地上の生活においても、キリストに従って生活し、神の僕として、できる限り神の国の証しの柱を立てて旅を続けます。

 キリストによって自由な人とされた者は、その自由を欲のために使わないで、愛のために使います。マルチン・ルターは「キリスト者はすべての人に仕える僕であって、同時にすべての人の上に立つ王である」と申しました。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(マルコ1042-44)。イエスさまは私たちが主の足跡に続くようにと、模範を残されました。

 

 

 9月11日

「キリストの住まい」  武 公子牧師

  歴代誌下7章11~16節

  エフェソの信徒への手紙3章14~21節

 

 私たちは、教会を通して、生けるイエスさまの言葉を聴き、イエスさまの体である教会の一部になります。イエスさまに連なる一人ひとりが、主にある交わりをなすとき、この交わりを通して聖霊が働き、教会に集う一人一人は、聖霊の満ちる宮、神の住まいとなります。それは私たちが何か立派だからではなく、どれほど小さく、弱くても、神さまが選び、集めてくださったゆえにです。人間の「愛」は移ろいやすく、壊れやすく、揺れ動きますが、キリストの「愛」は「愛」そのものですから、私たちがキリストに根ざすなら、地中深く根を張って、「愛」にしっかりと立たせてくださいます。私たちの内に働く御力によって、私たちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる「神」は、私たちが考えているよりも、はるかに広く、大きいのです。私たちの力ではありません。神の力です。しかし、神の絶大な力も、私たち抜きではありません。私たちを通して行われます。それは祈る私たちの内に働いて、神が事をなさるのです。

 

 

 9月18日

「神の富と知恵」  武 公子牧師

  箴言3章13~20節

  ローマの信徒への手紙11章33~36節

 

 この世には、小さな罪はたくさんあります。しかし、神が「あなたを赦す」と言われるのに受け入れないこと、神が私を憐れんでくださるその現実から離れて生きようとすること、また神が「すべてを救ってくださる」と言われるのに、「私は救われない」あるいは「あの人は救われない」と信じること、それらが最大の罪なのです。

「福音」はユダヤ人に拒絶されたことによって、異邦人にもたらされました。イスラエルの不従順は、神の救いの目的を果たすために役立ったのです。それは「愛」である神の不思議なご計画に他なりません。けれどもユダヤ人も「救い」からはずされてはいません。彼らの先祖に与えられた約束は取り消されることはないからです。異邦人がすべて救われてから、ユダヤ人が全部救われるのです。こうしてすべての人が救われるのです。パウロがどんな困難にも屈することなく、異邦人伝道を進めていくのは、その働きが同胞のユダヤ人の救いにもつながると確信しているからです。そして、すべての人の救いを望み、イエス・キリストを遣わされた神の「愛」がパウロの心に注がれているからです。

かつては異邦人であるあなたがたが、神の憐れみを受けたのであれば、今、不従順であるユダヤ人が憐れみを受けるのも確実です。神がすべての人を「不従順」の中へ閉じ込めたのは、すべての人を憐れむためです。つまり、神の憐れみは、私たちにも当てはまることです。

 

 

 9月25日

「永遠の住み家」  武 公子牧師

  ダニエル書12章1~4節

  コリントの信徒への手紙二 5章1~10節

 

 私たちは「死」によって肉体と霊が分離しますが、霊は裸のままではありません。神によって「復活」の新しい体が備えられていることを知っています。けれども私たちが地上を生きてきた生活は、決して「無」にはなりません。それどころか地上で生活したことが力を発揮します。キリストに従った生涯、苦難に満ちた生涯、この世的には恵まれなかった生涯も神に覚えられて、その上に新しい霊の体をいただきます。それは私たちが地上で生きた体とは、全く無関係なものではありません。その証拠に、キリストの復活の体には、十字架の傷痕がはっきりついていました。キリスト者はすでにこの世にあって「天から与えられる住みかを上に着る」ことを保証する「聖霊」を与えられています。パウロはこの死ぬべき体の上に、重ね着をするように、復活の体をかぶせていただき、死をも恐れないで福音を宣べ伝えました。「死」は私たちを「裸のままで終わらせる」出来事ではありません。「天から与えられる住みかを着させる」出来事なのです。私たちが終わりの日をどのように迎えるにしても、この世にある間は、ひたすら主に喜ばれる者でありたいと思います。

 

2016年8月

 8月7日

「神からの真理」  武 公子牧師

  ヨブ記28章12~28節

  コリントの信徒への手紙一 2章11節~3章9節

 

 コリントの教会内で争いがありました。パウロがかつて種をまき、キリストを土台に据えた教会です。パウロが去った後、アポロという有能な指導者が現れました。ある人は、「わたしはパウロに」、他の人は「わたしはアポロに」と争いました。教会はイエスさまを救い主と信じ、その信仰によって洗礼を授かり、イエスの教えに従って生活している人々の群れです。ですから教会の中心はいつもイエス・キリストです。パウロは言います。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」どのような素晴らしい指導者が現れようともほめ讃えられるべきは神です。信仰にも成長の段階があります。相変わらずコリントの信徒の人たちは、「肉の人」であり、信仰においては乳飲み子でした。パウロはいつもその人にあったものを与えます。一方「信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります」(2章6節)。キリストの十字架と復活の出来事こそ深い神の知恵にほかなりません。しかし、世の知恵は、それは愚かなことであり、理解することができません。「神の霊」をいただいた者だけが、すなわち「キリストの心」を心として生きる者だけが、「神からの真理」を知るのです。

 

 

  8月14日

「霊に従う生き方」  武 公子牧師

  出エジプト34章4~9節

  ローマの信徒への手紙7章1節~6節

 

一言で言うなら、ここでは、「あなたが別人になる道」が述べられています。「古い自分」からどうしたら逃れることができるのか。頭だけのキリスト教ではダメです。「体」のキリスト教が必要です。教会の「洗礼」や「聖餐」が体を表しています。そこにおいてあなたは「別人」になるのです。次の三つのようにあなたは変わります。

 (1)死者の中から復活させられた方のものとなり(4節)

 (2)死ぬことを通して、神に対して実を結ぶようになる。(4節)

 (3)“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになる。(6節)

 キリストの体を通して、つまり抽象的な、観念的なことではなく、洗礼を受けたことも、単なる自分の、人間の意志ではありません。神の決定、神の選びが、私の中に起こったのです。2000年前、歴史の中で、十字架のキリストの中に起こったことが、今、私の身に起こるのです。それは出来事を起こされる神が、私の中に起こされる変化です。「律法」に従っても、神に仕えることはできますが、そこには新しい霊の喜びはないので、すぐ疲れてつぶやき始めます。しかし、聖霊に動かされて、神と隣人に仕える生き方には、喜びと感謝が溢れます。

 

 

 8月21日

「新しい人間」  武 公子牧師

  出エジプト13章17~22節

  エフェソの信徒への手紙5章11節~20節

 

 以前は暗闇だった私たちは、今は主に結ばれて光となっています。もはや実を結ばない闇の業に手を貸さないで、むしろ、その誤りを明るみに出します。私たち自身がその闇の業を指摘するというよりは、キリストという光が誤りを悟らせます。そのとき、闇に属している者たちも、光にさらされて、闇から光へと変えられます。光へと変えられた者は、次の隠れた業を照らし出します。悪い業も、良い業も伝染していきますから、光の子たちは悪循環を断ち切って、良い循環が行われるようにします。キリスト者は、暗闇の業に加わらないだけでなく、闇を光に変える光源をもっています。光源とは「わたしは世の光である」(ヨハネによる福音書8章12節)と言われたイエス・キリストに他なりません。私たちは神の恵みによって、今はキリストを知り、真の神に出会って「神にかたどって造られた新しい人」(4章24節)とされました。新しくされた者は、聖霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌います。「聖霊に満たされる」ことが本物なら、神への賛美と感謝をもって現れます。

 

 

 8月28日

「神に属する者」  武 公子牧師

  エレミヤ書28章1~17節

  ヨハネの手紙一 5章10~21節

 

 私たちは洗礼の恵みによって、イエス・キリストに結ばれて神のものとなりました。「神に属する者」とは、この私はもはや誰のものでもなく、私自身のものでさえなく、ただ神のものとされている神の現実です。ここに思いを致すとき、世の悩みや思い煩いから解放されて、すでに永遠の命に生かされている事実に平安と喜びがやって来ます。イエス・キリストこそ、真実の神、永遠の命です。御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。

 祈りと「愛」は結びついています。神は隣人のためにささげる「執り成しの祈り」を聞き入れて下さいます。「死に至らない罪」を犯している兄弟のために祈るなら、神はその人に命をお与えになります。これこそ神の御心に適った祈りです。私たちはすでに神のものとされて、永遠の命に生きる者ですが、なお悪魔の支配下にあるこの地上に生きる途上の者です。キリスト者は罪を犯さない完全な者になったのではなく、不完全でありながら、完全なお方のものとされているゆえに、地上の旅を続けることがきます。

 

2016年7月

 7月3日

「復活の希望」  武 公子牧師

  ミカ書7章14~20節

  使徒言行録24章10~21節

 

 パウロはユダヤ人たちから民衆を扇動する者、神殿を汚す者として告発されます。そしてローマ総督の前に立ち、パウロは理路整然と一つずつ弁明します。結局、彼らは何一つ証拠を挙げられませんでした。実はパウロが裁判にかけられた本当の理由は、死者の復活を信じていることでした。国家が価値観に対しては口出しできないのですが、パウロは反対に法廷の場を宣教の場に変えてしまいました。パウロが命がけで宣べ伝えたのは、イエス・キリストの死と復活の福音でした。わたしたちは洗礼によって、古い自分に死んでキリストに結ばれて、すでに新しい命を生き始めています。まだ完成はしておりませんが、終わりの日には、主と同じ栄光の体で復活するのです。それは漠然とした願いや期待ではありません。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(Ⅰコリント15:20)。この事実が根拠としなっています。人間が死を恐れるのは、神から離れた罪の状態にあるからです。罪の結果が死です。しかし、ほむべきかな。キリストの死と復活によって、すでに「死のとげ」(Ⅰコリント15:56)すなわち罪は完全に取り除かれたのです。もはやわたしたちは死を恐れる必要はなくなりました。なぜなら死の先にあるのは、滅びではなく、復活の命だからです。

 

 

 7月10日

「破局からの救い」  武 公子牧師

  イザヤ書43章1~13節

  使徒言行録27章33~44節

 

 パウロは今嵐の海上にいます。嵐は自然現象ですから、嵐自体にはなんの意味もありません。しかし、そこに信仰者がいるなら意味をもちます。普通の人にとって嵐は恐れや不安を引き出すのみです。しかし信仰の人、パウロはそこから神の摂理を導き出します。ローマ皇帝のもとへ護送するパウロたちを乗せた船は、途中で嵐に遭い、幾日も暴風が激しくふきすさぶ中、ついに助かる望みは全く消えようとしていました。パウロは皆の中に立って言いました。「元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失うものはないのです」(22節b)。昨夜天使が来てパウロに伝えたのです。神は一緒に航海しているすべての者を、パウロに任せました。神の声は、利害にとらわれない人、使命に生きる人、望みを失わない人に聞こえます。一同は元気づけられて、神に感謝して食事をし、十分に食べてから、穀物を海に投げ捨てて船を軽くしました。わたしたちは十字架の上で流されたイエス・キリストの血と肉によって救いにあずかります。船上における人間のエゴイズムが渦まく中、それさえも用いて、神は着々とみ旨を実現されます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。こうして神の天使が告げた通り、だれ一人として命を失うことなく全員が無事に上陸しました

 

 

 7月17日

「キリストの」  上竹裕子牧師(磐城教会)

  イザヤ書50章4~9節、53章2~5節

  ルカによる福音書9章51

 

 イザヤ書には「しもべの詩」と呼ばれる独立した4つの詩があり、これらの詩はキリストを指し示します。しもべの詩に「彼は…病を知っている」(53:3)という言葉があります。「病」という言葉が3度繰り返されます。キリストは神の子でありながら、しもべとして「病」を負われたのです。聖書の「病」は、現代人のそれとは異なり、もっと全人的なものです。多くの人は病に相対するとき、病名や治療方法にしか関心を持ちません。弱さの克服を最重要の課題とします。しかし、主は、ご自分の道から弱さを排除されませんでした。その身に病が降りかかるとき、その道を自ら断たず、退かず、歩み続けられました。わたしたちの心を掘ると、弱さ、暗澹たる病が溢れ出てくるかもしれません。しかし、さらに深く掘るとき、その場所で声が聞こえます。「しもべよ、知っているよ」という主の声が。わたしたちが重い心を担うとき、深いところにキリストがおいでくださるのです。

 

 

 7月24日

「わたしの記念として」  武 公子牧師

  箴言9章1~11節

  コリントの信徒への手紙一11章23~29節

 

 主イエスによって聖餐式が制定されたのは、過越祭の晩餐の席でした。「すなわち、主イエスは、引き渡される夜」とあります。それはどのような「夜」であったのか。弟子たちに裏切られ、敵の手に引き渡された夜でした。また父なる神が世を救うために、御子を人類に引き渡された夜でもあります。主イエスは御受難を前にして、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」とパンを裂いて、弟子たちに与えました。弟子たちはイエスの深い御苦しみをよそに、だれが一番偉いかと議論をしている有様です。(ルカ22:24)。そのような自己中心的で、弱い私たちのために主イエスは聖餐を制定されました。私たちは一編の説教を聞くだけで、信仰を堅く保つことができるほど強いでしょうか。恵みによって、私たちは見えない神の言葉である「説教」とともに、見える神のみ言葉として「聖餐」が与えられました。「洗礼」は一回限りの恵みの出来事ですが、「聖餐」はその度ごとの洗礼です。私たちは終わりの日まで、繰り返しこの聖餐に与かることで、主の十字架の意味を思い起こし、主イエス・キリストの再び来られる時まで、その意味を証し続けます。

 

 

 

 

 7月31日

「信仰による勝利」  武 公子牧師

  士師記6章36~40節

  ヨハネの手紙一 5章1~5節

 

 ふつう掟や律法を守ることは、束縛であり重荷と思われます。しかし、ここでは神の「掟」を守ることは、難しいものではない、重荷ではないと断言しています。私たちも愛する人の命令なら、それは重荷どころか喜びのはずです。その時は、もはや指示の内容によってではなく、その指示を与えた方の「愛」によって、私たちは動きます。イエス・キリストへの「愛」が増せば増すほど、私たちはイエスの命令は重荷ではなく、むしろ従順と喜びをもって従えるはずです。「神を愛するとは、神の掟を守ることです。」神から生まれた者たちは、父である神を愛するだけでなく、同じ父をもつ兄弟としても互いに互いを愛することになります。「世」とは神を否定し、神に敵対する勢力を意味します。そのような「世」は私たちの外だけでなく、私たちの内にもあります。自分が世であるなら、世に打ち勝つことはできません。しかし、復活したキリストによってすでに悪の世は打ち破られています。「だれが世に打ち勝つか。」私たちはイエスを神の子、救い主と信じる信仰をもって「世」に打ち勝ちます。

 

 

2016年6月

 6月5日

「信仰の道」  武 公子牧師

  ハバクク書2章1~4節

  ヨハネの手紙一 2章22~29節

 

 紀元100年前後の教会の中には、イエスがメシア(救い主)であることを否定する偽り者や反キリストが忍びこんで来ました。偽り者とは、自分は罪を犯したことがなく、神を知っていると言いながら、神の掟を守らない者です。反キリストとは、キリスト教の顔をしながら、キリスト教に反することを言い広める者です。当然、教会は彼らに惑わされ、教会は動揺しました。ヨハネの手紙はそのような教会の動揺を鎮めるために書かれたと言われます。ユダヤ教はイエスをメシアとは認めません。イスラム教もイエスを尊敬はしていても、預言者の一人に過ぎません。教会は「イエスがメシアである」という信仰告白の上に建っています。「初めから聞いていたことを、心にとどめなさい」とあります。初代の弟子たちから教会を通して伝えられてきた信仰告白は、2000年後のわたしたちのもとへ伝えられてまいりました。ですからペトロの信仰も、わたしたちの信仰も一つです。教会から教会へと伝えられてきた信仰は生きています。ヨハネは繰り返し「御子の内にいつもとどまりなさい」と警告します。信仰とはイエス・キリストの内にとどまり続けることに他なりません。わたしたちは、これからも主日礼拝において父、子、聖霊なる三位一体の神を崇め、「イエスがメシアである」と公に信仰を言い表します。

 

 

 6月12日

「天のエルサレム」  武 公子牧師

  ミカ書4章1~7節

  ヘブライ人への手紙12章18~29節

 

 旧約の世界では、神との出会いの場は、シナイ山でした。神が顕現されたときのおそろしい様子が描かれています。モーセが神の律法を授与するために山に登りますが、あまりの恐ろしさにモーセすらおびえ震えました。神の声が直接語られた者は死ぬと考えた民は、モーセに仲介を頼みました。(出エジプト20章19節)。神に近づくことができたのはモーセだけでした。しかし、新約の世界では、キリストが神の仲介者となられたので、すべてのものが神に近づくことができるようになりました。その救いと恵みは旧約の人々に勝るものです。キリスト者は終わりの日に神の前に立つのを目指して歩みます。それは同時にすべての人にとって神の裁きと報いの時であります。「わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう」と主は言われます。滅ぶべきものが滅ぼされ残りのものが残されるときです。わたしたちはその日を喜びをもって待ち望むことができます。なぜならキリスト者の集会は、すでに天に名前が登録されているからです。キリストは神の御座について、救いの保障となってくださいました。「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」(ヘブライ人への手紙4章16節)。

 

 

 6月19日

「教会の新しい出発点」松本のぞみ牧師(上尾使徒教会)

  創世記1章1~5節

  ルカによる福音書24章13~35節

 

 イエスさまが復活せられた後も、二人の弟子は失望し、嘆き、エマオへ行こうとしていた。そこへイエスさまが現れて共に歩み、道すがら聖書全体について丁寧に教えられた。

 二人の弟子は家に近づくと、なお先に行こうとされるイエスさまを家に引き留め、食卓を共にした。そのとき、はじめて二人の目は開け、それまでの迷いが晴れて、復活されたイエスさまを認めることができた。

 復活の主は、人生の夕暮れに嘆く私たちと共に歩み、語りかけ、私たちの終わりだと思うところに留まることを望まず、なお先にゆかれる。この方に、私たちの家に泊まってくださいと祈り求める礼拝に、教会の新しい出発点がある。イエスさまと食卓を共にするとき、私たちのうちに「主は生きておられる」との信仰が新たに起こされ、心燃やされる。ここから新しく、復活の主と共に歩き出すものは、暮れてゆく道を歩くのではなく、しだいに明けてゆく朝の光のなかを歩いてゆく。

 

 

  6月26日

「生命の回復」  武 公子牧師

  ホセア書14章2~8節

  使徒言行録9章36~43節

 

 人々に慕われていたタビタと言う婦人の弟子が病気になって死んでしまいました。神さまのなさることは、時にわからないことがあります。

 ペトロは呼ばれて、ヤッファの町に行き、タビタの遺体が安置されている部屋へ案内されました。かつて主イエスが少女を生き返らせたときと同じ仕方でペトロは遺体に向かいました。彼女は生命を回復しました。ペトロではありません。イエス・キリストです。「主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」(マルコ16:20b)のです。このことは町中に知れ渡り、多くの人が主を信じたのでした。病はサタンの使いと言われますが、いやされても、いやされなくても、神の栄光のために与えられる場合があります。いやしの業はあくまでもしるしですから、何かを指し示していなければなりません。タビタの生命の回復は、イエス・キリトの復活のしるしです。復活の主が確かにわたしたちの中に生ける業をしてくださるという、不思議な現れです。「死」はすでに、主ご自身の死と復活によって打ち破られました。「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」(ローマ14:8)

 

 

2016年5月

 5月1日

「キリストの勝利」  武 公子牧師

  出エジプト記33章7~11節

  ヨハネによる福音書16章25~33節

 

 「苦しみ」はだれもが避けたいものですが、だからといって「苦しみ」はすべて悪いものなのでしょうか。「産みの苦しみ」という言葉がありますように、真の「喜び」は、「苦難」とつながっています。今、イエスさまは、愛する弟子たちを闇の力の渦巻く世に残して、父なる神のみもとへお帰りになります。弟子たちの心は悲しみでいっぱいです。彼らは今に至って「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」と信仰を告白します。しかし、世の中は天国でも、神の国でもありませんから、苦難が必ずやってまいります。そのとき弟子たちはイエスを捨てて逃げてしまいます。イエスさまはたったひとり十字架に上ります。「しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ」と十字架の死に至るまで神に従いました。十字架は実に産みの苦しみの始まりでした。イエスさまが受けてくださった懲らしめによって、わたしたちに神の平和が与えられました。十字架はついに復活そして昇天へと続き、さらに約束の聖霊が、み名によって集められた信徒たちの上に降りました。そこに新しい生命体である「教会」が誕生したのです。新しいものがこの世に生み出されるためには、必ず何らかの苦しみが伴います。生まれ出たものの喜びのためにもはやその苦痛を思い出しません。悪いのは苦しみそのものでなく、意味のない苦しみです。十字架は神の栄光の現れる場となりました。十字架はキリストの勝利です。それはまだわたしたちの勝利ではありませんが、わたしたちの勝利の先取りです。「世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか」(ヨハネの手紙一5章4,5節)。

 

 

 5月8日

 「キリストの昇天」  武 公子牧師

  列王記下2章1~15節

  ヨハネによる福音書7章32~39節

 

 仮庵祭では、毎日シロアムの池から水を汲んでエルサレム神殿まで運び、祭壇に注ぐ行事が行われます。エジプトから救出された先祖たちが、荒れ野の旅で飲み水がないとき、主が水を備えて下さったことを記念して祝います。イエスさまは、この祭りで「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と言われました。聖書に「わたしは乾いている地に水を注ぎ、乾いた土地に流れを与える」(イザヤ書44章3節a)とあります。イエスさまのところに来た者は、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになります。「生きた水」とは「聖霊」に他なりません。聖霊なら上から注がれるはずですが、イエスさまは「その人の内から流れ出るようになる」と言われました。

 わたしたちは、水のバプテスマを受けて信仰に入りましたが、「聖霊」を受けて、真に慰め、支え、力を与えられます。聖霊は、キリストの霊に他なりませんが、求める者はだれでも与えられます。ただし条件が一つだけあります。「渇いている者」ならです。渇いた者だけが水の有り難さがわかるように、魂の渇いている者だけが、聖霊がわかります。イエスさまは十字架、復活の後、昇天されますが、天から聖霊を遣わしてくださいます。聖霊は祈り求める、渇いた魂のところに来てくださいます。聖霊がその人の内に住まわれるなら、その人は「生きた水」が川となって流れ出るように、周りの人々にまで影響を与えるほどになります。

 

 

 5月15日

「聖霊、来たり」  武 公子牧師

  エゼキエル書37章1~14節

  使徒言行録2章1~11節

 

 ペンテコステの出来事は、人間の計算や予知を超えた、全く神の側からの出来事でした。一同が復活のイエスの約束を待ちながら、一つになって集まっていると、神の時が満ちて聖霊が降りました。炎のような「舌」が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまりました。聖霊は十把ひとからげに燃やすのではなく、一人一人を大切にします。聖霊は私たちの内に働く神ご自身です。

 五旬祭の日が来て、世界のあらゆる国々からユダヤ人たちが、エルサレムに帰って来ました。一つの声が聞こえたので、大勢の人々が集まって来ました。聖霊に満たされた弟子たちは、もはや自分中心の言葉でなく、相手にわかる言葉で、神の偉大な業を語り出したのです。だれもかれも自分の故郷の言葉が、ガリラヤの人たちによって話されたのですから、皆、あっけにとられました。話されたのは「外国語」とも、「異言」ともとれます。異言は「神の言葉」ですから、それが外国語のように聞こえたのかもしれません。信じる者は「新しい言葉」を語るのです。今、使徒たちが新しい「舌」で語ります。使徒たちが語るというより、父・子・聖霊なる神が、彼らの「舌」を用いて語られます。“霊”が語らせるままに話すとき、もはや私たちは自己中心に語るものではなく、“霊”に従って生きるものへと創り変えられます。

 

 

 5月22日

「真理の霊」  武 公子牧師

  イザヤ書40章12~17節

  テモテへの手紙一 6章11~16節

 

 旧約の時代には「父なる神」として働いた神は、新約の時代には、「子なる神」として、そして教会の時代には「聖霊の神」として、神の民を導きます。しかし、それぞれが別々に働くのではなく、三位一体となって配慮し、人間を守り、真理を悟らせるために導きます。「三位一体」の神は、父と子と聖霊の三つにいまして、一人なる神であられます。イエスは、「わたしは自分勝手に語るのでなく、父が命じたことを語る」と言われ、聖霊もまたイエスの言葉を語ります。

 教会が成長発展するとともに異なる教えも入り込んで来ます。地方の教会で、日々、苦難や試練と戦っている若き指導者テモテをパウロは勇気づけます。「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。」イエス・キリストは、今は地上におられませんが、霊なる神として私たちのところに来られ、助け主、慰め主となって下さいました。三位一体の神は「理論の神」ではありません。「交わりの神」なのです。あなたの中に来られ、あなたの中にいます神、それは天にいまし、すべてを超越しておられる神と全く同じ神なのです。あなたを包み、愛し、守る、生きた交わりの神です。

 

 

 

 

 5月29日

「神の民の誕生」  武 公子牧師

  申命記6章17~25節

  ローマの信徒への手紙10章5~17節

 

 神はイスラエルを、御自分の「神の民」として選ばれました。そして恵みとして神の律法をお与えになりました。しかし、彼らは律法や戒めを守ることよりも、人間的な判断を優先させてきました。その結果、失敗や災いを招きますが、それにもかかわらず、神は民との契約を守り、見捨てることはありませんでした。しかし、義なる神は、罪をあいまいにはなさいません。神は御子を世に遣わし、彼らの罪を問うことなく、イエス・キリストにその罪を負わせて、十字架の上で御子を処断されました。律法による行いの義ではなく、信仰による神の義が現れました。パウロは、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(ローマ32324)と述べています。わたしたちはわざわざ天にまで上らなくても、底なしの淵に下らなくても、救い主イエスは向こう側からあなたのところに来て下さいました。わたしたちのなすべきことはただ一つ、神の愛と恵みを素直に受け取りさえすればよいのです。そして心から神に感謝と賛美をささげます。キリストの血によって贖い取られた教会こそ、新しい「イスラエル」であり、キリストの言葉を聞く群れこそ新しい「神の民」なのです。

 

 

2016年4月

 4月3日

「あなたがたに平和があるように」 武 公子牧師

  出エジプト記15章1~11節

  ヨハネによる福音書20章19~31節

 

 弟子たちは家の戸にも、心の戸にも鍵をかけてひそんでいた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われ、手とわき腹の傷をお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。御父がイエスを遣わされたように、今度はイエスが弟子たちを遣わして宣教の使命を継続させます。弟子たちに息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい」と言い、弟子たちに、すなわち教会に、「罪を赦す」権能をお与えになりました。

 イエスは集団ばかりでなく、個人にも関わってくださいます。弟子たちが「わたしたちは主を見た」と言っても、トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言った。次の日曜日、イエスは再び弟子たちの間に顕現され、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そしてトマスに「あなたの指をここに当てて、・・・また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」と言われた。復活のキリストの顕現に、彼はもはや検証を求めようとはせず、むしろ、なぜ主が十字架にかけられたのかを求めます。本来ならこの私が受けるべき神の裁きと呪いを、私に代わって主が受けて下さったと悟ります。トマスは「わたしの主、わたしの神よ」とひれ伏します。復活の主は集団にも、個人にも深く関わってくださり、聖霊を与え、私たちを宣教の使命へと遣わされます。

 

 

 4月10日

「復活の朝の食卓」  武 公子牧師

  イザヤ書61章1~3節

  ヨハネによる福音書21章1~14節

 

 復活後、イエスが弟子たちに現れたのはこれで三度目になります。舞台はエルサレムからガリラヤへと移ります。「わたしは漁に行く」とペトロが言うと、他の弟子たちも「わたしたちも一緒に行こう」と言います。弟子たちは、もとの漁師の生活に戻ろうとします。しかし、その夜は何も取れませんでした。夜が明けたころイエスが岸に立っておられたが、意気消沈した目にはわかりませんでした。そのお方の指示通り、舟の右側に網を打つと大漁でした。いち早くイエスの愛しておられたた弟子が、「主だ」と言った。愛はいつもめざとくものを見つけます。ペトロはそれを聞いてあわてて上着を着て湖に飛び込みます。「さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。」「イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。」ここで私たちは聖餐式の場面を想い起こします。主の食卓とは、イエスが私たちを招き、イエスを囲んでなされる食事のことです。それは「神の国」の祝宴の先取りでもあります。神と人とが、また人と人とが近づき、交歓する、祝いの時です。おびただしいほどの魚がとれたのに、網は破けていません。「網」はすべての人類がイエス・キリストによって救われるという象徴です。伝道とは一人でも多くの人をイエスと共なる喜びの食卓へ招くことです。主イエスは「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」(ルカ5:10)と私たちを伝道へとお遣わしになります。

 

 

 4月17日

「わたしの羊を飼いなさい」  武 公子牧師

  イザヤ書62章1~5節

  ヨハネによる福音書21章15~25節

 

 復活の朝の食事が終わると、イエスはペトロに名指しで「わたしを愛しているか」と言われた。イエスが三度も繰り返して「わたしを愛しているか」と言われるので、ペトロは悲しくなりました。というのも、イエスが十字架に向かう時、予告通り、ペトロは三度も主を否認してしまったからです。そのことが今も彼の心の中でうずいていました。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」としか言えません。ペトロはもはや愛において、自信も確信もありません。真理や愛に関して、遠回しや不明瞭は真実ではありません。真理も愛も単純で直裁です。主は三度目に「ヨハネの子シモン、わたしを好きか」と言われます。ペトロの過ちや失敗に一言も触れずに、愛によって罪を覆われます。こうして主はペトロの名誉を回復して立ち上がらせます。そして、すかさず主は「わたしの羊を飼いなさい」と牧会の使命を委託します。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ1011b)。「イエスの羊を飼う」ということは、すなわちイエスさまを愛することであり、羊のために命を捨てることです。将来ペトロは、殉教して神の栄光を現すでしょう。では「イエスの愛しておられたあの弟子」はどうなるのでしょうか。ペトロは、ヨハネのことが気になります。イエスはペトロに「あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」と言われます。他の人のことは心配しなくても、主がちゃんと配慮して下さいます。私たちはただ自分に示された道に従えば良いのです。

 

 

 4月24日

「真理の霊が来るとき」  武 公子牧師

  エゼキエル書36章24~28節

  ヨハネによる福音書15章18~27節

 

 イエスは「別れの説教」において、これから弟子たちに降りかかってくる迫害について覚悟を促します。弟子たちはなぜ憎まれるようになるのか。理由は、イエスが弟子たちを世から選び出して、イエスに属するもの、すなわちイエスのものとされたからです。世はイエスを憎み、ついには十字架につけて殺してしまいます。したがって弟子たちが憎まれることは必然です。しかし、世はイエスにした以上のことはできません。ユダヤの指導者たちは神を知っていると言いながら、イエスを世に遣わした神の「愛」を知りません。彼らはイエスの行なった多くのしるしと不思議な業を見ても信じません。父なる神とイエスはひとつですから、イエスを憎む者は、父なる神をも憎んでいることになります。イエスが人々から理由もなく憎まれることは定められていて、旧約聖書の言葉が実現するためでした。

 イエスが父のみもとに帰ることによって、かえってイエスと弟子たちの関係は緊密になります。なぜならイエスに代わって「聖霊」が遣わされるからです。この方は「弁護者」、「真理の霊」とも呼ばれ、弟子たちと共におり、これからも、彼らの内にいるからです。この真理の霊が来る時、その方ご自身がイエスについて証しをなさいます。しかし世に向かってイエス・キリストを「証し」するためには器が必要です。わたしたちはただ自分を差し出しさえすれば、あとは神が証しの器としてくださいます。

 

2016年3月

 3月6日

「香油を注がれた主」  武 公子牧師

  サムエル記上9章27節~10章1,6,7節

  ヨハネによる福音書12章1~8節

 

 純粋で非常に高価なナルドの香油を、マリアは惜し気もなくイエスさまの足に注ぎました。家は香油の香りでいっぱいになりました。これを見ていた弟子の一人イスカリオテのユダが「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と厳しく彼女をとがめます。大変な無駄遣いだと言わんばかりです。ユダの言い分は、いかにも合理的で、人間味のある言葉に聞こえます。しかし、「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」(6節)。口で言う事とお腹の中は全く違っていて、ちょうど悪い政治家のようです。彼はマリアのことを批難することによって、自分の立場を守ろうとました。マリアはイエスさまへの愛と感謝から、ナルドの香油をこの時のために準備してきました。彼女はできる限りのことをしたのです。尊い価値あるもののためには惜しみなく捧げて悔いは残りません。イエスさまは言われました。「この人のするままにさせておきなさい」。実は、マリアの「香油注ぎ」には二つの重要な意味がありました。一つはイエスさまの体に塗油したことによって、やがて来たるべきイエスさまの死と埋葬の準備が前もってなされたことです。もう一つは、「王」の即位が「油注ぎ」をもって宣言されるように、マリアはイエスこそわたしたちの「メシア」であることを、その行為によって表明したのでした。

 

 

 3月13日 東日本大震災5年記念礼拝 

「神はどこにおられるのか」  武 公子牧師

  マルコによる福音書15章31~34節

  ローマの信徒への手紙12章2節

 

 イエスは、自分を捨てたとしか思えない神に向かって「わが神、わが神」と大声で叫ばれた。それは絶望の叫びだったのか。十字架に至るまで全幅の信頼を持って従ったイエスは、神の沈黙の背後に必ずまだ見ぬ神の御計画があると信じていました。だから「なぜですか」と神に向かって嘆かれたのです。「嘆き」は神に向けられるなら、それは「祈り」になりますが、神以外のものに向けられるなら、それは「絶望」や「愚痴」になりかねません。イエスが息を引き取られた時、神は神殿の幕を裂いてしまわれました。これによってすべての人にとって神との直接の交わりが可能となりました。しかしながら、神は人間の都合によって呼び出されたり、人間の思い通りになる「機械じかけの神」ではあられません。このような「神理解」を根本的に変えていただくことが、真の悔い改めにほかなりません。キリストの死は完全な贖いの供え物となりました。東日本大震災における無数の無辜(むこ)の民たちの犠牲の死は、キリストをもはや何度も十字架につけてはならないことを教えます。「神はどこにおられるのか。」イエス・キリストはいと小さき者のうちにおられます。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」(ローマ121)。これこそ神の望んでおられる私たちのなすべき「礼拝」です。

 

 

 3月20日

「十字架への道」  武 公子牧師

  創世記22章1~18節

  ヨハネによる福音書18章1~14節

 

 イエスは、弟子たちと共に度々集まっていた園の中へ入られた。イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。なぜイエスはあえてそのような危険な場所へ行かれたのか。イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられたにもかかわらず逃げも隠れもしませんでした。それは、イエスが決して受け身となって捕えられたのではなく、むしろ主体的に、自覚的に、ご自身をあらわにされるためでした。イエスの逮捕の舞台において、主導しているのは、一隊を引き連れてきたユダでもなく、松明やともし火や武器を手にしていた兵士でも、下役でもありません。その中心にはイエス・キリストが決然として十字架への道に立っておられました。イエスに自分たちが守られていることも忘れて、ペトロは剣を抜いて大祭司の手下の耳を切り落としました。剣を抜くことは、神の御業を成し遂げるものではなく、むしろ妨げるものです。「剣」は広い意味では、この世の力、金の力、武力、人間の知恵や力を表します。私たちも問題を解決するために、この世の力に依り頼もうとする誘惑が起こりますが、それは決して真の解決にはなりません。しかし、この世に生きるキリスト者も「力」が必要です。その「力」とは何か、どこから来るのかを聖書に学びます。パウロは、「霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」(エフェソ6:17)と申します。主イエスから来る神の言葉こそ私たちの「力」です。

 

 

 3月27日

「キリストの復活」  武 公子牧師

  イザヤ書55章1~11節

  ヨハネによる福音書20章1~18節

 

 日曜日の朝、早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアはイエスの納められている墓へ行った。驚いたことに墓の石は取りのけられてあった。そこで、彼女はペトロとイエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って、主が墓から取り去られたことを告げた。二人の弟子は墓に向かって走って行った。もうひとりの弟子が先に着いたが、中に入らなかった。ペトロも着いて、墓に入ると亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、離れた所に丸めてあった。彼が見たのは、墓の中の様子であり現状を確認した。もう一人の弟子も入って来て、見て信じた。彼が見たのは、その現状の背後に起こったことを察した。彼は主が復活されたことを見ないで、信じたのでした。

 一方マリアは、イエスの遺体にこだわり続けて、墓の外で泣いていた。過去のイエスとの懐かしい思い出を断ち切れずにいる。墓に向かう視線を移したとき、主が立っておられるのが見えた。だが、まだわからない。「マリア」と自分の名前を呼ばれて振り向いてイエスだと知るのでした。すがりつこうとするマリアに、主は「わたしにすがりつくのはよしなさい。」と拒絶される。「復活」とは、単に生き返って今までの過去の生活を再開させることではないからだ。イエスはマリアに今、目の前で起こっていることを伝えることを求められた。マリアは「わたしは主を見ました」と弟子たちに伝えて、最初のイエス・キリストの「復活の証人」となったのでした。

 

 

2016年2月

 2月7日

「よい知らせは世界中で」 キスト岡崎さゆ里宣教師

            (日本キリスト教団協力宣教師)

  コロサイの信徒への手紙1章22~29節

 

 日本の教会の伝道はふるわない、このままでは次の世代はどうなるという危機感を募らせる言葉をよく聞きます。しかしそもそも何のために伝道するのでしょうか。パウロは回心後、自分のすべてをキリストのためにささげた強い伝道のモチベーションがありました。それは、今や御子の死によって神の前に聖なる者としていただけた(22節)ことを確信して心から感謝し、この「福音の希望」が世界中で共有されているスケールの大きなものであることを実感していたからです(23節)。

もし自分の信仰を「私の心の中だけのもの」などとして伝道を遠慮したりするならば、それはキリストの救いを私物化して主の贖いを小さくしていることです。キリストが命がけで私たちのために得てくださった神の国の国籍(フィリピの信徒への手紙3章:20節)。すべての人にそのチャンスが与えられていることを告げ知らせるのが伝道です。その栄光を、私たちはキリストのお苦しみの意味がなお欠けているこの国で宣べ伝えなければなりません。

 

 

 2月14日

「天使たちが来てイエスに仕えた」 武 公子牧師

  出エジプト記17章3~7節

  マタイによる福音書4章1~11節

 

 なぜイエスさまは悪魔から誘惑を受ける必要があったのでしょうか。無論それは私たちのためでした。イエスは、”霊“に導かれて、荒れ野へ行かれました。この”霊“は、神の霊ですが、神はイエスをただ一人荒れ野に残してイエスを離れます。荒れ野にはパンも水もありません。イエスは悪魔から誘惑を受けた時、弱く、孤独で、空腹でした。悪魔は世のすべての国々とその「栄光」を見せて、「もしひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った(9節)。イエスは、自分に代わって戦う「神の言葉」だけを持っていました。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」(10節)。この「神の言葉」によって、悪魔はイエスを離れ去りました。「誘惑」の初めには、「神の霊」がイエスを離れましたが、今、「誘惑する者」悪魔がイエスを離れました。すると、天使たちが来て、具体的な必要をもってイエスに仕えました。この「仕える」には「給仕する」の意味があります。「神の言葉」によって支えられる人間は、天の使いを通して、肉体と精神と霊において豊かな力を神から与えられます。一見、この世は悪魔の支配下にあるように見えます。しかし、この「試み」の始めと終わりは、神の支配が貫いています。イエスが悪魔の試みに勝利して、悪魔と断絶して下さったゆえに、私たちは「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と確信をもって祈ることができます。

 

 

  2月21日

「神の業が現れるために」  武 公子牧師

  列王記下6章8~17節

  ヨハネによる福音書9章1~12節

 

 現代でも、生まれつきの盲人や障害を持つ人に対して、それは先祖のたたりとか前世の因縁だとか言って、もっともらしい説明をつけようとする人たちがいます。しかし、それらは過去に対して原因を探ろうとする過去思想であり、宿命論であって、なんら積極的な意味を見出すことはできません。イエスの時代もそうでした。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」弟子たちの質問に対して、イエスはきっぱり否定します。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と将来からその意味と目的を教えます。人間が生まれながらに身に負う不完全さは「罪」ではありません。決して恥ずかしいことではありません。「罪」とはむしろ、自分は完全だとうぬぼれて、イエスを救い主と認めようとしない心、頑な心こそ「罪」というべきです。なぜなら「罪」は、人間がいち早く自分の中に見つけて、いやしてもらうべきものだからです。

 彼はイエスによっていやされて見えるようになりましたが、ユダヤ人たちは信じようとはしません。イエスに「肉の目」を開かれたこの盲人は、彼らの尋問や迫害を受ける中で、徐々に「霊の目」も開かれていきます。そしてついに「主よ、信じます」と信仰告白に至ります。人間でなく、神がなさろうとしていることに目を注ぐなら、宿命としか見えないような不幸なことでさえ、神の業が行われる「栄光」の場となります。

 

 

 2月28日

「受難の予告」  武 公子牧師

  ヨシュア記24章14~24節

  ヨハネによる福音書6章60~71節

 

 イエスが「わたしは天から降って来たパンである」(641)と言われた時から、人々のつぶやきが始まりました。彼らはイエスをヨセフの子としてしか認めず、天から降ってきたとは、とても承服できません。自分の判断や価値基準から脱皮できないなら、理解できない現実につぶやきが出てきます。「命を与えるのは”霊“である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」とイエスは言われます。自分の判断や価値基準だけにこだわるなら、どんなに頭が良くても、信仰のことはわかりません。このため多くの者が「実にひどい話だ」と言ってイエスのもとを離れ去りました。信仰の真理はいつも向こう側からやってきます。古い自分を脱皮させて、上からの招きに応じさせるのが霊の力です。イエスは12弟子に「あなたがたも離れて行きたいか」と尋ねます。ペトロは「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。」と答えます。

 一方、ヨシュアが仕えたい神の選択をイスラエルの民に求めた時、彼らは「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。」と答えます。信仰は決断することにほかなりませんが、人間の決断は崩れることがあります。「父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」と主が言われる通りです。わたしたちは自分の判断に従って、イエスから離れて行くのか、あるいは自分の判断を捨ててイエスの言葉に従ってゆくのか、その決断を常に求められています。

 

2016年1月

 1月3日

「人となりたる神のことば」  武 公子牧師

  イザヤ書40章25~31節

  ヨハネによる福音書1章14~18節

 

 「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」(創世記1:3)。根源的に言えば、神のことばが世界創造の根本にあります。神は造られたものすべてを「良し」とされました。ですからすべての被造物は神のことばを帯びています。世界が堕落するとはこの神のことばを失うことであります。神のことばは言いっぱなしでなく、必ず出来事となります。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」これはクリスマスの出来事です。「言」が見えるものになり、神が体をそなえた具体的な人間になられたということはわたしたちにとってなんという大きな恵みでしょう。御子イエスは、大工の息子として、マリアを母親として、わたしたちと全く変わらない人間の生活を営まれました。しかし、ユダヤ人たちには、目に見える神は神ではなく偶像でありますから、御子イエスは、神を冒涜する者としてユダヤ人たちに憎まれて、捕えられついに処刑されてしまいます。十字架につけられたまま降りてこようとしない神は、ユダヤ人にはつまずかせるもの、ギリシア人には愚かなものでしかありませんでした。神は僕の低い姿の中に隠されています。わたしたちが真に神を見るためには、肉眼の目でなく、信仰の目が必要になります。イエスさまの誕生も、十字架の死も、神さまの御意志でありました。この実現において神の栄光が現わされました。イエスさまは三日目に死人のうちよりよみがえり、復活によってイエスさまのご生涯と十字架のすべての出来事がわたしたちの救いのためであり、イエス・キリストにおいて、神さまがどのようなお方であるかが明らかになりました。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示された」(ヨハネ1:18)のです。

 

 

 1月10日

「世の罪を取り除く神の子羊」  武 公子牧師

  イザヤ書42章1~9節

  ヨハネによる福音書1章29~34節

 

 イザヤ書53章7節には「苦難の僕」の姿が、屠り場に引かれる小羊に譬えられています。この小羊こそ多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたキリストに他なりません。また出エジプト記12章には、「主の過越」として、傷のない小羊の犠牲があります。エジプトにいるすべての初子を主が撃ちますが、イスラエルの家だけは主が過ぎこされ小羊の血によって救われます。ヨハネはメシアを証しするために来た。知識においてメシアのことは知っていた。イエスの名も聞いていた。しかし、「わたしはこの方を知らなかった」とヨハネは言います。つまりイエスとの交わりにおいても、体験にもおいても欠けていたのです。ヨハネは、“霊”が鳩のように天から降って、イエスの上にとどまるのを見た。すると神が、「その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」と言われました。もし神が解き明かしてくれなければ、それはヨハネの奇妙な体験でしかありません。しかし、自分の目で見た体験と神の言葉がひとつになって、救い主がいっそう明らかになります。ヨハネは確信して、「わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子である」と証ししたのである。「罪」とは、悪い行為というよりも、罪そのもの、人間の底に潜んでいる暗闇をさします。洗礼の水がわたしたちの罪を取り除くのではありません。罪のない「神の子」の血と聖霊だけが、わたしたちの罪を取り除くことができます。洗礼はその確かなしるしに過ぎません。主イエスは贖いの小羊として、ただ一度だけ十字架の上で死なれました。それは完全な贖いの供え物ですから、もはや祭司たちが繰り返し動物を犠牲にして、燔祭を捧げる必要はなくなりました。主イエスはわたしたちの罪を一身に引き受けてくださっただけでなく、すべての罪を完全に取り除いて下さいました。

 

 

 1月17日

「最初の弟子たち」  武 公子牧師

  サムエル記上3章1~10節

  ヨハネによる福音書1章35~51節

 

 「見よ、神の小羊だ」と師ヨハネの証しを聞いて、二人の弟子たちはイエスに従います。イエスが彼らに「何を求めているのか」と問うと、彼らは「どこに泊まっておられるのですか」と問い返します。「来なさい。そうすればわかる」。彼らはイエスのもとに泊まり、食事を共にして身をもってイエスがどのような方であるかを知ります。弟子たちが見たのは、イエスのつながり、留まっているところでした。すなわち父なる神とイエスの交わりそのものを見たのです。「泊まる」とは、自分の本来あるべき場所を見い出してそこに留まり続けることです。またそこに「つながる」ということです。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」とイエスは言われます。自分の本来あるべき場所に留まり続け、つながり続けることにより、その人は豊かに実を結びます。

 神の箱が安置された神殿で寝ていた少年サムエルは、神さまとの絶えざる交わりの中で、「サムエルは成長していった。主は彼と共におられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった。」(サムエル上3:19と書かれています。

 弟子たちはイエスに出会った体験とその喜びを分かち合うために外に出て行きます。「わたしたちはメシアに出会った」と言って、人々をイエスのもとに連れて来ます。そのようにしてイエスに「泊まる」者が次々と現れます。礼拝において、自分たちの本来あるべき場所を、主イエスの中に見い出したわたしたちもまた、その喜びをわかちあうために、「来て、見なさい」と告げるように招かれています。

 

 

 1月24日

「真理はあなたたちを自由にする」 武 公子牧師

  ヨブ記22章11~28節

  ヨハネによる福音書8章21~36節

 

 イエス・キリストの弟子であるとは、どのような人のことでしょうか。イエス様は3つあげておられます。まず「キリストの言葉に留まる」人です。次に「真理」を知る人、そしてその真理によって「自由」を得た人のことです。聖書で言う「真理」は、1+1=2という客観的な、法則的な正しさではなく、むしろ主体的な、心と霊における正しさです。「真理」の意味は、「堅固なもの」「信頼に値するもの」であって、そこから「アーメン」という言葉が生まれました。「真の神」は「必ず約束を守る方」であり、「信頼できる方」であるという信仰をもって「アーメン」と祈ります。旧約において「真理」の拠って立つところは「律法」でしたが、新約においては、滅んで死ぬほかないわたしたちに「福音」の恵みが与えられました。すなわち「真理」とはイエス・キリストご自身に他なりません。イエスさまは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)と言われます。どんなに立派な家に住んでも、自由にして暮らしてよいと言われても、もし一人だけで生きるとしたらどうでしょうか。やがては自由な生活も牢獄と感じるにちがいありません。真の自由は愛の生活と結びついていますから、向かい合って対話をする関係、言葉を介して応答しあう存在を求めます。一人だけでは決して得ることができません。たとえ質素な生活であっても、親しい人々が共にいて、その交わりを「愛」が支配するなら、自由にされた生活です。イエス・キリストが共におられることこそが、わたしたちを全く自由にします。

 

 

 1月31日

「あなたは良くなったのだ」  武 公子牧師

  ヨブ記23章1~10節

  ヨハネによる福音書5章1~18節

 

 べトザタの池の周りには病気の人、目の見えない人、体の不自由な人などが大勢横たわっていました。池に真っ先に入った者は、どんな病気でもいやされると信じられていました。そこに38年も病気で苦しんでいる人がいましたが、だれひとり彼を池の中に入れてくれる者もなく、いつも他の人が先に行ってしまいます。ここにも競争社会の宿図があります。イエスさまはその人に「良くなりたいか」と言われます。彼も例外なく神の前には罪人ですが、イエスさまはこの人の「罪」に目を留めようとはなさらないで、病める「肉体」にだけ目を留められます。その言葉に憐れみと慈しみが溢れます。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに良くなって、歩き出しました。言葉によってそれを実現させる方、すなわち神の言葉は、一度口から発せられるなら、決して空しくは戻りません。神の望まれる通りの出来事となります。

 イエスさまが敢えて、「安息日」にいやしの業を行われるのは、律法を軽んじるからではなく、本来の「安息日」の心を取り戻すためです。人を生かすためにある「安息日」が、形骸化して人を拘束し、殺すものとなっていたからです。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。」罪に留まるなら、それ自身が罪なのだから、さもないともっとひどい状態になるかもしれない。つまり、あなたは良くなったのだから主イエスに留まり続け、もう離れてはいけないという意味が込められています。しかし、癒されたこの人はイエスを裏切って、ユダヤ人たちに知らせます。安息日を破るだけでなく、イエスが神を父と呼び、自分を神と等しい者としているので、神の名を汚す者として彼らはますますイエスを殺そうとねらうようになります。来週の灰の水曜日から受難節(レント)に入ります。主イエスの十字架の死によってすべての罪を贖われ、癒された私たちは、安息日ごとに感謝と賛美の礼拝を捧げて主イエスに留まり続けます。